葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本国憲法第1条の「国民の総意」というファシズムの論理

皇室典範改定案撤回を/「国民の総意」と言えず/参院委で小池氏 | しんぶん赤旗|日本共産党

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日本共産党の小池晃書記局長は6日の参院決算委員会で、政府が提出した皇室典範改定案について取り上げました。天皇の制度は憲法の条項と精神に基づいて議論・検討すべきで、「男系男子」による継承ありきで女性天皇の可能性を閉ざす改定案は「国民の総意」に基づいておらず、「旧宮家」の男系男子を皇族の養子に迎えることは国民の理解が得られないと指摘し、法案は撤回すべきだと述べました。

 

皇室典範改定案撤回を/「国民の総意」と言えず/参院委で小池氏 | しんぶん赤旗|日本共産党

日本国憲法

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

日本共産党をはじめとする日本「リベラル」派たちは、女性天皇に賛成する「国民」の声の多さ*1を理由に、自民党政権の「皇室典範改定案」を「『国民の総意』に基づいていない」と批判します。

たしかに、報道各社の世論調査に鑑みれば女性天皇に賛成するというのが多数の「国民」の声のようですし、それゆえに「女性天皇」を認めるのが「国民の総意」に沿うようにも思えます。

しかし、そもそも日本「リベラル」派たちが援用する日本国憲法第1条の「国民の総意」とは一体何なのでしょうか。

しかし、「国民の総意」を神秘化して、国民の手に届かないところに置こうとする動きがないわけではない。すあわち、ある論者は、これはルソーのいう「ヴォロンテ・ジェネラール(普遍意思)」と同様のものであって、「常に正しい意思」であるとか、「常に公共の福祉を表現しようとする意思」であるとかと説明する。この結果、天皇の地位についてときどきの国民は安易に云々すべきものではないこととされ、「常に正しい意思」が象徴天皇制を選んだ以上、天皇制度の廃止などはおよそ問題にもならないとされる。

けれども、この言葉を、そのように複雑かつ神秘的に考える必要はまったくないし、考えるべきでもない。単純に、「国民の大方の意思」と考えればいいのである。逆に、「国民の総意」とは、「国民すべて」という意味でもない。憲法制定時にも、天皇廃止論が存在したことから分かるように、国民の一部に象徴天皇制に反対する者が存在するとしても、それが憲法改正意思として現れない限り、国民の総意は象徴天皇制を選択しているのである。

 

(横田耕一『憲法と天皇制』岩波新書 24頁)

憲法学者の横田耕一先生は、日本国憲法第1条の「国民の総意」を「国民すべて」という意味ではなく「国民の大方の意思」と考えればいいとおっしゃいます。「国民の総意」を「国民すべて」と考えるべきではないのは、もちろんその通りです。しかし、「国民の大方の意思」と考えればいいというのも、後述するように日本国憲法の構造的欠陥である第1条を救済するための「善意の解釈」に過ぎません。

偶然「日本国籍者」として生まれた私は、法的には「国民」ですが、しかし女性天皇に賛成か否か以前に天皇制そのものに反対です。そんな私は「非国民」なのでしょうか。それならそれでもちろん結構ですが、これは決して私が「非国民」であることを受容すれば済む話ではありません。つまり、日本国憲法第1条の「国民の総意」とは、私のような天皇制廃止を主張する人民を「国民に非ず」ものとして排除したうえで、天皇制を肯定する多くの「国民」の声をもとに「数の論理」で「国民の総意」を擬制して「サイレント・マジョリティ」を包摂し、人民に対する身分差別である天皇制の存続を正当化する、「排除と包摂」のファシズムの論理なのです。そうした「国民の総意」をどのように考えようが、「天皇の地位についてときどきの国民は安易に云々すべきものではないこととされ、『常に正しい意思』が象徴天皇制を選んだ以上、天皇制度の廃止などはおよそ問題にもならないとされる」ことは、「皇室典範改定案」をめぐる議論で天皇制の廃止が徹底的に無視されている現実に鑑みれば明らかです。

神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制は、人民に対する人権侵害であり、そうした人権侵害を「国民の総意」というファシズムの論理で正当化する日本国憲法第1条は、日本国憲法の基本原理である基本的人権の尊重と敵対的に矛盾します。つまり人民に対する身分差別である天皇制という反人権的な制度を定めた第1条は、基本的人権の尊重を基本原理とする日本国憲法の構造的欠陥であると言わざるを得ないのです。

日本国憲法第1条の「国民の総意」というファシズムの論理に疑問を抱かない日本「リベラル」派たちは、いったい人権を何だと思っているのでしょうか。人権とは、人間が人間であることから当然に有する権利です。つまり人権は「国民の権利」ではなく人間の権利であり、そうした人間の権利を「国民の総意」というファシズムの論理で奪うことは許されません。そして、天皇制によって最も差別・抑圧されるのが「国民」ではない人民である*2ことを考えると、天皇制を「国民の総意」で正当化することはなおのこと許されないのです。

自民党政権の「皇室典範改定案」を「『国民の総意』に基づいていない」と批判する日本「リベラル」派たちは、きっと「女性天皇に賛成多数が『民意』なのだから、その『民意』に従って女性天皇を認めるのが『民主主義』だ」と言うでしょう。しかし、そもそも人民に対する身分差別である天皇制は、自由および平等を大前提とする民主主義とは決して相いれません。つまり、人民に対する身分差別である天皇制を「民主主義」で正当化することは決してできないのです。天皇制の存続を望む日本「リベラル」派たちは認めたくないでしょうが、天皇制が存続する限り日本が真の民主化を遂げることはありません

日本「リベラル」派たちの多くは、憲法上の制度である天皇制を尊重するのが「護憲」だと思っているようですが、はたして日本国憲法の構造的欠陥を放置することが「護憲」なのでしょうか。もしそうなら、私は「護憲派」ではありません。日本国憲法という「器」よりも人権や民主主義といった「中身」を大切にする私は、制憲権者の一人として、人権や民主主義といった人類の普遍的価値と敵対的に矛盾する「日本国憲法 第1章 天皇(第1条~第8条)」の改正を主張します。女性天皇を認めれば皇族の女性差別は解消かもしれませんが、それで人民に対する身分差別が解消されることは決してありません。いま本当に必要なことは、女性天皇を認めることではなく、天皇制を廃止して人民に対する身分差別を解消することであり、そしてそれこそが日本国憲法を人権や民主主義と言った人類の普遍的価値を真に体現した憲法にするために必要なことなのです

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『証言・北朝鮮帰国者』(集英社新書)を読んでの率直な感想

「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』(集英社新書)

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初めにお断りしておきますが、本稿は「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』(集英社新書)に対する批判的な感想を含みます。もちろん、私も目を覆いたくなるような朝鮮政府による人権侵害を許容するつもりなど全くありませんし、本書が日本人の「北朝鮮」に対する「悪魔視」を助長するというつもりなども全くありません。しかし、それでも本書の読者たちの多くのように本書を手放しで賞賛することは、私にはどうしてもできないのです。

もしかすると本稿は、朝鮮政府と朝鮮総聯の責任を追及する人たちの反感を買い、あるいは「共和国」を支持する人たちに都合よく援用されるかもしれません。そうしたことを恐れず、自称「平和国家」の戦後日本に偶然「日本国民」として生まれ、そして「帰国事業」と無関係ではなかった在日コリアン*1の子として生まれた私の本書に対する率直な感想を、これから述べていきたいと思います。

あらためて、日本人、日本社会の責任は何かを考える。朝鮮人への差別と貧困がなかったら、あれだけの数は帰らなかったはずだという考えに100%同意する。だが、そこで思考を停めたくない。経済的条件がまったく整っていないのに「帰って来い」と呼びかけ、一人独裁体制を敷き、経済を破綻させながら国から出られないようにした金日成政権と、誇張と虚偽によって帰国を勧誘宣伝した総聯の責任について、目を逸らしてはならないと思う。

 

(「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』 集英社新書 516頁)

「朝鮮人への差別と貧困がなかったら、あれだけの数は帰らなかったはずだ」というところで思考を停めてはならないというのも、金日成政権と朝鮮総聯の責任について目を逸らしてはならないというのも、もちろん執筆者の一人である石丸次郎さんのおっしゃる通りです。しかし、むしろ私は自称「平和国家」の戦後日本に偶然「日本国民」として生まれた一人として、「金日成政権と朝鮮総聯の責任について目を逸らしてはならない」というところで思考を停めたくありません。石丸次郎さんの認識とは異なり、「朝鮮人への差別と貧困がなかったら、あれだけの数は帰らなかったはずだ」というところで思考を停めてしまっている「日本人」はごく一部の左派であり、「リベラル」派を含む大多数の「日本人」は「『平和』で『豊か』な我が国と違って『北朝鮮』は本当にひどい国だ」というところで思考を停めてしまっているのが実際のところです。

金日成政権と朝鮮総聯の責任を不問に付してはならないことは言うまでもありませんが、しかし「日本人、日本社会の責任は何かを考える」うえで「日本人」が目を逸らしてはならないのは、はたしてそこなのでしょうか。

鼻をつく強烈な臭い、日焼けして真っ黒な肌、所構わず用を足す子供たち――70年代帰国者たちは、60年代帰国者と同じく清津港、そして配属先で強烈なショックを受けている。高度経済成長を遂げた日本との生活水準の落差は甚だしかった。加えて、「なんで帰って来た?」という嘲笑交じりの声に後悔を募らせた。

 

(「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』 集英社新書 343頁)

本書では、帰国者の証言をもとに所々で「『豊かな日本』と『貧しい北朝鮮』」という構図が描かれています。

「『豊かな日本』と『貧しい北朝鮮』」というのは単純な事実としてはたしかにその通りでしょうし、まずは帰国者の証言をありのままに受け止めるのが読者のとるべき態度かもしれません。しかし、少なくとも「日本人」の読者たちは、「『豊かな日本』と『貧しい北朝鮮』」という構図を留保なく受け入れるべきではありません。なぜなら、「朝鮮特需」という言葉があることからもわかるように、戦後日本の「高度成長」は、日本が「平和国家」を自称するにもかかわらず朝鮮戦争(1950年~)に米国の兵站基地として加担することで得た血生臭いカネを養分に「繁栄」したものだからです。つまり「北朝鮮」の「貧しさ」に対する日本の「豊かさ」は、まさに朝鮮半島を犠牲にして得られたものであり、それは「日本人、日本社会の責任は何かを考える」うえで「日本人」が目を逸らしてはならないことの一つです。

「北朝鮮」の「貧しさ」についても、金日成政権の失政が最大の要因であることは間違いありません。しかし、私はそこで思考を停めたくありません。1960年代の当時、朝鮮と同様に独裁国家であり、一時は朝鮮よりも貧しかった韓国は、1965年に確立された新植民地主義的な「日韓1965年体制」で得た5億ドルの経済協力資金を「カンフル剤」として「高度経済成長」を遂げました。一方、韓国と同じく日本に植民地支配された朝鮮半島の国(日本は朝鮮を国と認めていませんが)である朝鮮に対して、日本が植民地支配の賠償をしたことはついぞありません。もちろん、もし日本が朝鮮に対して植民地支配の賠償をしたとしても、それによって非資本主義国の朝鮮が資本主義国の韓国と同様に経済発展するという保証はありませんが、しかしそれによって朝鮮が全く経済発展しないと断言することもできません。つまり、朝鮮の「貧しさ」を考えるにあたっては、日本も決して無関係ではない朝鮮半島の分断構造を看過することはできないのです。金日成政権が在日コリアンに対して経済的条件がまったく整っていないのに「帰って来い」と呼びかけたことの根底にも、まさに朝鮮半島の分断構造があります。

こうした朝鮮半島の分断構造についてさらにいえば、帰国者の中には、日本共産党員の経歴*2ゆえに反共国家である「南」の故郷に帰ることができず、やむなく「北」に「帰国」した人もいたことでしょう。事実、「北」で多くの帰国者が韓国や日本のスパイの疑いをかけられて粛清されたのと同じように、「南」では多くの在日コリアンの留学生が独裁政権により「北朝鮮のスパイ」に仕立て上げられ長期間投獄されました*3

こうしてみると「帰国事業」の背景には、日本社会の差別構造はもちろん、朝鮮半島の分断構造、さらには「東西冷戦体制」解体後も残存する東アジア冷戦構造といった、様々な構造があることが分かります。

帰国事業が在日に残した傷はあまりに大きく深い。北朝鮮には今も帰国者が生きており、日本に戻ってくる日が来るかもしれない。在日家族の中には、肉親恋しさと心配に身悶えしながら、声を上げられない人が大勢いる。問題は今も進行している。

 

(「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会編 『証言・北朝鮮帰国者』 集英社新書 516頁)

今も進行している「帰国事業」の問題を解決するうえで「経済的条件がまったく整っていないのに「帰って来い」と呼びかけ、一人独裁体制を敷き、経済を破綻させながら国から出られないようにした金日成政権と、誇張と虚偽によって帰国を勧誘宣伝した総聯の責任」を問うことは、もちろん必要不可欠です。しかし、上に述べた構造を無視して今も進行している「帰国事業」の問題を根本的に解決することは決してできません。もし本書の目的が究極的には朝鮮政府と朝鮮総聯の許し難い大罪を告発することにあるならば、「帰国事業」の背景にある様々な構造はむしろそのために捨象すべきことなのかもしれません。しかし、(『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』(集英社クリエイティブ)の著者である徐台教さんの言葉を借りて言えば)「すべての人間が人間らしく暮らす朝鮮半島」そして「すべての人間が人間らしく暮らす日本列島」さらには「すべての人間が人間らしく暮らす東アジア」の実現を希求する私は、朝鮮政府と朝鮮総聯の断罪で思考を停めたくありません。

ここで改めて「日本人、日本社会の責任は何か」を考えてみると、「日本人、日本社会の責任」は、多くの在日コリアンを帰国に駆り立てた「朝鮮人への差別と貧困」についての責任だけでははく、天皇制国家による朝鮮植民地支配についての責任と、今もなお天皇制国家を存続させていることについての責任です。先に述べたように日本は、天皇制国家による朝鮮植民地支配の責任を韓国だけでなく朝鮮に対しても未だ果たしていませんが、日本がそうした責任を朝鮮に対して果たすことは、朝鮮政府と朝鮮総聯の責任を問うための大前提です。もちろん、日本の政府が植民地支配責任を朝鮮に対して果たさなければ個々の日本人が朝鮮政府と朝鮮総聯の責任を問うてはならないということはありません。しかし朝鮮政府と朝鮮総聯の責任を問う個々の日本人たちが、同時に日本の朝鮮に対する植民地支配責任を問わない理由もありません。そして、先に述べたように戦後日本の「豊かさ」は、「平和国家」を自称するにもかかわらず朝鮮戦争に米国の兵站基地として加担し朝鮮半島を犠牲にして得たものですが、その根底にある日米軍事同盟さらには東アジア冷戦構造を必要としているのは、他ならぬ「平和国家」を自称する日本の天皇制国家体制です。つまり「地上の楽園・朝鮮共和国」が虚構であるならば、「平和国家・日本」もまた虚構であるのです。

今も進行している「帰国事業」の問題を根本的に解決するために必要なのは、やはり朝鮮半島の分断構造そして残存する東アジアの冷静構造を解消し、「すべての人間が人間らしく暮らす朝鮮半島」そして「すべての人間が人間らしく暮らす日本列島」さらには「すべての人間が人間らしく暮らす東アジア」を実現することです。

もしかすると、本書を読んだ「日本人」の読者の中には「悪魔のような『北朝鮮』を日・米・韓が協力して武力により打倒すれば、朝鮮半島の分断構造を解消することができるだろう」と思う人がいるかもしれません。しかし、朝鮮戦争が今も終わっていないことに鑑みれば、武力で朝鮮半島の分断構造を解消することができないのは明白です。

かくいう私も、どうすれば朝鮮半島の分断構造そして残存する東アジアの冷静構造を解消することができるか、という問いに対する明確な答えを持ち合わせていません。しかし「すべての人間が人間らしく暮らす朝鮮半島」そして「すべての人間が人間らしく暮らす日本列島」さらには「すべての人間が人間らしく暮らす東アジア」の実現を諦められない私は、徐台教さんの『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』(集英社クリエイティブ)を座右に置き、これからも朝鮮半島の分断構造そして残存する東アジアの冷静構造を解消し、「すべての人間が人間らしく暮らす朝鮮半島」そして「すべての人間が人間らしく暮らす日本列島」さらには「すべての人間が人間らしく暮らす東アジア」を実現することを、朝鮮半島にルーツを持つ一人の人間として希求し続けます。

その行く先は、北朝鮮との信頼回復を得て二〇〇〇年代のように南北交流を再開するかたちや、北朝鮮を朝鮮民主主義人民共和国という国家として認め、新たな関係を構築するというかたちに開かれている。

いずれも分断を解消する「過程としての統一」に合致するが、南北関係は相手がいる話であるため、後者を模索する時期が来たのではないかと考えている。
むろんこの選択があらゆる問題を解決してくれるわけではない。

だが国家として認めることと、北朝鮮住民が人間らしい暮らしをできるように手助けすることは両立しうる。この部分での協力に参加することを、在日コリアンそして世界のコリアンが手ぐすねを引いて待っているのではないか。その可能性の先に、新しい朝鮮半島のかたちが見えてくるのではないだろうか。

 

(徐台教 『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』 集英社クリエイティブ 313―314頁)

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camp-fire.jp

*1:1960年代の終わりに東京朝鮮中高級学校(東京朝高)に在学していた私の亡母は、朝鮮総聯に「祖国」へ「帰国」するよう強迫され、それが原因で東京朝高を中退しました。もし私の母がその時「帰国」していたら、私は今この世界に存在しなかったでしょう。

*2:220頁の「日本共産党員であれば、北朝鮮帰国後に労働党員になれるわけだ。」という記述には一部誤謬があります。というのは、在日朝鮮人党員が離党を強いられた1955年のいわゆる「六全協」後は、在日朝鮮人が日本共産党に入党することはできず、それゆえ1959年以降の帰国者には「元・日本共産党員」はいても現役の日本共産党員はいなかったはずだからです。おそらく有元俊さんや全文子さんの弟さんは、元・日本共産党員の帰国者が優先的に朝鮮労働党員になれたことを「『転籍』扱いになった」(220頁)と誤解したのでしょう。たしかに「『転籍』扱いになった」という記述は有元俊さんの言葉ですが、しかし「日本共産党員であれば、北朝鮮帰国後に労働党員になれるわけだ。」という記述は執筆者の言葉です。したがって、それが本書の趣旨に従って有元俊さんや全文子さんの弟さんの証言に忠実に記述したものであるならば、誤解に基づくものである旨の注釈を付けるべきです。本書の趣旨からすれば取るに足らない誤謬であり、「日本人」の執筆者や編集者にとっては無視しうる程度のものなのかもしれませんが、しかしそれは日本共産党による在日朝鮮人差別を無視するものなので、日本共産党に差別された在日朝鮮人党員の孫である私にはどうしても看過できませんでした。

yukito-ashibe.hatenablog.com

*3:「北のスパイ」で死刑囚に 在日韓国人元政治犯 事件50年で集会 [大阪府]:朝日新聞

「戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上にある」という言説は欺瞞である。

今日私たちが享受している平和と繁栄は、この地で命を落とされた方々の尊い犠牲と、沖縄の歩んだ筆舌に尽くし難い苦難の歴史の上に築かれたものです。

 

沖縄全戦没者追悼式 高市早苗首相、あいさつ全文 [高市早苗首相 自民党総裁]:朝日新聞

全員で1分間の黙とうをした後、天皇陛下は「我が国の平和と繁栄が、戦没・殉職船員を始めとする多くの人々の尊い犠牲の上に、国民のたゆみない努力によって築き上げられてきたことを決して忘れてはならないと思います」と述べられた。

 

両陛下、戦没・殉職船員追悼式に出席…参列席の遺族らに声かけられる : 読売新聞

アジア太平洋戦争における戦没者の追悼でよく用いられるのが、「戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上にある」という言説です。

これはつまるところ「靖国の論理」に他なりませんが、「リベラル」派の多くは、こうした言説を高市氏が用いる時はその欺瞞性を非難する一方、天皇が用いる時はその欺瞞性にまるで無頓着です。しかし、「戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上にある」という言説が欺瞞であることは、高市氏が用いようと天皇が用いようと変わることはありません。

靖国神社に合祀されている戦没者の「尊い犠牲」の上に戦後日本の「平和と繁栄」があるということは、旧日本軍の将兵が戦死したおかげで、その戦死の功績によって、戦後日本の「平和と繁栄」があるということになります。戦没者が「犠牲」になってくれたおかげで、その功績によって戦後日本が「平和と繁栄」を享受できるようになったと考えるからこそ、その「犠牲」は「尊い」ものであり、また「敬意と感謝」が捧げられるべきものとなるわけです。

[……]

靖国神社に合祀された戦没者――靖国神社の言葉でいえば「祭神」――の総数は約二五〇万、その九割以上はアジア太平洋戦争の死者ですが、日本軍にもこうした膨大な使者を出し、日本の民間人にも、また日本軍が侵攻したアジア諸国にはさらにその何倍もの死者を出して終わったのあの戦争、戦後日本の「平和と繁栄」という常套句は、少なくとも沖縄の戦後史を考えればそう簡単には使えないことは明らかですが、仮にそれを認めるとしても、その「平和と繁栄」があの日本軍の将兵の膨大な戦死によって、そのおかげで可能になったということには無理があります。

 

(高橋哲哉『国家と犠牲』NHKブックス 17―18頁 太字は原文)

よく考えてみると日本軍の将兵たちの戦死と戦後日本の「平和と繁栄」との間の論理関係は不明瞭ですが、仮に「リベラル派」の多くが言うように戦後日本の「平和と繁栄」が日本国憲法のおかげだとしても、日本国憲法は日本軍の将兵たちが戦死したから制定されたのではありませんし、日本軍の将兵たちも天皇のために戦争で殺し殺されたのであって日本国憲法の制定を希求して戦争で殺し殺されたのでありません。

こうして「戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上にある」という言説が欺瞞であることから、「リベラル」派たちは「戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲のおかげではなく、戦後日本が世界に誇る『平和憲法』である日本国憲法のおかげである」と言うのでしょう。しかし、「戦後日本の『平和と繁栄』は日本国憲法のおかげである」という言説もまた欺瞞でしかありません。

米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の七〇%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 はしがき x頁)

「戦後日本の『平和と繁栄』は日本国憲法のおかげである」と言う「リベラル」派たちは都合よく無視しますが、戦後日本の「平和」すなわち日本国憲法の平和主義体制は、米国主導の国際秩序の維持・発展に伴う軍事的リスクを沖縄と韓国が負担するという、沖縄と韓国の犠牲の上に築かれたものです。

よく知られているように、いわゆる特需ブームとは何であったかです。アメリカは朝鮮戦線で莫大な物量の消耗戦を平気でやる、その武器の生産ないし修理はもっぱら日本が引受けている。日本の重工業資本は、戦後の復活のキッカケをここではじめてつかむ。特需が全体として日本の国際収支を支え、後の「高度成長」政策を可能にしていく。朝鮮戦争の犠牲の上に日本の資本主義体制、六〇年代以降につらなるその体制は築かれたのです。いま一度そのことをきわめて重い問題として考えておく必要があると思います。

 

(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』平凡社ライブラリー 270―271頁)

そして戦後日本は、「リベラル」派たちが世界に誇る日本国憲法9条があるにもかかわらず、米国と「安全保障」に名を借りた軍事同盟を結び、皮肉な話ですが憲法9条のおかげで自らの手を血で汚すことなく朝鮮戦争(1950年~)やベトナム戦争(1960~75年)といった米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するための戦争に加担することで得た血生臭いカネを養分に日本資本主義が膨張することで繁栄してきました。これがまさに日本国憲法下における戦後日本の「繁栄」の正体です。

つまり、「犠牲」云々を言うなら戦後日本の「平和と繁栄」は、「戦没者の尊い犠牲」の上ではなく、沖縄と朝鮮半島、さらにはベトナムの理不尽な犠牲の上にあるものなのです。

高市氏が言うように「今日」の日本の「平和と繁栄」が「尊い犠牲」の上に築かれたものであるならば、「明日」の日本の「平和と繁栄」のために再び「尊い犠牲」が必要となることでしょう。だから高市氏は故・安倍氏の「遺志」を継ぎ、米国の戦争に参加するための日本のさらなる軍事力の強化と体制づくりに躍起になっているのかもしれません。しかし、そうした「尊い犠牲」の上に築かれる「平和」は、少なくとも日本国憲法が建前とする恒久平和主義とは異なるものです。そして、そうした「尊い犠牲」の上に築かれる「繁栄」は、私たち労働者人民の抑圧の上に築かれる「繁栄」でもあるのです。私たち労働者人民は、そんな「平和と繁栄」に戦争の血で汚れたわずかばかりの「おこぼれ」に与ることで満足してしまってよいのでしょうか。

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「日の丸」が天皇制国家主義の象徴であり天皇制ファシズムの道具だからこそ、天皇制国家のファシスト政権は「国旗損壊罪」の法制化に躍起になる。

社説:国旗損壊罪 敬意を払って大切に扱いたい : 読売新聞

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国旗はその国の象徴である。どの国であっても敬意を払い、大切に取り扱うのは自然だ。

外国の国旗と同様に、自国の国旗を損壊した場合も、罰則を設けるのは妥当な考え方と言えよう。

 

社説:国旗損壊罪 敬意を払って大切に扱いたい : 読売新聞

「国旗はその国の象徴である」から「どの国であっても敬意を払い、大切に取り扱うのは自然だ」とのたまう御用新聞は、日本が「国旗」とする「日の丸」が日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴であることを都合よく無視しています。

「日の丸」を事実上の「国旗」とした*1天皇制国家・大日本帝国は、アジアの国々を侵略・植民地支配し、多くの人民を抑圧・虐殺しました。御用新聞は、そんな血塗られた「日の丸」を「日本の国旗だから」というだけの理由で「敬意を払い、大切に取り扱うのは自然だ」というのでしょうか。多くのアジア人民を抑圧・虐殺した天皇制国家の象徴に敬意を払い、それを大切に取り扱うことは、少なくとも私にとっては不自然です。

日本が今もなお日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴である「日の丸」を国旗として使い続けているのは、つまるところ多くのアジア人民を抑圧・虐殺した大日本帝国と本質的に変わらない天皇制国家だからです。もし本当に今の日本が多くのアジア人民を抑圧・虐殺した大日本帝国とは違う民主主義国家であるならば、日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴である「日の丸」を国旗として使い続けることはできないはずです

「国旗損壊罪」の創設に反対する「リベラル派」の中には「自民党こそ『日の丸』を汚している」と言う人が見受けられます。しかし、「自民党こそ『日の丸』を汚している」というのは正しくありません。なぜなら、そもそも「日の丸」は日帝に抑圧・虐殺されたアジア人民の血で汚れたものだからです。そして、日帝に抑圧・虐殺されたアジア人民の血で汚れた「日の丸」が天皇制国家主義の象徴であり天皇制ファシズムの道具だからこそ、天皇制国家のファシスト政権は「国旗損壊罪」の法制化に躍起になるのです。

先に述べたように、今の日本が多くのアジア人民を抑圧・虐殺した大日本帝国とは違う民主主義国家であるならば、日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴である「日の丸」を国旗として使い続けることはできないはずです。つまり、日本の真の民主化を実現するためには、人民である私たち一人ひとりが自らの手で「日の丸」を焼き払わなければならないのです。

「国旗損壊罪」は国旗を「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」で損壊する行為を処罰するものですが、日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴である「日の丸」を焼き払うことに「不快または嫌悪の情を催」す人がいるとすれば、それはその人が天皇制国家主義に支配されているからです。人権や民主主義という普遍的価値を共有する自由な人間であれば、むしろ日帝に抑圧・虐殺されたアジア人民の血で汚れた天皇制国家主義の象徴であり天皇制ファシズムの道具である「日の丸」それ自体に不快または嫌悪の情を催すはずです。

いま本当に必要なのは「国旗損壊罪」ではなく、天皇制国家主義の象徴であり天皇制ファシズムの道具である「日の丸」の廃止です。私たち人民が自らの手で「日の丸」を廃止し、そしてその根底にある天皇制を廃止して私たち人民が天皇制ファシズムから自らを解放したとき、日本の真の民主主義が始まるのです。それを阻止せんとする天皇制国家のファシスト政権の強い意志の表れが、まさに「国旗損壊罪」です。

私は、天皇制国家のファシスト政権が推し進める「国旗損壊罪」の法制化に断固として反対します

*1:太政官布告第57号・第651号

「護憲派リベラル」が都合よく無視する「戦後平和主義」の矛盾

いわゆる「護憲派リベラル」の中には「日本国憲法の下で戦後日本は繁栄してきた」と言う人が見受けられます。

たしかに、表層的な事実としてはそうかもしれません。しかし「日本国憲法の下で戦後日本は繁栄してきた」と言う「護憲派リベラル」の人は、「繁栄」の不都合な真実を都合よく無視しています。

また、「護憲派リベラル」の中には「たくさんの犠牲の上に私たちは日本国憲法を手にした」と言う人も見受けられます。

たしかに憲法9条といった日本国憲法の平和主義条項は、アジアを侵略し多くの人民を虐殺した日本に再び同じ過ちを繰り返させないために定められたものですから、「たくさんの犠牲の上に私たちは日本国憲法を手にした」というのは決して間違いではありません。しかしそうした言説では、「戦後平和主義」の抱える矛盾が都合よく無視されています。

平和主義を掲げる日本国憲法は、ただ過去の日本が犯したアジア侵略による多大な犠牲の上に成り立つだけのものではありません。

米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の七〇%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 はしがき x頁)

つまり、日本国憲法の平和主義体制は、米国主導の国際秩序の維持・発展に伴う軍事的リスクを沖縄と韓国が負担するという、沖縄と韓国の犠牲の上に成り立つものでもあるのです。

よく知られているように、いわゆる特需ブームとは何であったかです。アメリカは朝鮮戦線で莫大な物量の消耗戦を平気でやる、その武器の生産ないし修理はもっぱら日本が引受けている。日本の重工業資本は、戦後の復活のキッカケをここではじめてつかむ。特需が全体として日本の国際収支を支え、後の「高度成長」政策を可能にしていく。朝鮮戦争の犠牲の上に日本の資本主義体制、六〇年代以降につらなるその体制は築かれたのです。いま一度そのことをきわめて重い問題として考えておく必要があると思います。

 

(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』平凡社ライブラリー 270―271頁)

そして戦後日本は、「護憲派リベラル」たちが世界に誇る憲法9条があるにもかかわらず、米国と「安全保障」に名を借りた軍事同盟を結び、皮肉な話ですが憲法9条のおかげで自らの手を血で汚すことなく朝鮮戦争(1950年~)やベトナム戦争(1960~75年)といった米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するための戦争に加担することで得た血生臭いカネを養分に日本資本主義が膨張することで繁栄してきました。これがまさに日本国憲法下における戦後日本の「繁栄」の正体です。

こうしてみると、日本国憲法下における戦後日本の「繁栄」というものが、沖縄と韓国の軍事的な犠牲の上に成り立つ「戦後平和主義」の欺瞞の産物であることがわかります。「日本国憲法の下で戦後日本は繁栄してきた」と言う「護憲派リベラル」の人は、同じことを沖縄と韓国でも言えるのでしょうか。もっとも、沖縄と韓国でも「日本国憲法の下で戦後日本は繁栄してきた」と平気で言えてしまうのが戦後日本の「護憲派リベラル」なのかもしれませんが。

「戦後」の日本社会は現実として平和主義を実現できたわけではなく、自衛隊は存在し、日米安保条約と米国の核の傘のもとにある。しかし護憲運動においては、平和憲法を守ろう、「平和主義」を壊すなというスローガンがくりかえし語られる。ここで権氏が指摘するのは、そもそも平和憲法が維持される前提となった東アジアの構造とはいかなるものであったのか、という問いである。朝鮮半島の分断体制があり、その最前線にはいかなる意味でも「平和主義」的ではない兵営国家・韓国がある。こうした朝鮮半島での戦争状態の継続と、米国の核の傘のもとで謳歌されたのが「戦後」日本の平和ではなかったか、「平和憲法を守ろう」というスローガンは、こうした構造を「守ろう」というものになりはしないか。そう権氏は問うのである。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 237―238頁 鄭栄桓氏による訳者あとがき)

こうした「護憲派リベラル」たちが都合よく無視する「戦後平和主義」の抱える矛盾は、昨今の日本における軍国主義の台頭を考える上で決して避けて通れない問題です。というのも、昨今の日本における軍国主義の台頭は、日本国憲法の平和主義によって既に清算された日本軍国主義が復活したものでは決してなく、「戦後平和主義」の抱える矛盾、すなわち日本国憲法の平和主義と未清算の日本軍国主義の矛盾が激化したものだからです。そうした矛盾を都合よく無視して、平和憲法を守ろう、「平和主義」を壊すなというスローガンをただ唱えるだけの「護憲」運動では、人類の普遍的な価値としての恒久平和主義を真に実現することは決してできません。つまり、人類の普遍的な価値としての恒久平和主義を真に実現するためには「戦後平和主義」が内包する矛盾を克服することが必要不可欠なのです。そして「戦後平和主義」の抱える矛盾を克服するためには、恒久平和主義と敵対的に矛盾する日本軍「自衛隊」を解体し、米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するために日本軍「自衛隊」を必要とする日米軍事同盟を解消し、さらには日本軍「自衛隊」と日米軍事同盟を必要とする天皇制を廃止しなければなりません

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民主主義的思考を妨げる天皇制

皇族確保策 天皇陛下「国民の理解や納得得られるものに」と長官拝察 [皇室典範の改正]:朝日新聞

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安定的な皇位継承をめぐる「立法府の総意」が取りまとめられたことを受け、宮内庁の黒田武一郎長官は11日の定例会見で、天皇陛下に総意の内容を報告したと明かした。その上で、天皇陛下は国民の総意に基づく立場から「国民のみなさまの理解や納得を得られるものとなるように願われているのではないかと拝察している」と話した。

 

皇族確保策 天皇陛下「国民の理解や納得得られるものに」と長官拝察 [皇室典範の改正]:朝日新聞

皇族数確保策に向けた皇室典範改正の問題に関して、高市政権を「皇統問題に汚れた手を突っ込んでる」と批判し「今上陛下がお気持ちを表明された以上、国民は臆すことなく、政権を批判すべし」と訴える岡美穂子・東京大学教授の発言が、多くの「リベラル」派たちの共感を集めています。

故・安倍氏の遺志を継ぎ「安倍政治」を完成させた高市政権は、たしかに岡教授のおっしゃるとおり「日本史上、最悪の政権の一つ」であるといえるでしょう。しかし私は、上掲した岡教授の発言を多くの「リベラル」派たちのように手放しで肯定的に評価することはできません。

「今上陛下」が「お気持ちを表明」したから何だと言うのでしょうか。もし天皇徳仁が「お気持ち」なるものを表明しなかったら、「国民」たちは高市に臆して政権を批判しないのでしょうか。自らに由らず天皇の権威に依拠して政権を批判するというのは、臣民的思考であって民主主義的思考ではありません。天皇の権威に依拠せず、民主主義に拠って立つ私は、天皇徳仁の「お気持ち」なるものと関係なく、天皇制国家のファシスト政権である高市政権を批判します。そして、高市政権が拘泥する「男系男子主義」を放棄してでも人民に対する身分差別である天皇制を存続させたい天皇徳仁の「お気持ち」に臆することなく、人民に対する身分差別である天皇制の廃止を訴えます。そんな私は、天皇徳仁も援用する日本国憲法第1条の「国民の総意」というファシズムの論理に従えば、やはり「非国民」なのでしょうか。東アジアの人民を自認する私は、それならそれで構いませんが、そんな「同化と排除」の論理の上に成り立つ日本国憲法(日本国憲法施行の前日に昭和天皇裕仁が「最後の勅令」である外国人登録令を発して在日台湾人と在日朝鮮人を日本国憲法体制から排除した*1のも、日本国憲法体制において「同化と排除の論理」を貫くためでしょう。)を多くの「リベラル」派たちのように世界に誇ることは、恥ずかしくて私にはできません。

さて、歴史学者の岡教授は、先に述べたように高市政権を「皇統問題に汚れた手を突っ込んでる」と批判しますが、そんな岡教授が忘れていらっしゃることがあります。それは、そもそも天皇の玉座それ自体が「天皇の軍隊」によって虐殺されたアジアの人民たちの血で汚れたものだということです。つまり、多くの「リベラル」派たちが「リベラル」と礼賛する明仁・徳仁親子は、徳仁の祖父である昭和天皇裕仁の「皇軍」によって虐殺されたアジアの人民たちの血で汚れた天皇の玉座に何食わぬ顔で座っている(いた)のです。そして、戦後の日本が米国に追従し、沖縄を差し出してその戦争に協力し続けるのも、まさに「天皇の軍隊」によって虐殺されたアジアの人民たちの血で汚れた天皇の玉座を護持することの代償なのです*2。そうしたことを忘れた「リベラル」派たちが天皇の権威に依拠して高市政権を批判する姿は、まさに「戦後平和主義」の矛盾と欺瞞の表れです。

こうしてみると、天皇制が民主主義的思考を妨げるものだということが改めてよくわかります*3。残念ながら日本の「リベラル」派の多くは、「民主主義」という言葉は知っていても、その意味までは知らないようです。人民に対する身分差別である天皇制は、自由および平等を大前提とする民主主義と敵対的に矛盾するものであり、その矛盾は天皇制を廃止することでしか解消することができません。つまり、「天皇の軍隊」によって虐殺されたアジアの人民たちの血で汚れた天皇の玉座を廃止しなければ、日本の真の民主主義は決して始まらないのです。それとも日本の「国民」たちは、天皇制国家体制に同化されない人民たちが差別されるのを眺めながら「戦後民主主義」という米国から与えられた贋物で満足し、神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制によって骨の髄まで支配され続けることを望むのでしょうか。

天皇制の根本的な問題は「女性天皇」あるいは「女系天皇」が認められていないことではない。

女性・女系天皇、議論棚上げ 国会と世論、生じるズレ:朝日新聞

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国会と世論 生じるズレ

安定的な皇位継承にむけた国会での与野党の検討が大詰めを迎えている。ただ、議論のテーマはあくまでも当面の皇族数を確保するための方策で、世論調査で支持される「女性天皇」や、母方のみ天皇につながる「女系天皇」をめぐる議論は棚上げされている。

朝日新聞が5月中旬に行った全国電話世論調査では、天皇について「女性もなれるようにした方がよい」が72%で、「女系を認めてもよい」は74%だった。ただ、こうした意見は国会では少数派で、世論とのズレが生じている。

[……]

当面の数確保 問題すり替え 識者

皇位継承をめぐる議論の過程を検証している成城大学の森暢平教授は「そもそも皇位継承者を女性・女系にまで拡大する検討の根本には、男女同権意識を含む家族観の変化など現代社会のありように天皇制を対応させ、継承者の確保につなげるという方針があったはずだ」と指摘する。その上で、現在の国会での議論について、「天皇制が抱えている根本的な問題の議論を避け、当面の数の確保という一時的な対応を議論することは問題のすり替えにも映る」と述べる。

 

女性・女系天皇、議論棚上げ 国会と世論、生じるズレ:朝日新聞

上掲の朝日新聞の記事で、識者は、「当面の皇族数を確保するための方策」についての議論を「天皇制が抱えている根本的な問題の議論を避け」るものであって「問題のすり替え」だと言います。

「天皇制が抱えている根本的な問題」が「女性天皇」あるいは「女系天皇」が認められていないことであるならば、たしかに識者の言うとおり「当面の皇族数を確保するための方策」についての議論は「問題のすり替え」でしょう。しかし、天皇制の根本的な問題は「女性天皇」あるいは「女系天皇」が認められていないことでありません。

神話という虚構に基づき「天皇一家」という特定の家族を特別視し、そうした特別視によって作り出される「天皇一家」の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制および皇室制度は、人間を「生まれ」によって差別するものです。そして、それこそがまさに天皇制の根本的な問題です。つまり、天皇制の根本的な問題は、天皇制が人民に対する身分差別であることなのです

人民に対する身分差別という天皇制の根本的問題は、「女性天皇」あるいは「女系天皇」を認めることでは決して解決しません。「女性天皇」あるいは「女系天皇」を認めることは、むしろ、人民に対する身分差別を温存するものです。人民に対する身分差別という天皇制の根本的問題を解決する方法は、ただ一つ、天皇制を廃止することです。そして、「女性天皇」あるいは「女系天皇」を認めないことが女性差別だとしても、それは家父長制の頂点たる天皇制を廃止すれば自ずと解消されるのです。

こうしてみると、当面の数の確保という一時的な対応を議論することだけでなく、「女性天皇」あるいは「女系天皇」の是非を議論することも、人民に対する身分差別という天皇制の根本的問題の議論を避けるものであって、問題のすり替えにほかならないということがわかります。つまり、本当に議論すべきことは人民に対する身分差別である天皇制の廃止なのです

天皇制の廃止は、天皇や皇族を天皇制から解放するためにするのでは決してありません。先に述べたように、天皇制は天皇の権威を利用した人民支配の装置です。つまり、人民支配の装置である天皇制を廃止することは、私たち人民を天皇制の支配から解放することなのです。「天皇のため」や「皇族のため」というのは臣民思考です。そんな臣民思考はもう捨てて、私たち人民は、自分たちの手で天皇制を廃止し、自分たちを天皇制の支配から解放しましょう。そうして私たち人民が、自分たちの手で天皇制を廃止し、自分たちを天皇制の支配から解放したとき、私たちの真の民主主義がはじまるのです

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