葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「法治主義」についてのよくある誤解

法治国家である以上、法律は守られなければならない」というようなことを言う人が少なからずいます。そういう人は、「法治主義」を遵法精神のようなものだと思っているのでしょう。しかし、「法治主義」は遵法精神のようなものではありません。

法治主義」とは、国家権力の行使は議会の制定した法律に基づかなければならないとする近代市民国家の政治原理です。かかる定義に照らせば、「法治国家である以上、法律は守られなければならない」という言説は誤りであることがわかると思います。つまり、国家権力の行使は議会の制定した法律に基づかなければならないとする近代市民国家の政治原理である「法治主義」は、法律が人民によって守られなければならないかどうかの話とは関係がないのです。そして、いわゆる形式的法治主義*1に関してよく言われる「悪法も法なり」とは、「議会の制定した法律であれば、その法律の内容までは問わない(つまり、例えば戦前日本の治安維持法のような、人権を踏みにじるような悪法でもよい)」という意味であって、ソクラテスが言ったとされる言葉の意味である「たとえ悪い法律であっても、それが存在する限りは従う必要がある」という意味ではありません。

さて、日本人の中には、日本人が見下している国を「法治国家であるわが国と違って人治主義の国だ」と揶揄する人がしばしば見受けられます。そういう人は、日本が「法治国家」だと信じて疑わないようです。しかし、人治主義の国とは、本来であれば議会の制定した法律に基づかなければならないはずのことを内閣が法律によらずに勝手に決めてしまう、日本のような国のことを言うのです。

それにしても、「法治国家」という言葉は、日本ではいつから他国を見下して悦に入るための言葉になったのでしょうか。日本人は、他国を「法治国家であるわが国と違って人治主義の国だ」と揶揄する前に、まずは本当に日本が「法治国家」であるかどうかを問い直すべきです。

*1:“「法治国家に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることができる容器のような)形式的な法律にすぎなかった。そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。もっとも、戦後のドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から実質的法治国家へと移行しており、法治主義英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。”芦部信喜憲法岩波書店