「表現の自由」を理由にヘイト・スピーチの法規制に反対する主張は、突き詰めれば、差別的表現の自由も保障されるべきであり、「不快な」表現は被害者が我慢すべきだということになる。
[……]マイノリティがヘイト・スピーチによって被る害悪[……]は、社会、すなわちマジョリティが、マイノリティに対して我慢を強いることが許されるような程度のものなのだろうか。
(師岡康子『ヘイトスピーチとは何か』岩波新書 50―51頁)
差別煽動表現(以下、ヘイトスピーチという)は憲法が保障する表現の自由に含まれる、そう主張する人が少なからずいます。もちろん、「ヘイトスピーチは表現の自由に含まれる」と主張するのは自由です。しかし、これから述べる憲法が表現の自由を人権として保障した趣旨に鑑みれば、ヘイトスピーチそれ自体を表現の自由に含まれるものと考えることは、私にはできません。
意見を持つということも、政府の葡萄酒醸造政策についてでもあったら、まだまだ承認できぬこともない。アルジェリアの葡萄酒を、自由に輸入するか否かについては、それぞれの理由も成り立とう。というのも、この場合は、物品の管理についての見解を述べるのだからである。これに反して、直ちに特定の個人を対象とし、その権利を剝奪したり、その生存を脅かしたりしかねぬ一主義を、意見などと呼ぶことは、わたしには出来ない。
(J-P.サルトル『ユダヤ人』安藤信也訳 岩波新書 4頁)
憲法が表現の自由を人権として保障したのは、それが単に「自由」だからではなく、人権として憲法で保障する価値があるからです。表現の自由には、二つの大切な価値があります。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)です。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)です。そして、これら二つの大切な価値を守ることが究極的には個人の尊厳の確保に資することから、憲法は表現の自由を人権として保障したのです。
ヘイトスピーチが表現の自由に含まれるか否かを議論することは自己実現の価値あるいは自己統治の価値に資するといえるので、「ヘイトスピーチは表現の自由に含まれる」と主張するのは表現の自由に含まれるといえます。これに対し、個人の尊厳を傷つけるヘイトスピーチは、究極的には個人の尊厳を確保するという憲法が表現の自由を保障した趣旨に悖るものであって、それが表現の自由に含まれないことは明らかです。いわゆる「ヘイトデモ」について、2016年6月の横浜地裁川崎支部の決定も、違法性が顕著であれば「憲法が定める集会や表現の自由の保障の範囲外」であるとしています*1。
もっとも、ヘイトスピーチも表現の自由に含まれるが、「公共の福祉」によって制約される、と解することも不可能ではありません。しかし、そう解するのは、先に述べた憲法が表現の自由を人権として保障した趣旨をあまりにも軽んじるものであって、妥当ではありません。やはり、ヘイトスピーチは表現の自由に含まれない、と解するのが理に適うものといえます。
ところで、ヘイトスピーチは個人の尊厳を傷つけるという点に関しては、「ヘイトスピーチが傷つけるのは、集団であって個人ではないから、個人の尊厳云々は無関係だ」と言う人がいます。しかし、そういう人は、ヘイトスピーチによって傷つけられる人間を間違って捉えています。
反ユダヤ主義者が傷けようとしているユダヤ人、それは、行政法の中にでもあるような、単にその機能によってのみ定義された図形的存在ではない。法典におけるが如く、状況と行為によってのみ規定された存在ではない。それはひとりのユダヤ人、ユダヤ人を父とし、肉体的に、髪の色や、あるいは身なりで、更に、性格によっても、識別がつくといわれるひとりのユダヤ人なのである。
(J-P.サルトル『ユダヤ人』安藤信也訳 岩波新書 4頁)
つまり、「ヘイトスピーチが傷つけるのは、集団であって個人ではない」という人は、ヘイトスピーチによって傷つけられる人間を「記号的存在」として捉えています。しかし、ヘイトスピーチが傷つけるのは、「記号的存在」としての人間ではなく、一人ひとり顔も性格も異なる生身の人間なのです。
このように、私はヘイトスピーチを表現の自由として保護する価値のある表現ではないと考えるわけですが、こうした問題意識、すなわち「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対し、いわゆる有識者の中には「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と答える人が少なからずいます。
「規制は例外的で、ヘイトスピーチ規制も慎重であるべきだ」という榎透・専修大教授(47)は、表現の自由の大切さを指摘する。
[……]
しかし、差別的な表現まで保護する価値はあるのか。「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と榎教授。
(憲法を考える)ヘイト規制、表現の自由と両立は 全国初の罰則条例、川崎市で施行:朝日新聞 (2020年7月28日付け朝刊)
もちろん、表現の自由は大切ですし、「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」というのも、それはその通りです。しかし、それは「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対して答えるものではありません。というのも、「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対して「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と答えるのは、抽象的思考レベルの議論と具体的思考レベルの議論を混同して話をはぐらかすものだからです。つまり、「常に権力の乱用の危険がある」というのは「いかなる表現が保護に値しない『ヘイトスピーチ』であるか」を判断あるいは裁定するための規範を定立する具体的思考レベルの議論(もっとも、そこで定立される規範自体は、「法規範」ですから一般的かつ抽象的なものです。)における問題であって、それは「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という抽象的思考レベルの議論において問題とすべきものではないのです。
「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対する答えは、「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はある」「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はない」のいずれかです。規範の「漠然不明確性」や「過度の広汎性」による権力の乱用の危険は、具体的思考レベルの議論において問うべきことであって、抽象的思考レベルの議論における問いの答えではありません。それに、もし抽象的思考レベルの議論における「ヘイトスピーチ」の概念が漠然とした不明確なものだというのなら、およそあらゆる抽象的思考レベルの議論における概念が漠然とした不明瞭なものだということになるでしょう。たとえ抽象的思考レベルにおいてヘイトスピーチは表現の自由に含まれないと解しても、具体的思考レベルにおいて表現の自由に含まれない「ヘイトスピーチ」を厳密に定義すれば、権力の乱用を防ぐことは十分可能です。また、「常に権力の乱用の危険がある」のはヘイトスピーチの法規制に限ったことではありません。そして、そもそも個人の尊厳を傷つけるヘイトスピーチは「言論」ではありませんから、憲法がその確保を究極目的とする個人の尊厳を傷つけるヘイトスピーチを民主制の過程を通じて法規範を定立することによって「言論」から除外し、司法が法規範を適用することでヘイトスピーチによる人権侵害を救済することは、「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めること」では決してありません。
いくら表現の自由が大切といえども、それが個人の尊厳に根ざすマイノリティの人格権に常に優越することは決してないことを考えれば、本当に問うべきは、権力の乱用を防ぎつつ、いかにヘイトスピーチによる侵害からマイノリティの人格権を法的に保護していくか、ということです。しかるに、「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」というところで思考を止めてしまい、「表現の自由」を教条的に唱えてヘイトスピーチを野放しにしておくのは、マジョリティの怠慢かつ傲慢と言うほかありません。
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