あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

「民意」は、決して民族差別を正当化しない。

小池氏が大差で再選「コロナから命、暮らし守る」 宇都宮氏、山本氏ら破る 東京都知事選:東京新聞 TOKYO Web

 

これまで4年間の都政で、朝鮮学校韓国学校に対する差別*1*2、あるいは関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付拒否*3や追悼式典への圧力*4といった民族差別を行ってきた小池百合子氏が、今般の東京都知事選で2位以下に大差をつけて圧勝したことは、エスニックマイノリティである都民の人権にとって切迫した危機的状況であると言っても過言ではありません。また、当選こそしなかったものの、在日コリアンの排斥を叫ぶ排外主義者である桜井誠氏が約17万票を獲得した*5というのも、エスニックマイノリティである都民の人権にとって本当に深刻な状況です。

このように、小池氏が圧勝し、それに加えて桜井氏が決して少なくない票を得たことで、もしかするとこれまでの小池都政による民族差別が「民意」によって追認された、そして「民意」は小池都政によるさらなる民族差別を期待している、と考える人がいるかもしれません。しかし、その考えは間違っています。

民族差別は、個人の尊厳を踏みにじるもの(この点に関して、「民族差別が傷つけるのは集団であって、個人ではない」と言う人がいます。しかし、それは間違いです。なぜなら、民族差別が傷つけるのは、「記号的存在」ではなく、一人ひとり違う顔を持った生身の人間だからです。)ですから、それは人権の問題です。そして、人権は多数の「民意」をもってしても奪うことのできないものです。したがって、小池都政による民族差別が「民意」によって正当化されることは、決してありません。

民主主義の目的は、究極的には個人の尊厳を確保することです。それに鑑みると、民族差別を「民意」によって正当化することなど、そもそもできないのです。それに、民主主義の本質は「治者と被治者の自同性」であって、「多数決」では決してありません。それゆえ、たとえ都民の多数の「民意」が小池氏を首長に選んだとしても、それに臆することなく小池都政の民族差別を批判することが、真に民主主義的な態度であるといえます。

 

「ニッポンは『自由な国』だ」と言うけれど。

よく、「政権に問題があるとしても、独裁国家と違ってそれに対する批判が許されるのだから、よその国に比べれば日本はまだまだ自由な国だ」と言う人がいます。

日本に言論の自由があることは、もちろん私も否定しません。しかし、だからといって日本が他の国に比べて抜きん出て「自由な国」だと言うのは早計です。たとえ日本が「自由な国」だとしても、所詮は「どんぐりの背比べ」でしょう。

日本社会のマジョリティである日本国民の多くは、「自由」を国家によって与えられたものだと考えている節があります。そして、日本国民は、まるで「自由」を与えてくれた国家の恩に報いるかのように、しばしば与えられた「自由」でマイノリティを踏みつけます。また、しばしば「国益」や「公益」にそぐわない自由を敵視します。それですから、国民の自由を許すことなど屁でもないでしょう。

政権に対する批判も、おそらく当の政権は雑音程度にしか思っていないでしょう。いや、もしかすると良い「ガス抜き」と思っているかもしれません。なにしろ、政権を批判するデモであっても、それは決して「和」を乱さず、治安当局に対しても友好的な「平和なデモ」なのですから。

もっとも、政権を批判する市民が警察によって暴力的に排除されることも決して皆無ではありません*1。それは、政権の余裕のなさの表れだと見ることもできます。しかし、そうして暴力的に排除される市民は、国家による暴力の被害者であるにもかかわらず、粗暴な「はみ出し者」として多くの国民から白眼視されますますから、たとえ暴力を用いて「はみ出し者」を排除しても、政権にとってはさしたる痛手にはならないでしょう。日本国民を統制するのに、鞭はいくつも要りません。一本の鞭と一人の生贄、そして一枚の「極左」というレッテルがあれば十分です。

日本という国にとって、政権批判は、実のところさほど痛手ではありません。それというのも、安倍首相やその支持者たちは認めたくないでしょうが、首相の代わりなどいくらでもいるからです。これに対して、代わりのいない存在だとされているのが、いわゆる天皇です。これに対する批判は、日本の「国体」を揺るがす危険なものだとして、警察や右翼の苛烈な暴力にさらされ、苛烈な弾圧を受けることもしばしばです*2。もっとも、こう言うと「おまえは今こうして自由に天皇を批判することができているだろう」と揚げ足を取る人もいるでしょう。たしかに、それはその通りです。しかし、それはこの天皇制国家にとって、私がする天皇制批判など「ごまめの歯ぎしり」にすぎないということなのでしょう。ただ、だからといって日本社会の差別の根源である天皇制に対する批判をやめてしまっては、それこそ天皇制国家の思う壺ですが。

日本に政権批判の「自由」があるとしても、日本社会ではそれを「悪いこと」だと思う風潮が支配的ですが、それには天皇制も大いに関係していると思います。つまり、身分差別制度である天皇制は、国家の内部に上下関係を生み出し、それによって「お上に逆らうのは悪いことだ」という風潮が醸成されるのです。もっとも、安倍政権に批判的な国民の中にも天皇に好意的な人は少なからずいますが、しかし、彼らは決して「お上」に逆らうのを良いことだと思っているのではなく、彼らがしばしば「天皇陛下は安倍を嫌っている」と口にすることに鑑みると、むしろ彼らは安倍氏を「お上(=天皇)に逆らう悪い奴」と考えているのでしょう。

さて、先述したように、日本社会のマジョリティである日本国民は、しばしば与えられた「自由」でマイノリティを踏みつけます。それは、マイノリティの自由にとっては加害以外の何ものでもありません。しかるに、日本国民の中には、マイノリティによる自由の行使を「我侭」と曲解し「マイノリティの我侭な振る舞いこそが、我々の自由を抑圧するのだ」と言って、さも自分たちが被害者であるかのように振る舞う人も少なからず見受けられます。そのような日本国民は、自由の本質を誤解してます。自由は神や国家から恩恵として与えられるものではなく、人間であることによって当然に有するものですから、マジョリティとマイノリティの自由の間に本質的な差異はありません。もっとも、現実には社会に存在する構造的差別によってマイノリティの自由は常に抑圧にさらされるのですが、しかし、先述のとおりマジョリティとマイノリティの自由の間に本質的な差異はないのですから、マイノリティがマジョリティと同等の自由を求めることは、人間として当然のことなのです。それを日本国民が「マイノリティの我侭な振る舞いだ」などと言うのは、それこそマジョリティの傲慢です。マジョリティは、自分たちの自由を尊重されたいのであれば、何よりもまずはマイノリティの自由を尊重すべきです。マイノリティの自由が尊重されない社会に、本当の自由はありません。

こうしてみると、たとえ日本が「自由な国」だとしても、それはせいぜいマジョリティにとって「自由な国」でしかありません。しかし、自由の本質に鑑みれば、それはまがいものにすぎません。日本を本当に自由な国にするためには、マイノリティの自由を抑圧する差別構造を解体することが是非とも必要です。そして、マジョリティは、その自由を差別構造を解体するために使うべきです。

日本社会の差別によって分断されるのは、マイノリティ同士である。

日本社会でエスニックマイノリティ(以下、「マイノリティ」という)に敵意や憎悪を向けるのは、ほとんどがマジョリティである日本人です。しかし、同胞や他のマイノリティに敵意や憎悪を向けるマイノリティも決して皆無ではありません。

ナチスに協力したユダヤ人や日帝に協力した朝鮮人が存在したことに鑑みれば、同胞や他のマイノリティに敵意や憎悪を向けるマイノリティが存在するというのは、さほど不思議なことではないでしょう。それでもマジョリティである日本人が忘れてはならないのは、そのようなマイノリティを生み出すのは日本社会の差別構造であり、それを支えているのはマジョリティである日本人だということです。

日本社会の差別構造に働く「同化と排除」の力学は、しばしばマイノリティに同胞や他のマイノリティに対する敵意や憎悪を抱かせます。要するに、マイノリティが支配する日本社会から排除されないように、マジョリティに同化せんとする努力として、しばしばマイノリティは同胞や他のマイノリティに敵意や憎悪を向けてしまうのです。マイノリティをそのような状況に追い込むのは、もちろん日本社会の差別構造と、それを支えるマジョリティである日本人です。

日本社会の構造的差別によって惹き起こされる、マイノリティが同胞や他のマイノリティに対して抱く敵意や憎悪は、マイノリティ同士の分断を招きます。つまり、日本社会の構造的差別によって分断されるのは、日本社会ではなくマイノリティ同士なのです。

マイノリティが同胞や他のマイノリティに向ける敵意や憎悪は、マジョリティである日本人によって差別の正当化にしばしば利用されます。日本人にとっては、マイノリティが同胞や他のマイノリティに向ける敵意や憎悪も「マイノリティの自己批判」なのでしょう。しかし、マイノリティが同胞や他のマイノリティに向ける敵意や憎悪を生み出すのは他でもない日本社会の差別構造であり、それを支えているのは他でもない日本人です。それを考えると、マイノリティが抱く同胞や他のマイノリティに対する敵意や憎悪を日本人が差別の正当化に利用するのは、実に卑怯で卑劣です。

このごろよく見聞きするのが、「差別は社会を分断する」という言葉です。それは主に、日本社会の差別を憂う日本人によって使われますが、おそらく彼らは「我々も差別によって社会を分断される被害者だ」と言いたいのでしょう。しかし、先に述べたとおり、日本社会の構造的差別によって分断されるのは、日本社会ではなくマイノリティ同士です。そして、日本社会の構造的差別を支えているのは、まぎれもなくマジョリティである日本人です。つまり、日本人は、日本社会の構造的差別に関して「被害者」だとは到底言えないのです。それに、差別によって日本社会が分断される云々以前に、今もなお天皇を頂点とする日本社会はそもそもが差別によって成り立っている社会なのですから、「差別によって日本社会が分断される」というのはなんとも滑稽な話です。マジョリティである日本人は、本当に日本社会の差別を憂うのであれば、「我々も差別によって社会を分断される被害者だ」などと被害者面して日本社会の差別構造から目を背けるのではなく、日本社会が差別によって成り立っている社会であることを認識し、さらにはマジョリティとして日本社会の差別構造を支えてしまっていることを自覚し、日本社会の差別構造をこわしていかなければなりません。そうして、日本社会の差別構造をこわすことができたときにはじめて、私たちは新たな社会を築くための第一歩を踏み出すことができるのです。

新型コロナ禍で忘れられる、移動の自由という基本的人権。

1都3県や北海道の移動、19日に解禁…1000人規模のイベントも : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン

 

県をまたぐ移動の自粛解除に関する報道では、「解禁」という表現が多く見られます。
新型コロナウイルス禍ですっかり忘れられてしまっているようですが、移動の自由は基本的人権です。それゆえ、移動を禁止するには、法治主義の下では法的根拠に基づかなければなりません。しかし、新型インフルエンザ等対策特別措置法*1は、あくまでも外出自粛の要請にとどまるものであって、移動を禁止するものではありません。つまり、県をまたぐ移動はそもそも禁止されていなかったということです。それにもかかわらず、もし多くの人が「解禁」という表現に違和感を覚えないのだとすれば、やはり日本社会の人権感覚に問題があると言わざるを得ないでしょう。

もちろん、私も新型コロナウイルス感染症は怖いですし、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために移動の自由を制限する必要性は否定しません。しかし、それでも移動の自由が基本的人権である以上は、自由が原則であり、その制限はあくまでも例外であることを決して忘れてはならないと思います。そして、人権保障の観点から、例外である自由の制限は、規制措置は社会公共に対する障害の大きさに比例したもので、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならないという、いわゆる「警察比例の原則」に従うべきです。つまり、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために必要なのは「強力な措置」ではなく、感染拡大の防止という目的を達成するために必要な最小限度の措置です。

これについては、「強力な措置をとらないで感染が拡大したらどうするんだ」と言う人もいるでしょう。しかし、そう言う人は思考レベルの問題と現実レベルの問題を混同しています。「規制措置は、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならない」というのは思考レベルの話であり、現実レベルで具体的な規制措置が規制の目的を達成するために必要な最小限度のものであるかどうかは、それこそケース・バイ・ケースです。ただ、そうであっても人権尊重の理念に従うのであれば、「規制措置は、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならない」という思考は維持されるべきです。それとも、規制の目的を達成するために必要な最小限度を超える強力な規制を求める人は、「必要であれば国家によるいかなる人権侵害も許されるべきだ」と考えるのでしょうか。しかし、それは国家権力を制限して人権保障をはかる立憲主義にそぐわない考えです。「理念が現実における国家の行動の足かせになるのであれば、理念を捻じ曲げてもよい」とするのが、いわゆる9条改憲議論における安倍政権の考え方ですが、そういえば新型コロナウイルス禍でしばしば使われる「強力な措置をとらないで感染が拡大したらどうするんだ」という脅し文句は、9条改憲議論で改憲論者が好んで使う「外国が攻めてきたらどうするんだ」という脅し文句によく似ている気がします。

どうも昨今の日本では、人権保障における〈原則―例外〉思考が、「自由が原則であり、制限が例外である」から「制限が原則であり、自由が例外である」に逆転してしまっているようです。しかし、これでは憲法による人権保障など、まさしく「絵に描いた餅」でしかありません。また、「制限が原則であり、自由が例外である」という倒錯した思考が当たり前になってしまうのは、それこそ自民党政権の思う壺です。立憲主義の下では、「自由が原則であり、制限が例外である」ことを、どうかくれぐれも忘れないでください。もっとも、こう言うと「それならばヘイトスピーチやヘイトデモも自由が原則だろう」と揚げ足を取る人がいるかもしれません。しかし、そのような人は、なぜ憲法表現の自由を人権として保障したのかをまるで理解していません。憲法表現の自由を人権として保障したのは、究極的には表現の自由が個人の尊厳の確保に資するからですが、ヘイトスピーチやヘイトデモは個人の尊厳を踏みにじる人権侵害にほかなりません。つまり、ヘイトスピーチやヘイトデモは憲法表現の自由を人権として保障した趣旨に悖るものであって、そもそも表現の自由の保障の範囲外*2なのです。

軍艦島の朝鮮人差別も、構造の問題である。(前エントリーの補足)

yukito-ashibe.hatenablog.com

 

前エントリーで引用した共同通信の記事*1からは不明でしたが、朝日新聞*2朝鮮日報*3の記事によれば、軍艦島における朝鮮人差別の存在を否定するために日本政府が援用する「元島民」の証言は、日本人のものだけではなく在日韓国人2世の方(故人)のものもあるようです。このことから、「差別されたとされる朝鮮人が『朝鮮人差別はなかった』と言うのだから、朝鮮人差別はなかったのだ」と思う日本国民も少なからずいるでしょう。

もちろん、私はこの「元島民」であった在日韓国人の方の証言が虚偽であるなどと言うつもりはありません。たしかに、この証言者にとっては「朝鮮人差別はなかった」というのが「真実」なのでしょう。しかし、言うまでもなくこの証言者の証言が軍艦島朝鮮人差別に関する証言の全てではありません。周知のように、軍艦島朝鮮人差別を告発する朝鮮人労働者の証言は決して少なくありません。それに、当時はまだ幼く、また「伍長」の子であったこの証言者*4が知らない朝鮮人差別もあったはずです。

そもそも民族差別は、構造の問題であり、そこでは差別する側の一人ひとりの主観が問題にならない(「差別するつもりはなかった」などという言い訳は通用しない)のと同様に、差別される側一人ひとりの主観は問題になりません。つまり、たとえ差別される側の一人が「差別はなかった」と認識していたとしても、それだけで客観的な構造的差別がなくなることは決してないのです。

日帝による朝鮮植民地支配の下、日本社会に客観的な構造的差別として朝鮮人差別が存在したのは紛れもない歴史的事実であり、それは日本社会に今も継続しています。このことを考えれば、差別の被害者である朝鮮人労働者が差別の存在を訴えている以上は、軍艦島にも客観的な構造的差別として朝鮮人差別が存在したを推定することが合理的です。そして、そうである以上、軍艦島における朝鮮人差別の問題に関しても、日帝が生み出した差別構造を受け継ぐ日本国家と、差別構造における「差別する側」である日本国民は、軍艦島朝鮮人差別を告発する被害者の声を真摯に受け止め、そして今も継続する日本社会の民族差別を克服しなければなりません。しかるに、軍艦島朝鮮人差別を告発する被害者の声を真摯に受け止めるどころか、「差別される側」であった元島民の証言を自分に都合よく援用し、被害者の告発を無力化することで、軍艦島における朝鮮人差別の存在を否定しようとする日本政府は、実に卑怯で醜悪です。

 

軍艦島に耳を澄ませば聞こえる、被害者の声を聞け。

「軍艦島で朝鮮人差別存在せず」 政府、元島民の証言を一般公開へ | 共同通信

 

おそらく、多くの日本国民は「元島民が『戦時徴用された朝鮮半島出身者への差別的対応はなかった』と証言しているのだから、軍艦島での朝鮮人差別はなかったのだろう」と思うのでしょう。

私は、この「元島民」が嘘の証言をしているなどというつもりはありません。しかし、「戦時徴用された朝鮮半島出身者への差別的対応はなかった」とする「元島民」の証言だけで、本当に朝鮮人差別がなかったといえるのでしょうか。

共同通信の記事からは断定できませんが、おそらく証言をした「元島民」は日本人なのでしょう。そうだとすると、この「元島民」は、たとえ「善い日本人」であったとしても、当時の日本と朝鮮の関係の下では「朝鮮人を差別する側の人間」であることに変わりはありません。しかるに、どうして「朝鮮人差別がなかった」ことが、「朝鮮人を差別する側の人間」の証言だけで「真実」となるのでしょうか。

これに対して、「それならば、朝鮮人労働者の証言だけで朝鮮人差別があったことにはならないだろう」と、「軍艦島での朝鮮人差別はなかった」と主張する人たちは言うでしょう。たしかに、それはそうかもしれません。しかし、それならば同じように「元島民の証言」だけでも朝鮮人差別がなかったことにはならないはずです。それとも、「日本人である元島民の証言は信用できるが、朝鮮人労働者の証言は信用できない」とでも言うのでしょうか。しかし、それもまた朝鮮人差別です。

「平和都市」長崎市の田上富久市長のように*1、当時の軍艦島の繁栄を理由に「島は決して地獄島と表現されるような状況ではなかった」と主張する人も少なからずいます。たしかに、「繁栄」も、軍艦島の「一つの事実」であり、それゆえに日本人である島民にとっては「地獄島」ではなかったのかもしれません。しかし、だからといって当然に朝鮮人労働者や中国人労働者にとっても「地獄島ではなかった」と言うことはできないはずです。それに、その繁栄は、朝鮮人労働者や中国人労働者の犠牲の上に成り立っていたものです。当時の軍艦島の繁栄を理由に「島は決して地獄島と表現されるような状況ではなかった」と主張する人は、そのことを少しでも考えてみたことがあるでしょうか。

歴史修正主義者たちは否定するでしょうが、かつての日帝による侵略や植民地支配は、疑いを差し挟む余地のない歴史的事実です。そうである以上、日帝による植民地主義の犯罪に関して、日本の政府や国民は何よりもまず被害者の「声」を真摯に聞くべきです。それができないのであれば、「かつての日帝による侵略や植民地支配への反省」も、しょせん口先だけのものでしかないでしょう。

 

honto.jp

 

差別の問題で「分断」という言葉を使いたがる人たち

 

このごろ、よく差別の問題を「差別ではなく、異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するものである」と言う人が少なからずいます。彼らの言説に従えば、例えば人種差別は「異なる人種間の対立」であり、また女性差別は「男女間の対立」なのでしょう。

たしかに、一つの階級についてだけ見れば、人種差別や女性差別も「異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するもの」のように見えるかもしれません。そして、そのような対立が権力者によって、いわゆる「分断統治」に利用されることがあるのも事実でしょう。しかし、その根底には、まさに社会の差別構造があります。しかるに、差別の問題を「差別ではなく、異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するものである」と言う人は、そのような社会の差別構造を看過する過ちを犯しています。

差別は構造の問題であり、そこではマジョリティとマイノリティの間に圧倒的な非対称性が存在するのですから、「分断」云々をいうのであれば、むしろマジョリティは「圧倒的な非対称性」という分断に安住しているのです。差別の問題に関してマジョリティが使いたがる表層的な「分断」という言葉は、差別構造における「圧倒的な非対称性」という、より深い分断を覆い隠してしまいかねません。

差別の問題で「分断」という言葉を使いたがるマジョリティたちは、きっと「我々だって、決して好き好んで差別するわけではない。社会の分断を利用したい権力者によって対立を煽られるのだから、仕方がないのだ。対立を煽られる点ではマイノリティにも落ち度があるし、分断される我々マジョリティだって本当は被害者なのだ」と言いたいのでしょう。たしかに、社会の差別構造は〈力〉を持つ者によってつくられるものです。しかし、それを支えているのは紛れもなくマジョリティであり、そうした構造のうえにマジョリティが「特権者」として安住していることに鑑みれば、「分断」という言葉を用いて社会の差別構造から目をそらし、被害者ヅラするのは、いささか醜悪で卑怯だといえます。例えば、日本社会の在日コリアン差別に関して、日本人が「日本社会に在日コリアン差別などというものはなく、あるのは日本人と在日コリアンの対立だ。安倍や極右によって社会を分断され、在日コリアンと対立させられる日本人だって本当は被害者なのだ。それに、対立を煽られる在日コリアンにも落ち度がある」などと言うのがどれだけ醜悪で卑怯であるか、民族差別について真摯に考えている人であれば容易に分かるはずです。

先に述べたように、社会の差別構造は〈力〉を持つ者によってつくられるものです。しかし、それは人がつくったものだからこそ、私たちはそれをこわしていくことができるのです。そして、社会の差別構造をこわしていく、それこそまさに私たちが差別を克服するためにしなければならないことなのです。そのためにも、私たちは「分断」などという言葉を安易に用いて社会の差別構造から目をそらしてはなりません。