あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

天皇制に反対することは、「天皇のことが好きか、嫌いか」の問題ではない。

天皇制に反対する私は、もし「天皇のことが好きか、嫌いか」と聞かれたら、迷わず「嫌いだ」と答えます。

もちろん、天皇のことが好きだというのは個人の勝手です。しかし、天皇制の是非を問う議論において「天皇のことが好きか、嫌いか」と問うことはナンセンスです。なぜなら、天皇制の問題は構造的な差別の問題であって、主観的な好き嫌いの問題ではないからです。ここであえて「好き嫌い」を問題とするならば、「天皇制のことが好きか、嫌いか」は、つまり「差別制度のことが好きか、嫌いか」ということです。

もっとも、天皇制の是非を問う議論において「天皇のことが好きか、嫌いか」と問うことがナンセンスであるとしても、「天皇のことが好き」だという感情は、天皇制という差別制度と決して無関係ではありません。なぜなら、天皇を敬愛する国民の感情(それを作り出すのは、ほかならぬ天皇制なのですが……)こそが、天皇制という差別制度を支える上で大きな役割を果たしているからです。しばしば「私は天皇のことが好きだが、しかし天皇制には反対だ」と言う人がいますが、残念ながらその人の天皇を敬愛する純粋な気持ちは、天皇制という差別制度の維持・強化に役立てられているのです。

さて、冒頭でも述べたように、もし「天皇のことが好きか、嫌いか」と聞かれたら、迷わず「嫌いだ」と答える私ですが、こんな私に「天皇のことが嫌いなら日本から出て行け」と罵声を浴びせる人もいるかもしれません。なぜ天皇のことが嫌いであれば日本から出て行かなければならないのか、正直なところ私には理解できませんが、この「天皇のことが嫌いであれば日本から出て行かなければならない」という"魔術的な言葉"は、紛れもなく天皇制によって生み出されたものです。そして、この"魔術的な言葉"を畏怖して「天皇のことが嫌いだ」と答えることを躊躇う人もいるでしょう。つまり、(天皇そのものは非理性的存在であるものの、)「排除の論理」で貫かれた天皇制は、「天皇のことが嫌いだ」という答えを許容しない制度なのです。こうした点に鑑みると、「天皇のことが好きか、嫌いか」を問うことは、やはりナンセンスであるといえるでしょう。問うべきは、「天皇のことが嫌いだ」という答えを許容しない暴力的な制度である天皇制です。

検察官が「準司法官」であるかどうかは、検察庁法改悪問題の本質的論点ではない。

www.jcp.or.jp

 

まず、はじめにお断りしておきますが、私は今般の検察庁法の改悪には断固として反対です。安倍首相は、今国会での成立を断念した理由を「国民のみなさまのご理解なくして、前に進めていくことはできないと考える」と述べていますが*1、政府に都合よく法律をいじることは法治主義に悖るものですから、今般の改悪法案は今国会での成立見送りにとどまらず、これを廃案にすべきです。

しかし、今般の検察庁法の改悪をめぐる議論の中で、どうしても違和感を覚える論点があります。それは、「検察官は行政官か、それとも「準司法官」か」という論点です。改悪反対論者の中には、安倍首相の「検察官は行政官だから、三権分立で言えば行政官」という発言*2を、「検察官は準司法官とも言われ」るという検察OBの発言*3検察庁のホームページに「検察官及び検察庁は,行政と司法との両性質を持つ機関である」と書かれている*4ことなどを挙げて、「検察官は『準司法官』であるから行政官ではない。それなのに検察官を行政官だと言う安倍は嘘つきだ」と批判する人が少なくありません。

たしかに、検察官が公訴権を独占し刑事司法において重要な一翼を担う機関であることから「準司法官」とよばれることがあるのはそのとおりです。しかし、それは検察官が行政官であることを否定するものではありません。

" そこで、①検察官が職務を行うにあたってはパルチザン的であってはならず、公正義務ないし客観義務が課され、②その地位は社会秩序の維持に奉仕する行政官ではあるが、職務の遂行にあたっては司法官的な行動規範による修正が加えられる。検察官がときに「準司法官」とよばれ、また、一方では、行政府に属するため検察官(同)一体の原則が認められるものの、他方では、ある程度の職務の独立があり、そのため裁判官に準じて身分が保障され、法務大臣の指揮権に制約が加えられるのも、そのためである。"(田宮裕『刑事訴訟法有斐閣

また、検察官の「準司法官論」は決して「自明の理」ではありません。

" 検察官の地位については、多々議論がある。……また、他方において、②「検察官の客観義務」あるいは検察官の「準司法官論」という主張もある。検察官に広範な権限が認められているのは、単なる一方当事者ではないからであって、裁判官に準ずる地位にあることを自覚的に議論しようとするものである。しかし、これによって検察官への権限集中を正当化するとすれば、あるべき刑事司法の形態からは遠ざかることになろう。"(田口守一『刑事訴訟法』弘文堂)

今般の検察庁法の改悪をめぐる議論では、どうもこの「準司法官」という言葉が独り歩きしてしまっているような気がしてなりません。もちろん、前述のとおり検察官が「準司法官」とよばれることがあるのは事実です。しかし、今般の検察庁法の改悪をめぐる議論で大切なのは、検察官が公訴権を独占し刑事司法において重要な一翼を担う機関であることから、政治からの独立性と中立性の確保が強く要請されるという点であって、検察官が「行政官か、それとも『準司法官』」は本質的論点ではありません。

私が「準司法官」という言葉の独り歩きを危険だと思うのは、検察官が「準司法官」であることを強調する人たちに対して「逆張り」したいからではありません。改悪反対論者の中には、「準司法官」という言葉にとらわれるあまり、検察官を司法機関そのものだと誤解する人も見受けられますが、そのような誤解は権力分立の趣旨にそぐうどころか、むしろ反するものだからです。すなわち、刑罰が国家による人権制限に鑑みれば、(刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求する)訴追機関である検察官を(具体的な争訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用)司法(司法とは、「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用」をいう)機関である裁判所から明確に分離することが権力分立の趣旨である人権保障に資するのであり、これもある種の権力分立であるといえます。歴史的に見ても、戦前の検察官は裁判所から明確に分離されておらず*5司法官的地位を有していましたが、しかし、現行刑事訴訟法の下では、検察官は司法官としての地位を否定され、行政官として性格づけられるに至りました。検察官が「準司法官」とよばれることがあるとしても、それはあくまでも司法官に準ずる行政官なのであって、司法官そのものではないのです。

さて、検察官が司法機関そのものではないとしても、だからといって今般の検察庁法の改悪が三権分立の観点から問題がないということにはなりません。安倍首相は、どうやら検察官が「三権分立で言えば行政官」であれば問題がないと思っているようですが、それは大きな勘違いです。冒頭で述べたように、政府に都合よく法律をいじることは法治主義に悖るものであり、すなわちそれは立法府と行政府の「あるべき関係」を破壊する点で、三権分立を破壊するものだといえるのです。また、安倍首相のおっしゃるように検察官が行政官であることを考えれば、市民が検察の「あるべき形」について声を上げていくことは、民主主義の観点からすれば非常に重要です。行政は、安倍首相の「私物」ではないのですから。

日本人が尹東柱を記憶しなければならない理由

日韓友好の木、何度も折られる 「異論あるなら言論で」:朝日新聞デジタル

 

なによりもまず言わなければならないことは、これは絶対に許してはならない卑劣なヘイトクライムだということです。これが絶対に許してはならない卑劣なヘイトクライムであるのは、第一にはコリアンに対する加害欲求をむき出しにするものだからです。それに加えて、「日韓の友好関係を傷つけるから」ということを理由に挙げる人も少なくないでしょう。「日韓友好」ということに関しては、碑やムクゲを管理する市民団体も「日韓友好に異論を持つ人が傷つけたのかもしれない」と述べています*1。もちろん、私も今般の犯行が日韓の友好関係を傷つけるものであることは否定しません。しかし、この卑劣なヘイトクライムを「日韓友好」の文脈だけで語るのは、いささか浅薄にすぎると思います。このことは、日本人が尹東柱先生を記憶しなければならない理由とも関係します。日本人は、尹東柱先生が「韓国の国民的詩人」であることから、尹東柱先生をただ単に「日韓友好」のために記憶すればよいというわけではありません。尹東柱先生は、「韓国の国民的詩人」である前に、日本帝国主義に殺された朝鮮人青年です。つまり、一人の朝鮮人青年を殺した日本帝国主義と向き合い、これを克服するために、日本人は尹東柱先生を記憶しなければならないのです。「日韓友好」は、日本人が日本帝国主義を克服した先にあるものです。

今般の犯行が絶対に許してはならない卑劣なヘイトクライムであるのは、コリアンに対する加害欲求をむき出しにするものであることに加えて、一人の朝鮮人青年を殺した日本帝国主義と向き合うことを拒み、さらには日本帝国主義の犯罪を暴力でもみ消そうとするものだからです。このことに鑑みれば、今般の犯行を「日韓友好への異論」としてだけ捉えるのは、問題を矮小化するものであって妥当ではありません。

碑やムクゲを管理する市民団体が碑に込めた「命を大事にする」という思い(おそらく、これは「序詩」*2の伊吹郷訳にある「生きとし生けるものをいとおしまねば」という一節にちなんだものでしょう。)を否定する権利など、もちろん私にはありません。しかし、もしその碑に込められた(生きとし生けるすべての命と「脱色化」された)思いによって一人の朝鮮人青年を殺した日本帝国主義の罪が忘れられてしまうことがあるとすれば、それは大変残念なことです。私たち日本人は、決して日本帝国主義の罪を忘れるために尹東柱先生を利用してはなりません。たとえ、それが「日韓友好」を願い、「日本人の良心」を満たすものであったとしても。もし私たちが日本帝国主義の罪を忘れてしまうのであれば、私たちは今般のヘイトクライムの犯人と所詮「同じ穴の狢」と言わざるを得ません。

 

法治主義、ひいては民主主義を破壊する検察庁法の改悪は、絶対に許してはならない。


【サンデーモーニング】2020年5月10日放送 黒板解説「検察庁法改正案」解説:青木理

 

民主主義の下では、行政は国民を代表する議会が定めた法律に従って行われなければなりません(法治主義)。今般問題となっている、内閣提出の*1検察庁法の改正法案は、安倍政権のお気に入りである黒川弘務東京高検検事長が検察のトップである検事総長に就任できるようにするために、検察官の定年を引き上げるものです。これは、政権に都合よく法律をいじるものであって、このようなことが許されるとすれば、法治主義、ひいては民主主義は崩壊します。それゆえ、私たち日本の人民は、日本が民主主義国家だと言うのであれば、このような法治主義、ひいては民主主義を破壊する検察庁法の改悪を、絶対に許してはなりません。

もっとも、今般の検察庁法の改悪に反対する人の中には、「新型コロナウイルス禍で大変な時にやるべきことではない」と言う人も少なからず見受けられます。たしかに、今般の検察庁法の改悪は新型コロナウイルス禍との関係では、まさに「不要不急」でしょう。しかし、前述のとおり検察庁法の改悪は法治主義、ひいては民主主義を破壊するものですから、新型コロナウイルス禍で大変な時であろうとなかろうと、これを絶対に許してはならないのです。なお、今般の検察庁法の改悪は安倍政府だけが問題なのでなく、これを「数の暴力」で通そうとしている自民党公明党とその補完勢力である日本維新の会も、安倍政府と「同罪」です。

ところで、今般の検察庁法の改悪に反対する人の中には、安倍政権がお気に入りの検事長検事総長に就任させるための法改正を「安倍政権による司法介入だ」とう言う人が少なくありません。たしかに、検察は「準司法権的性格を有する」としばしば言われます。しかし、これは検察官が公訴権を独占し、刑事司法の重要な一翼を担っているからであり、検察が司法そのものであることを意味するものでありません。司法とは「具体的な争訟について、法を適用し宣言することによって、これを裁定する国家の作用」ですが、三権分立の下では、これを行うのは裁判所であり、検察官が行うのはあくまでも裁判所に法の正当な適用を請求することです(検察庁法第4条参照)。もちろん、今般の検察庁法の改悪は、公訴権を独占するがゆえに求められる検察官の独立性を揺るがすものです。ただ、三権分立の観点から問題があるとすれば、それは行政府(安倍政権)の司法介入ではなく、やはり行政府による法治主義の破壊です。

さて、前述したように今般の検察庁法の改悪は、公訴権を独占するがゆえに求められる検察官の独立性を揺るがすものです。しかし、たとえ検察庁が一般の行政機関とは異なる特別の機関(国家行政組織法第8条の3)として一定の独立性が確保されているといえども、あくまでも法務省に属する行政組織ですから、その独立性にはやはり限界があります。そこで参考にしたいのが、政権の圧力を受けないよう、通常の検察官の指揮命令系統から独立して捜査にあたる「特別検察官」の制度です。今般の検察庁法改悪問題のように政権によって検察官の独立性が揺るがされる昨今、アメリ*2や韓国*3に倣い、日本でも「特別検察官」制度を導入すべきです。

実のところ、安倍氏を首相に選んだのは国民ではない。

とどまるところを知らない安倍政権の暴政について、リベラル派の中には「安倍を首相に選んだ国民が悪い」と言う人が少なからずいます。たしかに、日本が民主主義国家であれば主権者たる国民の責任が全くないということはありません。しかし、日本では国民が首相を選挙によって直接的に選ぶ首相公選制を採用していないのですから、国民が安倍氏を首相に選んだというのは誤解です。

安倍氏が首相であるのは、国会の多数派である政権与党によって選ばれたからです(憲法67条1項参照)。つまり、それは国民の多数が自民党公明党を政権与党に選んだ結果であり、安倍氏が首相であることについて国民に問題があるとすれば、それは国民の多数が自民党公明党を政権与党に選んだ点です。

もっとも、国民に問題があるといっても、自民党公明党を政権与党に選んだのはあくまでも「国民の多数」ですから、私のように自民党公明党を政権与党に選んでいない政治的少数派も「責任」を問われるというのは、なんだか腑に落ちません。そもそも、政治的少数派が問われる「責任」とは、いったいどのようなものでしょうか。もしや、選挙という〈ゲーム〉で負けたことの責任でしょうか。「有権者の責任」という言葉を口にする人は少なくありませんが、その「責任」がいったいどのようなものであるかは、なかなかの難問だと思います。

それはさておき、安倍氏が首相であるのが、国民の多数が自民党公明党を政権与党に選んだ結果であれば、安倍政権の暴政を終わらせるために国民ができることの一つは、選挙を通じて自民党公明党を政権与党である現状を変えることでしょう。もしかすると、自民党公明党を政権与党である現状を変えなくても安倍氏が首相を辞めればそれでいいと思っている人もいるかもしれません。しかし、安倍氏を首相に選んだのは政権与党なのですから、自民党公明党を政権与党である現状を変えなければ本質的には何も変わらないでしょう。「アベ政治」は自民党政治が突然変異して生まれた怪物などではなく、まさしく自民党政治が先鋭化したものなのですから。それに、安倍氏を首相に選んだのが政権与党である以上、政権与党には下野という形でしっかりと責任を取らせなければなりません。

ただ、そうはいっても選挙によって自民党公明党を政権与党である現状が変わる保証はありませんし、有権者の皆が選挙へ行けば自民党公明党を政権与党である現状が変わるかどうかは、私には分かりません。もちろん、選挙が安倍政権の暴政を終わらせるための有効な手段であることは否定しません。しかし、それだけで「変える」ことができるほど現実は甘くないでしょう。もっとも、そんなことは私がいまさらわざわざ言うことではないかもしれませんが。

排外主義克服のための日本国憲法改正

安倍政権のもとで改憲「反対」58% 朝日新聞世論調査:朝日新聞デジタル

 

もちろん、私も安倍政権のもとで憲法改正を実現することには反対です。しかし、はたして日本国憲法は、全く改正する必要がない完全無欠の憲法でしょうか。私はそうは思いません。

たしかに、平和主義に限って見れば、日本国憲法は画期的なものであるといえます。しかし、残念ながらそのような画期的な憲法も、差別主義あるいは排外主義に関しては、未だこれを克服できていないといわざるを得ません。

人権とは「人種、性、身分、国籍などの区別に関係なく、人間であることに基づいて当然に享有できる権利」であり、憲法はかかる人権を保障したものです。そして、それは立憲主義憲法である日本国憲法も例外ではありません。しかるに、例えば日本国憲法は人権規定の総則である第12条で「この憲法が国民に保障する自由及び権利は……」と定めていますが、これは憲法が「国民の権利」ではなく人権を保障したものであることに背くものです。もっとも、「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」と解するのが判例マクリーン事件*1)です。しかし、差別主義者あるいは排外主義者に「国民」とされない人の人権享有主体性を排除する解釈の余地を与える条文の文言(生存権を保障する憲法25条の「すべて国民は」という文言も、「国民」とされない人の生存権を否定するために悪用されることが多い文言です。)をそのままにしておくことは、やはり背理であるといわざるを得ません。

さて、おそらく「改憲論者」の多くは、「平和主義の理想と現実」を日本国憲法の矛盾の最たるものだと考えているでしょう。たしかに、いくら平和主義の理想を唱えても、世界から戦争はなくならないかもしれません。しかし、そもそも平和主義は現実を変える指針なのですから、たとえ「平和主義の理想と現実」が矛盾だとしても、その矛盾を解決するために変えるべきは平和主義ではなく現実です。

私が思うに、日本国憲法の矛盾の最たるものは、立憲民主主義の憲法であるはずの日本国憲法が、反民主主義的で差別的な制度である天皇制を定めている点です。「治者と被治者の自同性」である民主主義は、個人が平等であることを前提として成り立つものです。つまり、人民とは異なる特別な身分を認める天皇制は、個人が平等であることを前提として成り立つものである民主主義に全くそぐわない代物であり、「天皇制は、憲法法の下の平等(第14条)の例外としてこれを認めている」などと言うのは、問題の本質をはぐらかす詭弁でしかありません。「法の下の平等」も、天皇制が存続する限りそれは「天皇制の下の平等」でしかないでしょう。このように、天皇制は立憲民主主義の本質にそぐわない矛盾ですから、これを解決するには憲法を改正して天皇制を廃止するしかありません。

昨今、安倍首相は「活発な憲法改正論議」をさかんに呼びかけています*2。しかしながら、安倍首相が呼びかけるそれは立憲主義を破壊するための論議にほかなりません。本当に必要な「憲法改正論議」は、憲法を壊すための論議ではなく、まさに憲法を「正す」ための論議です。そして、本当に必要な憲法改正は、日本国憲法に内在する差別主義あるいは排外主義を克服するための憲法改正です。かかる改正でなければ、たとえ「国民連合政府*3」(それにしても、日本共産党が実現を呼びかけるこの「国民連合政府」も、日本国憲法と同様に「国民」概念の暴力性にはなんとも無頓着です。)のもとで実現する改正であっても、私は決して賛成しません。

「国家からの自由」を求めながら「国家による自由」を求めることは、何ら矛盾するものではない。

今般の新型コロナウイルス禍において、生活保障を訴えるリベラル派を「政府を敵視するリベラル派が政府に頼ろうとするのは矛盾した態度だ」と冷笑する声がしばしば聞かれます。

ネオリベラリズム的な発想からすると、国家権力からの自由を主張するリベラル派が生活保障を訴えることは矛盾なのかもしれません。しかし、人権理論からすれば、それは誤解です。すなわち、「国家からの自由(自由権)」を求めながら「国家による自由(社会権)」を求めることは、何ら矛盾するものではありません。なぜなら、「国家からの自由」を求めることも「国家による自由」を求めることも、どちらも人権の実現を求めるものだからです。

ただし、ここで誤解していただきたくないのは、感染症の拡大を防止するための強権的措置を講ずることは「国家による自由」ではないということです。感染症の拡大を防止するための強権的措置を講ずることは、たとえそれによってある人権が実現されるとしても、強権的措置そのものは自由の制限であって「国家による自由」ではありません。つまり、われわれ人民の側から国家による強権的措置を求めることは、「国家からの自由」を進んで放棄するものだということです。

「人権に配慮しすぎて、政府は有効な対策を講じることができずにいる」などというのは、全くの詭弁です。むしろ政府は人権、そして民主主義を軽視しているからこそ、お粗末な対応に終始してしまっているのです。

現代立憲主義のもとでは、国家には人民の生存権を実現する責務があります。しかるに、もし日本国が人民の生存権を実現する責務を果たさないとすれば、日本国は現代立憲主義国家であるとはおよそ言えないでしょう。