葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「戦後平和主義」の欺瞞に満ちた天皇徳仁の言葉

〈天皇陛下のお言葉全文〉「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」 全国戦没者追悼式:東京新聞デジタル

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終戦以来81年、人々のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。

ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。

 

〈天皇陛下のお言葉全文〉「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」 全国戦没者追悼式:東京新聞デジタル

案の定、天皇徳仁が全国戦没者追悼式で述べた言葉を絶賛する「リベラル」派たちが多く見受けられます。しかし、そんな「リベラル」派たちの多くが絶賛する徳仁の言葉も、私には「戦後平和主義」の欺瞞に満ちたものとしか思えません。

徳仁は、「終戦以来81年、人々のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられ」たと言います。しかし、はたして「今日のわが国の平和と繁栄」すなわち戦後日本の「平和」と「繁栄」は、日本国憲法のよって立つ恒久平和主義を体現したものであるといえるでしょうか。

米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の七〇%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 はしがき x頁)

徳仁が「終戦以来81年、人々のたゆみない努力により築き上げられ」たと言う「今日のわが国の平和」すなわち戦後日本の平和主義体制は、米国主導の国際秩序の維持・発展に伴う軍事的リスクを沖縄と韓国が負担するという、沖縄と韓国の犠牲の上に築かれたものです。

よく知られているように、いわゆる特需ブームとは何であったかです。アメリカは朝鮮戦線で莫大な物量の消耗戦を平気でやる、その武器の生産ないし修理はもっぱら日本が引受けている。日本の重工業資本は、戦後の復活のキッカケをここではじめてつかむ。特需が全体として日本の国際収支を支え、後の「高度成長」政策を可能にしていく。朝鮮戦争の犠牲の上に日本の資本主義体制、六〇年代以降につらなるその体制は築かれたのです。いま一度そのことをきわめて重い問題として考えておく必要があると思います。

 
(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』平凡社ライブラリー 270―271頁)

そして戦後日本は、憲法9条があるにもかかわらず、米国と「安全保障」に名を借りた軍事同盟を結び、皮肉な話ですが憲法9条のおかげで自らの手を血で汚すことなく朝鮮戦争(1950年~)やベトナム戦争(1960~75年)といった米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するための戦争に加担することで得た血生臭いカネを養分に日本資本主義が膨張することで繁栄してきました。これがまさに、徳仁が「終戦以来81年、人々のたゆみない努力により築き上げられ」たと言う「今日のわが国の繁栄」の正体です。
つまり、徳仁が「終戦以来81年、人々のたゆみない努力により築き上げられ」たと言う「今日のわが国の平和と繁栄」は、沖縄と朝鮮半島、さらにはベトナムの理不尽な犠牲の上に成り立つ「戦後平和主義」の欺瞞の産物なのです。徳仁の言葉は、そうしたことを隠蔽し「国民」たちに忘れさせます

徳仁は「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致」すと言いますが、徳仁はもちろん「リベラル」派の多くも、先に述べた「戦後の長きにわたる平和」に内包された矛盾から目を逸らします。しかし、そうした「戦後の長きにわたる平和」に内包された矛盾が激化したものこそが、まさに昨今の日本における軍国主義の台頭なのです。
徳仁は「深い反省」を口にしますが、いったい何を深く反省しているのでしょうか。「戦後平和主義」の欺瞞に満ちた徳仁の言葉から考えれば、それは石破前首相の「反省」*1と同様、せいぜい米国をはじめとする連合国と無謀な戦争をして、多くの犠牲を出し、無残な敗北を喫したことを反省するものでしかないでしょう。徳仁が「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継」ぐと言うように、戦後日本で語り継がれるのは戦中や戦後まもなくの占領期における日本人の苦難ばかりで、天皇制国家による戦争加害あるいは植民地支配による加害の歴史が語り継がれることは皆無に等しいと言っても過言ではありません。「リベラル」派の多くが、高市の「惨禍を繰り返させない」という言葉を批判していますが*2、徳仁の「繰り返されぬことを切に願い」という言葉も高市のそれと同様、どこか他人事です。

もちろん、こうしたことは徳仁や石破だけの問題ではありません。戦後日本の「反省」が、そうした米国をはじめとする連合国と無謀な戦争をして、多くの犠牲を出し、無残な敗北を喫したことを反省するものでしかないからこそ、「平和憲法」をないがしろにしてアジアにおける米国の覇権を維持・拡大するための「来たるべき戦争」の準備を進め、アジアを再び戦場にしようとしているのです。天皇制国家・日本は、米国をはじめとする連合国との無謀な戦争、すなわち太平洋戦争以前に、朝鮮侵略の第一歩となった江華島事件、朝鮮王宮への侵犯、甲午農民戦争での日本軍による農民虐殺、朝鮮支配めぐる戦争である日清戦争、台湾植民地支配、朝鮮支配めぐる戦争である日露戦争、朝鮮植民地支配、中国侵略の始まりである満州事変、日中戦争、日中戦争での日本軍による南京大虐殺……と、数々の過ちを重ねてきました。そうした過ちの積み重ねの延長線上に、米国をはじめとする連合国と無謀な戦争という過ちがあります。それを考えると、戦後日本が本当にするべき反省は、天皇制国家がアジアを侵略・植民地支配したことなのです。もし戦後日本が天皇制国家によるアジア侵略・植民地支配を深く反省していたなら、今日もなお天皇制国家体制が存続していることはないはずです。つまり天皇徳仁の「深い反省」も、「令和ファシズム」を推し進めるための口先だけの欺瞞でしかなく、徳仁の言葉を絶賛する「リベラル」派たちは「令和ファシズム」にまんまと絡め取られてしまっているということです。

「外国人も働いて納税し日本を支えているのだから、日本社会の一員だ」という言説の危うさ

[大弦小弦]働き納税者であり日本社会の一員である外国人 | 大弦小弦 | 沖縄タイムス+プラス

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日本社会における外国人差別に反対する言説の中には、よく「外国人も働いて納税し日本を支えているのだから、日本社会の一員だ」というものが見受けられます。

その言わんとすることはわかりますが、しかし、そうした言説に私はある種の危うさを感じざるを得ません。

スイス経済は労働者を呼んだのに、来たのは人間だった。

 

マックス・フリッシュ(Max Frisch 1911-1991)

言うまでもなく外国籍市民はロボットではなく人間ですから*1、病気やケガなどといった個人的な事情、あるいは日本社会の構造的差別により働くことができない人もいることでしょう。そして、働くことができず経済的に困窮して納税できない人もいることでしょう。日本社会の一員である条件として働くことや納税することを求めるとすれば、そうした外国籍市民たちは日本社会から排除されてしまいます。

yukito-ashibe.hatenablog.com

差別主義者の中には「働かず納税しない人間はたとえ日本人だろうと社会から排除すべきだ」と言う人もいるでしょうが、差別に反対する「リベラル」派の中にはさすがにそういうことを言う人はいないでしょう。しかし、もし差別に反対する「リベラル」派が、日本社会の一員である条件として日本人に対しては求めない働くことや納税することを外国籍市民に対して求めるのであれば、それは差別であると言わざるを得ません。

「人種、性、身分、国籍などの区別に関係なく、人間であることに基づいて当然に享有できる権利」である基本的人権が尊重される社会では、外国籍であっても、働くことができず納税することができなくても、人間である以上はその一員です。つまり、もし日本社会がそうした社会であるならば(残念ながら今の日本社会は、そうした社会ではなく排外主義の嵐が吹き荒れていますが……)、働くことができず納税することができない外国籍市民であっても当然に日本社会の一員なのです。

このように私は、働くことや納税することが日本社会の一員である条件とは考えませんが、それでもあえて外国籍市民にも納税の義務が課されていることについて言うならば、外国籍市民には納税の義務が課されているにもかかわらず地方参政権すらないことがそもそもおかしいのです。つまり、民主主義が「治者と被治者の自同性」であることを考えると、もし日本が民主主義の国であるならば、日本国籍者と同様に納税の義務を課されている「被治者」である外国籍市民にも参政権が認められてしかるべきなのです。そして、民主主義の究極目的が個人の基本的人権を確保することにあることを考えると、日本社会を外国籍市民の人権も当然に尊重される真っ当な社会にするためにも、外国籍市民の参政権を認めるべきなのです。

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外国籍市民の命を危険にさらす卑劣な差別デマ

熊本 八代 倒壊住宅から女性救出 ベトナム人ら地元住民が協力 | NHKニュース | 地震、熊本県、ベトナム

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7月28日の地震の直後、八代市興善寺町でひとり暮らしの90代の女性が倒壊した住宅に閉じ込められ、地域の住民たちが救出にあたりました。

住民の中には農業分野の特定技能の在留資格を持つベトナム人もいて、協力してがれきを取り除くなどしておよそ30分後に女性を救出しました。

 

女性を病院に搬送した西田和徳さん
「ベトナムの若者たちがいなければ、女性を助けることはできなかった。痛みを訴えていた女性を病院に届けた瞬間、助かってよかったと思った」

 

熊本 八代 倒壊住宅から女性救出 ベトナム人ら地元住民が協力 | NHKニュース | 地震、熊本県、ベトナム

地震で倒壊した住宅から90歳の女性を救出したベトナム人たちに対して、「ベトナム人が調子に乗るな」「ベトナム人が助けたというのはウソだ」といった旨の誹謗中傷が日本人たちから投げつけられています。救出したのが日本人であればそうした誹謗中傷が日本人たちから投げつけられることはないことを考えると、これは外国人差別に他なりません。

問題はそれだけではありません。

ベトナム人たちが日本人の高齢女性の命を救った一方で、インターネット上では彼ら外国籍市民の命を危険にさらす卑劣な差別デマをここぞとばかりにまき散らす日本人たちが、案の定今回の熊本地震でも少なからず見受けられます。

「外国人を熊本から追い出さないと略奪、窃盗が始まるよ」「多分外国人の火事場泥棒出る」…。X(旧ツイッター)では、地震直後からこんな根拠不明の書き込みが相次いでいる。

「こちら特報部」が熊本県警に問い合わせると「パトロールは強化しているが、外国人犯罪が増えているとの事実は確認していない」とのことだった。

 

熊本地震で「外国人犯罪が増えている事実ない」のに、なぜデマが…大災害時に繰り返されるヘイト、防ぐには:東京新聞デジタル

こうした差別デマは、「冗談」で済む話では決してありません。上掲の東京新聞の記事内で触れられているように、2011年の東日本大震災では東京の右翼団体が治安維持を理由に武装して被災地に入り、2024年の能登半島地震でも消防団がバールを手にパトロールしたことが報じられています。また、差別デマによって誘発されたヘイトクライムが日本各地で発生しています*1。そして外国人差別政策を推し進める政府の閣僚が、まるで外国人の多くが犯罪者予備軍であるかのような印象操作を率先して行っています*2。こうしたことを考えると、インターネット上の卑劣な差別デマが被災地においてヘイトクライムを誘発する可能性は決して皆無ではないのです。

卑劣な差別デマをまき散らす日本人たちの中には、そうした差別デマを「軽い冗談」だと言い訳する人もいるでしょう。しかし、外国籍市民の命を危険にさらす差別デマが「軽い冗談」としてまるで娯楽のように消費されるというのは、本当に恐ろしいことです。

日本人の多くは、関東大震災時(1923年)の朝鮮人・中国人虐殺を「遠い過去の話」だと思っているのかもしれません。しかし、災害が起こるたびに外国籍市民の命を危険にさらず卑劣な差別デマがまき散らされることを考えると、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺のような大規模災害時のジェノサイド(民族大量虐殺)は、決して「遠い過去の話」ではなく、日本社会の「今ここにある危機」なのです。

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私は天皇制の支配から私を解放するために天皇制の廃止を希求する。

皇族の不自由さを「気の毒」と思うなら解決策は一つ 「天皇制と人権」河西秀哉と木村草太が語る | AERA DIGITAL(アエラデジタル)

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木村:必然的な帰結です。「お気の毒」と考えるなら、天皇制をやめた方がいい、となります。

河西:皇族の不自由さの究極的な解決は、「制度をなくす」ですよね。時代や社会状況の変化で、制限を緩める議論も必要とは思います。でも、皇族に国民と全く同じ自由意思があるなら、皇族とは何かという存在への疑義も生じる可能性はあります。

 

皇族の不自由さを「気の毒」と思うなら解決策は一つ 「天皇制と人権」河西秀哉と木村草太が語る | AERA DIGITAL(アエラデジタル)

天皇制廃止論者の中には、人権や自由を大きく制限されている天皇や皇族が「お気の毒」だから天皇制を廃止すべきである、と主張する人が少なからず見受けられます。
人権は人間の普遍的な権利ですから、もちろん天皇や皇族の人権や自由なんてどうでもいいと言うつもりはありません。しかし、私が天皇制の廃止を希求するのは、天皇や皇族が「お気の毒」だからではありません。

天皇制および皇室制度は、神話という虚構に基づき「天皇一家」という特定の家族を特別視し、そうした特別視によって作り出される「天皇一家」の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置、すなわちそれは人間を「生まれ」によって差別し、そうして差別される人民を、差別が作り出す天皇の権威によって抑圧して支配するものです。つまり、天皇制の本質は人民に対する人権侵害であり、だからこそ天皇制を廃止すべきなのです。天皇や皇族たちが「お気の毒」だから天皇制を止めた方がいいと言う天皇制廃止論者たちは、天皇や皇族を思いやる一方で、どうして天皇制によって差別・抑圧される人民たちを無視するのでしょうか。

天皇や皇族のために天皇制を廃止すべきだと言う人たちは、もし天皇や皇族たちに「天皇制を廃止しないでくれ。我々から特権を奪わないでくれ」と懇願されたら、天皇制の廃止をあきらめるのでしょうか。そもそも天皇や皇族たちは、特権を手放して天皇制から自由になりたいと本当に思っているのでしょうか。私は天皇や皇族ではありませんから、天皇や皇族たちが本当はどう思っているかは知りません。しかし、天皇制に差別・抑圧される人民である私は、天皇制を廃止して私を天皇制の支配から解放したいことを、誰よりもよく知っています。だから私は、天皇や皇族のためではなく、天皇制に差別・抑圧される人民である私自身のために、天皇制の廃止を希求するのです。もし天皇や皇族たちに「天皇制を廃止しないでくれ。我々から特権を奪わないでくれ」と懇願されても、私は天皇制の廃止を決してあきらめません。

先に述べた人民支配装置という天皇制の本質に鑑みても、天皇制の廃止は、なによりも私たち人民が私たち自身を天皇制の支配から解放するために行うものです。それによって天皇や皇族が天皇制から自由になることは、あくまでも天皇制の支配から人民が解放されることに伴う反射的利益にすぎません

そうして私たち人民が、自分たちの手で天皇制を廃止し、自分たちを天皇制の支配から解放したとき、私たちの真の民主主義がはじまるのです。「天皇や皇族のために」というのは、臣民的な思考であって民主主義的な思考ではありません。人民たちが天皇制に支配される自分たちではなく「天皇や皇族のため」でなければ天皇制の廃止を希求できないような社会は、民主主義の精神が根付いた社会では決してありません。つまり、私たち人民が他ならぬ自分たちのために天皇制の廃止を希求することは、日本の真の民主化のためにも必要なことなのです。

もしかすると、天皇や皇族が「お気の毒」だから天皇制を廃止すべきだと言う天皇制廃止論者たちは、「国民」たちが「国民の総意」で天皇や皇族に押し付けていると思っているのかもしれません。しかし「国民の総意」というのは天皇制に抗う人民を排除して天皇制国家の「国民」を束ねるファシズムの論理であり*1、天皇制を正当化する欺瞞に過ぎません。私たち人民が天皇や皇族に対して押し付けているというのは真実ではなく、むしろ「国体護持(=天皇制国家体制の維持)」に固執する昭和天皇裕仁(徳仁の祖父)や「天皇一家」と結びついた権力者層が人民に天皇制を押し付けたのです。それゆえ、私たち人民が天皇や皇族に「負い目」を感じる必要は全くありません。私たち天皇制の支配から解放されることを希求する人民は、「天皇や皇族のため」ではなく、私たち自身のために天皇制を廃止しましょう。その方法として、日本国憲法を人権や民主主義といった人類の普遍的価値を真に体現した憲法にしたい私は、人権や民主主義といった人類の普遍的価値と敵対的に矛盾する「日本国憲法 第1章 天皇(第1条~第8条)」の改正を主張します。「護憲派リベラル」たちは日本国憲法を「日本の誇り」だと言いますが、恒久平和主義を定めた憲法9条があろうと、人権や民主主義といった人類の普遍的価値と敵対的に矛盾する「日本国憲法 第1章 天皇(第1条~第8条)」があるかぎり、日本国憲法を誇ることなど恥ずかしくて私にはとても無理です。

天皇制を続けるべきではない本質的な理由

(日曜に想う)天皇制、「なぜ」続けるのか問う 記者・有田哲文:朝日新聞

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[……]

しかし、ことこの皇位継承問題においては、政策目的は論じられていない。天皇制を「どうやって」続けるかの議論はなされても、「なぜ」続けるのかの議論はない。無理をせずに消滅したら、何が問題なのか。

記者は官僚や元官僚と話すとき、こんな問いを投げかけることがある。「天皇制はなくてもいいのではないか」。目を丸くする人もいるが、あなたの言うことも分からないわけでもない。「しかし」と続けてこう言われた。「社会を安定させるためのコストの安い仕組みだとは思う」

自然災害が起きたときに被災者を見舞う姿が、人びとを落ち着かせた。勲章や褒章なども、その権威の源は天皇にある。そうした効果が、天皇・皇族の生活費と活動費というコストで得られるなら、意味のある仕組みだというわけだ。

一つの考えではあるのだろう。しかし、ここに抜け落ちているものがある。人権や自由を制限されながら、その役割を果たす人間の人生そのものである。

[……]

皇族に生まれたいですか?あなたならどう答えるだろう。もし多くの人が「いやだ」と言い、その一方で何となく天皇制が残ってほしいと願うなら、その社会は不健全ではないだろうか。

 

(日曜に想う)天皇制、「なぜ」続けるのか問う 記者・有田哲文:朝日新聞

はじめにお断りしておきますが、私は天皇制廃止論者です。

朝日新聞の有田哲文記者が本当に天皇制廃止論者であるかどうかはわかりませんが、上掲のコラムに限って言えば、天皇制を続けるべきではないという結論においては私と有田記者は違いはないでしょう。しかし、天皇制を続けるべきではないその理由については、私は有田記者と考えを異にします。

上掲のコラムで有田記者は、天皇制を「社会を安定させるためのコストの安い仕組み」だとする天皇制肯定論者の考えについて「抜け落ちているものがあ」り、それは「人権や自由を制限されながら、その役割を果たす人間の人生そのもの」だと述べています。
人権は人間の普遍的な権利ですから、もちろん天皇や皇族の人権や自由なんてどうでもいいと言うつもりはありません。しかし、天皇制の本質に鑑みれば、天皇や皇族が人権や自由を制限されるからというのは天皇制を続けるべきではない本質的な理由ではありません。

天皇制肯定論者の考えがそうであるように、有田記者の考えにも抜け落ちているものがあります。それは、天皇制によって差別・抑圧されながら生きる人民の人生そのものです。有田記者は、天皇や皇族を思いやる一方で、どうして天皇制によって差別・抑圧される人民たちを無視するのでしょうか。

象徴天皇制の存在とその展開は、日本国憲法の保障する人権や平等を侵害する結果を生んでいる。その状況のいくつかを見てみよう。

[……]

憲法は、みだりに警察等によって身柄を拘束されたり逮捕されない権利や、自宅などがみだりに捜索されない権利、裁判を受ける権利などの人身の自由を保障している(三一条―四〇条、一八条)。しかし、実際には、「天皇制度反対者には人権なし」といった具合に捜索・逮捕等が行われており、天皇のためなら何をしてもいいといった状態が生まれている。

[……]

天皇問題が関係すると、微罪でも逮捕され、長期拘留されることが多い。

[……]八七年、海邦国体への皇太子訪沖阻止を呼びかけていた女性が、ホテルに宿泊する際に別人の名で宿泊名簿に署名したとして、私印偽造・同不正使用・旅館業法違反で皇太子訪沖の四日前に逮捕された上、この女性の属する団体の出版社・支社なども家宅捜索され、一〇日間勾留され処分保留のまま、皇太子が沖縄を去った五日後に釈放された事例も、天皇問題に絡む一種の予防拘禁と言えるだろう。

[……]

天皇・皇族に関連して、障碍者差別が現実には行われている。たとえば、天皇・皇族が地方旅行する場合である。そのときには、一九八一年の「びわこ国体」にともなう皇太子夫妻の滋賀県視察を前に、警察官が広範囲にわたって精神障害者名簿を集めようとした事例や、八三年の群馬国体を前に、群馬県警が皇族警備を理由に、特定の精神病院入院患者の外出制限を求めた事例のように(いずれも、警察は事実を否定)、精神障害者はその存在自体が危険視されている。これは、精神障害者はなにをするか分からない存在で、天皇・皇族に危害を加えかねないという、一般にも存在する差別意識に基づくものであろう。

 

(横田耕一『憲法と天皇制』岩波新書 208頁、220―222頁、229―230頁)

天皇制および皇室制度は、神話という虚構に基づき「天皇一家」という特定の家族を特別視し、そうした特別視によって作り出される「天皇一家」の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置、すなわちそれは人間を「生まれ」によって差別し、そうして差別される人民を、差別が作り出す天皇の権威によって抑圧して支配するものです。つまり、天皇制の本質は人民に対する人権侵害であり、そしてそれこそが天皇制を続けるべきではない本質的な理由なのです。私は、たとえば人権の享有主体ではない石を「天皇」にしたとしても、人民の人権を踏み躙る天皇制に反対します。

新聞・雑誌・テレビ等の報道機関における天皇の取扱いの実態も、天皇の権威を強化するように働いている。

マスメディアは、国民が興味を持っているからということを理由として、公私を問わず、天皇や皇族の行動を報道することに力を入れている。結婚式や成年式などの皇室儀式は、そのための恰好の材料であって、これらはマスメディアで常に大きく取り上げられている。そして、そのことを通じて国民は、皇室に特殊の感情を抱くようになっていく。

 

(横田耕一『憲法と天皇制』岩波新書 152頁)

「もし多くの人が(皇族に生まれることを)『いやだ』と言い、その一方で何となく天皇制が残ってほしいと願うなら、その社会は不健全ではないだろうか」と述べる有田記者は、どうやら「国民」の多くが天皇制を「国民の総意」で天皇や皇族に対して押し付けていると思っているようです。たしかに、7割を超える「国民」が(象徴)天皇制を支持しているのが「現実」です*1。。しかし、そうした「現実」は、朝日新聞をはじめとするマスメディアがこぞって「皇室プロパガンダ」を垂れ流して*2「国民」たちに「天皇一家」に対する畏敬の念を植え付けるとともに、警察が天皇制に反抗する人民を暴力的に弾圧することで*3天皇制に反抗するとどうなるか「国民」たちに知らしめることによって作り出されるものです。つまり、天皇制は「国民の総意」ではなく「皇室プロパガンダ」を垂れ流すプロパガンダ装置と天皇制に抗する人民を弾圧する暴力装置によって支えられているのです。有田記者は、まず「皇室プロパガンダ」を垂れ流している朝日新聞の皇室担当記者の皆さんに対して「皇族に生まれたいですか?」と問うてみてはいかがでしょうか。

天皇制の廃止は、天皇や皇族を天皇制から解放するために行うものでは決してありません。つまり、私たち人民が自分たちの手で人民支配の装置である天皇制を廃止することは、私たち自身を天皇制の支配から解放することなのです。「天皇や皇族のために」というのは、臣民的な思考であって民主主義的な思考ではありません。先に述べたように、有田記者は「国民」たちが「国民の総意」で天皇や皇族に押し付けていると思いたいようですが、「国民の総意」というのは天皇制に抗う人民を排除して天皇制国家の「国民」を束ねるファシズムの論理であり*4、天皇制を正当化する欺瞞に過ぎません。私たち人民が天皇や皇族に対して押し付けているというのは真実ではなく、むしろ「国体護持(=天皇制国家体制の維持)」に固執する昭和天皇裕仁(徳仁の祖父)や「天皇一家」と結びついた権力者層が人民に天皇制を押し付けたのです。それゆえ、私たち人民が天皇や皇族に「負い目」を感じる必要は全くありません。私たち人民は、私たち自身のために天皇制を廃止しましょう。そうして私たち人民が、自分たちの手で天皇制を廃止し、自分たちを天皇制の支配から解放したとき、私たちの真の民主主義がはじまるのです。

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日本国憲法第1条の「国民の総意」というファシズムの論理

皇室典範改定案撤回を/「国民の総意」と言えず/参院委で小池氏 | しんぶん赤旗|日本共産党

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日本共産党の小池晃書記局長は6日の参院決算委員会で、政府が提出した皇室典範改定案について取り上げました。天皇の制度は憲法の条項と精神に基づいて議論・検討すべきで、「男系男子」による継承ありきで女性天皇の可能性を閉ざす改定案は「国民の総意」に基づいておらず、「旧宮家」の男系男子を皇族の養子に迎えることは国民の理解が得られないと指摘し、法案は撤回すべきだと述べました。

 

皇室典範改定案撤回を/「国民の総意」と言えず/参院委で小池氏 | しんぶん赤旗|日本共産党

日本国憲法

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

日本共産党をはじめとする日本「リベラル」派たちは、女性天皇に賛成する「国民」の声の多さ*1を理由に、自民党政権の「皇室典範改定案」を「『国民の総意』に基づいていない」と批判します。

たしかに、報道各社の世論調査に鑑みれば女性天皇に賛成するというのが多数の「国民」の声のようですし、それゆえに「女性天皇」を認めるのが「国民の総意」に沿うようにも思えます。

しかし、そもそも日本「リベラル」派たちが援用する日本国憲法第1条の「国民の総意」とは一体何なのでしょうか。

しかし、「国民の総意」を神秘化して、国民の手に届かないところに置こうとする動きがないわけではない。すあわち、ある論者は、これはルソーのいう「ヴォロンテ・ジェネラール(普遍意思)」と同様のものであって、「常に正しい意思」であるとか、「常に公共の福祉を表現しようとする意思」であるとかと説明する。この結果、天皇の地位についてときどきの国民は安易に云々すべきものではないこととされ、「常に正しい意思」が象徴天皇制を選んだ以上、天皇制度の廃止などはおよそ問題にもならないとされる。

けれども、この言葉を、そのように複雑かつ神秘的に考える必要はまったくないし、考えるべきでもない。単純に、「国民の大方の意思」と考えればいいのである。逆に、「国民の総意」とは、「国民すべて」という意味でもない。憲法制定時にも、天皇廃止論が存在したことから分かるように、国民の一部に象徴天皇制に反対する者が存在するとしても、それが憲法改正意思として現れない限り、国民の総意は象徴天皇制を選択しているのである。

 

(横田耕一『憲法と天皇制』岩波新書 24頁)

憲法学者の横田耕一先生は、日本国憲法第1条の「国民の総意」を「国民すべて」という意味ではなく「国民の大方の意思」と考えればいいとおっしゃいます。「国民の総意」を「国民すべて」と考えるべきではないのは、もちろんその通りです。しかし、「国民の大方の意思」と考えればいいというのも、後述するように日本国憲法の構造的欠陥である第1条を救済するための「善意の解釈」に過ぎません。

偶然「日本国籍者」として生まれた私は、法的には「国民」ですが、しかし女性天皇に賛成か否か以前に天皇制そのものに反対です。そんな私は「非国民」なのでしょうか。それならそれでもちろん結構ですが、これは決して私が「非国民」であることを受容すれば済む話ではありません。つまり、日本国憲法第1条の「国民の総意」とは、私のような天皇制廃止を主張する人民を「国民に非ず」ものとして排除したうえで、天皇制を肯定する多くの「国民」の声をもとに「数の論理」で「国民の総意」を擬制して「サイレント・マジョリティ」を包摂し、人民に対する身分差別である天皇制の存続を正当化する、「排除と包摂」のファシズムの論理なのです。そうした「国民の総意」をどのように考えようが、「天皇の地位についてときどきの国民は安易に云々すべきものではないこととされ、『常に正しい意思』が象徴天皇制を選んだ以上、天皇制度の廃止などはおよそ問題にもならないとされる」ことは、「皇室典範改定案」をめぐる議論で天皇制の廃止が徹底的に無視されている現実に鑑みれば明らかです。

神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制は、人民に対する人権侵害であり、そうした人権侵害を「国民の総意」というファシズムの論理で正当化する日本国憲法第1条は、日本国憲法の基本原理である基本的人権の尊重と敵対的に矛盾します。つまり人民に対する身分差別である天皇制という反人権的な制度を定めた第1条は、基本的人権の尊重を基本原理とする日本国憲法の構造的欠陥であると言わざるを得ないのです。

日本国憲法第1条の「国民の総意」というファシズムの論理に疑問を抱かない日本「リベラル」派たちは、いったい人権を何だと思っているのでしょうか。人権とは、人間が人間であることから当然に有する権利です。つまり人権は「国民の権利」ではなく人間の権利であり、そうした人間の権利を「国民の総意」というファシズムの論理で奪うことは許されません。そして、天皇制によって最も差別・抑圧されるのが「国民」ではない人民である*2ことを考えると、天皇制を「国民の総意」で正当化することはなおのこと許されないのです。

自民党政権の「皇室典範改定案」を「『国民の総意』に基づいていない」と批判する日本「リベラル」派たちは、きっと「女性天皇に賛成多数が『民意』なのだから、その『民意』に従って女性天皇を認めるのが『民主主義』だ」と言うでしょう。しかし、そもそも人民に対する身分差別である天皇制は、自由および平等を大前提とする民主主義とは決して相いれません。つまり、人民に対する身分差別である天皇制を「民主主義」で正当化することは決してできないのです。天皇制の存続を望む日本「リベラル」派たちは認めたくないでしょうが、天皇制が存続する限り日本が真の民主化を遂げることはありません

日本「リベラル」派たちの多くは、憲法上の制度である天皇制を尊重するのが「護憲」だと思っているようですが、はたして日本国憲法の構造的欠陥を放置することが「護憲」なのでしょうか。もしそうなら、私は「護憲派」ではありません。日本国憲法という「器」よりも人権や民主主義といった「中身」を大切にする私は、制憲権者の一人として、人権や民主主義といった人類の普遍的価値と敵対的に矛盾する「日本国憲法 第1章 天皇(第1条~第8条)」の改正を主張します。女性天皇を認めれば皇族の女性差別は解消かもしれませんが、それで人民に対する身分差別が解消されることは決してありません。いま本当に必要なことは、女性天皇を認めることではなく、天皇制を廃止して人民に対する身分差別を解消することであり、そしてそれこそが日本国憲法を人権や民主主義といった人類の普遍的価値を真に体現した憲法にするために必要なことなのです

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『証言・北朝鮮帰国者』(集英社新書)を読んでの率直な感想

「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』(集英社新書)

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初めにお断りしておきますが、本稿は「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』(集英社新書)に対する批判的な感想を含みます。もちろん、私も目を覆いたくなるような朝鮮政府による人権侵害を許容するつもりなど全くありませんし、本書が日本人の「北朝鮮」に対する「悪魔視」を助長するというつもりなども全くありません。しかし、それでも本書の読者たちの多くのように本書を手放しで賞賛することは、私にはどうしてもできないのです。

もしかすると本稿は、朝鮮政府と朝鮮総聯の責任を追及する人たちの反感を買い、あるいは「共和国」を支持する人たちに都合よく援用されるかもしれません。そうしたことを恐れず、自称「平和国家」の戦後日本に偶然「日本国民」として生まれ、そして「帰国事業」と無関係ではなかった在日コリアン*1の子として生まれた私の本書に対する率直な感想を、これから述べていきたいと思います。

あらためて、日本人、日本社会の責任は何かを考える。朝鮮人への差別と貧困がなかったら、あれだけの数は帰らなかったはずだという考えに100%同意する。だが、そこで思考を停めたくない。経済的条件がまったく整っていないのに「帰って来い」と呼びかけ、一人独裁体制を敷き、経済を破綻させながら国から出られないようにした金日成政権と、誇張と虚偽によって帰国を勧誘宣伝した総聯の責任について、目を逸らしてはならないと思う。

 

(「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』 集英社新書 516頁)

「朝鮮人への差別と貧困がなかったら、あれだけの数は帰らなかったはずだ」というところで思考を停めてはならないというのも、金日成政権と朝鮮総聯の責任について目を逸らしてはならないというのも、もちろん執筆者の一人である石丸次郎さんのおっしゃる通りです。しかし、むしろ私は自称「平和国家」の戦後日本に偶然「日本国民」として生まれた一人として、「金日成政権と朝鮮総聯の責任について目を逸らしてはならない」というところで思考を停めたくありません。石丸次郎さんの認識とは異なり、「朝鮮人への差別と貧困がなかったら、あれだけの数は帰らなかったはずだ」というところで思考を停めてしまっている「日本人」はごく一部の左派であり、「リベラル」派を含む大多数の「日本人」は「『平和』で『豊か』な我が国と違って『北朝鮮』は本当にひどい国だ」というところで思考を停めてしまっているのが実際のところです。

金日成政権と朝鮮総聯の責任を不問に付してはならないことは言うまでもありませんが、しかし「日本人、日本社会の責任は何かを考える」うえで「日本人」が目を逸らしてはならないのは、はたしてそこなのでしょうか。

鼻をつく強烈な臭い、日焼けして真っ黒な肌、所構わず用を足す子供たち――70年代帰国者たちは、60年代帰国者と同じく清津港、そして配属先で強烈なショックを受けている。高度経済成長を遂げた日本との生活水準の落差は甚だしかった。加えて、「なんで帰って来た?」という嘲笑交じりの声に後悔を募らせた。

 

(「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』 集英社新書 343頁)

本書では、帰国者の証言をもとに所々で「『豊かな日本』と『貧しい北朝鮮』」という構図が描かれています。

「『豊かな日本』と『貧しい北朝鮮』」というのは単純な事実としてはたしかにその通りでしょうし、まずは帰国者の証言をありのままに受け止めるのが読者のとるべき態度かもしれません。しかし、少なくとも「日本人」の読者たちは、「『豊かな日本』と『貧しい北朝鮮』」という構図を留保なく受け入れるべきではありません。なぜなら、「朝鮮特需」という言葉があることからもわかるように、戦後日本の「高度成長」は、日本が「平和国家」を自称するにもかかわらず朝鮮戦争(1950年~)に米国の兵站基地として加担することで得た血生臭いカネを養分に「繁栄」したものだからです。つまり「北朝鮮」の「貧しさ」に対する日本の「豊かさ」は、まさに朝鮮半島を犠牲にして得られたものであり、それは「日本人、日本社会の責任は何かを考える」うえで「日本人」が目を逸らしてはならないことの一つです。

「北朝鮮」の「貧しさ」についても、金日成政権の失政が最大の要因であることは間違いありません。しかし、私はそこで思考を停めたくありません。1960年代の当時、朝鮮と同様に独裁国家であり、一時は朝鮮よりも貧しかった韓国は、1965年に確立された新植民地主義的な「日韓1965年体制」で得た5億ドルの経済協力資金を「カンフル剤」として「高度経済成長」を遂げました。一方、韓国と同じく日本に植民地支配された朝鮮半島の国(日本は朝鮮を国と認めていませんが)である朝鮮に対して、日本が植民地支配の賠償をしたことはついぞありません。もちろん、もし日本が朝鮮に対して植民地支配の賠償をしたとしても、それによって非資本主義国の朝鮮が資本主義国の韓国と同様に経済発展するという保証はありませんが、しかしそれによって朝鮮が全く経済発展しないと断言することもできません。つまり、朝鮮の「貧しさ」を考えるにあたっては、日本も決して無関係ではない朝鮮半島の分断構造を看過することはできないのです。金日成政権が在日コリアンに対して経済的条件がまったく整っていないのに「帰って来い」と呼びかけたことの根底にも、まさに朝鮮半島の分断構造があります。

こうした朝鮮半島の分断構造についてさらにいえば、帰国者の中には、日本共産党員の経歴*2ゆえに反共国家である「南」の故郷に帰ることができず、やむなく「北」に「帰国」した人もいたことでしょう。事実、「北」で多くの帰国者が韓国や日本のスパイの疑いをかけられて粛清されたのと同じように、「南」では多くの在日コリアンの留学生が独裁政権により「北朝鮮のスパイ」に仕立て上げられ長期間投獄されました*3

こうしてみると「帰国事業」の背景には、日本社会の差別構造はもちろん、朝鮮半島の分断構造、さらには「東西冷戦体制」解体後も残存する東アジア冷戦構造といった、様々な構造があることが分かります。

帰国事業が在日に残した傷はあまりに大きく深い。北朝鮮には今も帰国者が生きており、日本に戻ってくる日が来るかもしれない。在日家族の中には、肉親恋しさと心配に身悶えしながら、声を上げられない人が大勢いる。問題は今も進行している。

 

(「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』 集英社新書 516頁)

今も進行している「帰国事業」の問題を解決するうえで「経済的条件がまったく整っていないのに「帰って来い」と呼びかけ、一人独裁体制を敷き、経済を破綻させながら国から出られないようにした金日成政権と、誇張と虚偽によって帰国を勧誘宣伝した総聯の責任」を問うことは、もちろん必要不可欠です。しかし、上に述べた構造を無視して今も進行している「帰国事業」の問題を根本的に解決することは決してできません。もし本書の目的が究極的には朝鮮政府と朝鮮総聯の許し難い大罪を告発することにあるならば、「帰国事業」の背景にある様々な構造はむしろそのために捨象すべきことなのかもしれません。しかし、(『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』(集英社クリエイティブ)の著者である徐台教さんの言葉を借りて言えば)「すべての人間が人間らしく暮らす朝鮮半島」そして「すべての人間が人間らしく暮らす日本列島」さらには「すべての人間が人間らしく暮らす東アジア」の実現を希求する私は、朝鮮政府と朝鮮総聯の断罪で思考を停めたくありません。

ここで改めて「日本人、日本社会の責任は何か」を考えてみると、「日本人、日本社会の責任」は、多くの在日コリアンを帰国に駆り立てた「朝鮮人への差別と貧困」についての責任だけでははく、天皇制国家による朝鮮植民地支配についての責任と、今もなお天皇制国家を存続させていることについての責任です。先に述べたように日本は、天皇制国家による朝鮮植民地支配の責任を韓国だけでなく朝鮮に対しても未だ果たしていませんが、日本がそうした責任を朝鮮に対して果たすことは、朝鮮政府と朝鮮総聯の責任を問うための大前提です。もちろん、日本の政府が植民地支配責任を朝鮮に対して果たさなければ個々の日本人が朝鮮政府と朝鮮総聯の責任を問うてはならないということはありません。しかし朝鮮政府と朝鮮総聯の責任を問う個々の日本人たちが、同時に日本の朝鮮に対する植民地支配責任を問わない理由もありません。そして、先に述べたように戦後日本の「豊かさ」は、「平和国家」を自称するにもかかわらず朝鮮戦争に米国の兵站基地として加担し朝鮮半島を犠牲にして得たものですが、その根底にある日米軍事同盟さらには東アジア冷戦構造を必要としているのは、他ならぬ「平和国家」を自称する日本の天皇制国家体制です。つまり「地上の楽園・朝鮮共和国」が虚構であるならば、「平和国家・日本」もまた虚構であるのです。

今も進行している「帰国事業」の問題を根本的に解決するために必要なのは、やはり朝鮮半島の分断構造そして残存する東アジアの冷静構造を解消し、「すべての人間が人間らしく暮らす朝鮮半島」そして「すべての人間が人間らしく暮らす日本列島」さらには「すべての人間が人間らしく暮らす東アジア」を実現することです。

もしかすると、本書を読んだ「日本人」の読者の中には「悪魔のような『北朝鮮』を日・米・韓が協力して武力により打倒すれば、朝鮮半島の分断構造を解消することができるだろう」と思う人がいるかもしれません。しかし、朝鮮戦争が今も終わっていないことに鑑みれば、武力で朝鮮半島の分断構造を解消することができないのは明白です。

かくいう私も、どうすれば朝鮮半島の分断構造そして残存する東アジアの冷静構造を解消することができるか、という問いに対する明確な答えを持ち合わせていません。しかし「すべての人間が人間らしく暮らす朝鮮半島」そして「すべての人間が人間らしく暮らす日本列島」さらには「すべての人間が人間らしく暮らす東アジア」の実現を諦められない私は、徐台教さんの『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』(集英社クリエイティブ)を座右に置き、これからも朝鮮半島の分断構造そして残存する東アジアの冷静構造を解消し、「すべての人間が人間らしく暮らす朝鮮半島」そして「すべての人間が人間らしく暮らす日本列島」さらには「すべての人間が人間らしく暮らす東アジア」を実現することを、朝鮮半島にルーツを持つ一人の人間として希求し続けます。

その行く先は、北朝鮮との信頼回復を得て二〇〇〇年代のように南北交流を再開するかたちや、北朝鮮を朝鮮民主主義人民共和国という国家として認め、新たな関係を構築するというかたちに開かれている。

いずれも分断を解消する「過程としての統一」に合致するが、南北関係は相手がいる話であるため、後者を模索する時期が来たのではないかと考えている。
むろんこの選択があらゆる問題を解決してくれるわけではない。

だが国家として認めることと、北朝鮮住民が人間らしい暮らしをできるように手助けすることは両立しうる。この部分での協力に参加することを、在日コリアンそして世界のコリアンが手ぐすねを引いて待っているのではないか。その可能性の先に、新しい朝鮮半島のかたちが見えてくるのではないだろうか。

 

(徐台教 『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』 集英社クリエイティブ 313―314頁)

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*1:1960年代の終わりに東京朝鮮中高級学校(東京朝高)に在学していた私の亡母は、朝鮮総聯に「祖国」へ「帰国」するよう強迫され、それが原因で東京朝高を中退しました。もし私の母がその時「帰国」していたら、私は今この世界に存在しなかったでしょう。

*2:220頁の「日本共産党員であれば、北朝鮮帰国後に労働党員になれるわけだ。」という記述には一部誤謬があります。というのは、在日朝鮮人党員が離党を強いられた1955年のいわゆる「六全協」後は、在日朝鮮人が日本共産党に入党することはできず、それゆえ1959年以降の帰国者には「元・日本共産党員」はいても現役の日本共産党員はいなかったはずだからです。おそらく有元俊さんや全文子さんの弟さんは、元・日本共産党員の帰国者が優先的に朝鮮労働党員になれたことを「『転籍』扱いになった」(220頁)と誤解したのでしょう。たしかに「『転籍』扱いになった」という記述は有元俊さんの言葉ですが、しかし「日本共産党員であれば、北朝鮮帰国後に労働党員になれるわけだ。」という記述は執筆者の言葉です。したがって、それが本書の趣旨に従って有元俊さんや全文子さんの弟さんの証言に忠実に記述したものであるならば、誤解に基づくものである旨の注釈を付けるべきです。本書の趣旨からすれば取るに足らない誤謬であり、「日本人」の執筆者や編集者にとっては無視しうる程度のものなのかもしれませんが、しかしそれは日本共産党による在日朝鮮人差別を無視するものなので、日本共産党に差別された在日朝鮮人党員の孫である私にはどうしても看過できませんでした。

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*3:「北のスパイ」で死刑囚に 在日韓国人元政治犯 事件50年で集会 [大阪府]:朝日新聞