葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本人が関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺を繰り返してならないのは、「日本人も朝鮮人と間違われて殺されたから」ではない。

日本人の中には、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に関して「日本人も朝鮮人と間違われて殺された」ことを強調する人たちが、少なからず見受けられます。そういう人たちは、もしかすると関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺を「日本人も朝鮮人と間違われて殺されたから、自分たち日本人にとっても決して他人事ではない」と思っているのかもしれません。しかし、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺が日本人にとって他人事ではないのは、「日本人も朝鮮人と間違われて殺されたから」では決してありません。

言うまでもなく、関東大震災時の日本人による朝鮮人・中国人虐殺の根底にあるのは、今もなお続いている天皇制国家・日本の朝鮮人や中国人に対する構造的差別です。関東大震災時に朝鮮人や中国人を虐殺した日本人たちは、天皇制国家・日本で差別されている朝鮮人や中国人だからこそ、朝鮮人や中国人を差別する意図をもって、朝鮮人や中国人を虐殺しました。そして、千葉県福田村(現野田市)で香川県から行商に訪れた被差別部落の人たちを虐殺した*1日本人たちも、朝鮮人や中国人を差別する意図をもって、結果的に香川県から行商に訪れた被差別部落の人たちを虐殺しました。つまり、天皇制国家・日本に朝鮮人や中国人に対する構造的差別があり、天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」たちが朝鮮人や中国人に対する差別を内面化していたからこそ、日本人は関東大震災時に多くの朝鮮人や中国人を虐殺し、さらには「朝鮮人と間違えて」香川県から行商に訪れた被差別部落の人たちを虐殺したのです。

わたしが諸君に知ってほしいのは、植民地主義の苛酷なしわざ、その内的必然性、これに従えば今日のわれわれの状況におちこまざるをえないということ、この地獄の軌道の内側では、いかに純粋なもくろみが生まれようと、瞬時に堕落してしまうということなのである。

なぜかというと、良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるというようなことは真実ではないからだ。植民者がいる。それだけのことだ。

 

(J-P・サルトル「植民地主義は一つの体制である」多田道太郎訳 人文書院『植民地の問題』33頁)

関東大震災時に朝鮮人や中国人を虐殺した日本人たちも、その多くは、今でいうところの「レイシスト」ではなく、日頃は天皇制国家・日本の「善良」な「国民」だったのでしょう。しかし、そんな彼らは、天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」であるがゆえに、天皇制国家・日本の構造的差別である朝鮮人や中国人に対する差別を内面化し、差別デマに煽られるがままに朝鮮人や中国人の虐殺に及んだのです。

こうしたことから、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺が日本人にとって他人事ではないのは、「日本人も朝鮮人と間違われて殺されたから」ではなく、天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」である以上は「殺す側」になりかねないからだということがわかります。つまり、天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」は、構造的に「殺される側」ではなく「殺す側」だからこそ、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺を繰り返してならないのです。

もしかすると「リベラル」派の中には、自分は天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」だけれども、「レイシスト」ではないから「殺す側」には決してならないと思っている人もいるでしょう。しかし、関東大震災時にも「殺す側」から排除されて殺されたくないから「殺す側」に留まり虐殺に及んだ「国民」もいたかもしれません。つまり、たとえ「レイシスト」ではなくても天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」である以上は、「殺す側」であることから逃れることは決してできないのです。そして、朝鮮半島にルーツを持ち「日本人」を自認しない私も、天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」である以上は例外ではありません。

関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に関しては、「日本人も朝鮮人と間違われて殺された」ことに加えて、「虐殺から朝鮮人と中国人を救った日本人もいた」*2こともよく強調されます。しかし、「虐殺から朝鮮人と中国人を救った日本人もいた」から何だと言うのでしょうか。「そうした先人のような立派な日本人に、われわれもなりましょう」とでも言うのでしょうか。

日本人が関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺を繰り返さないためにするべきことは、「虐殺から朝鮮人と中国人を救った先人のような立派な日本人になる」ことではなく、今もなお続いている天皇制国家・日本の外国人に対する差別構造を壊すことです。そうした差別構造は、天皇制国家の権力者層すなわち人が作ったものですから、天皇制国家・日本のマジョリティでたる「国民」はそれを壊していくことができますし、天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」が「殺す側」であることをやめるためには、それを壊していかなければならないのです。そして、そのためにもまず、天皇制国家・日本のマジョリティたる「国民」たちは、「虐殺の被害者には日本人もいた」あるいは「虐殺から朝鮮人と中国人を救った日本人もいた」といって「逃げ道」を作らずに、日本人による朝鮮人・中国人虐殺という加害の歴史と徹底的に向き合わなければなりません。

日本の天皇制イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変わらぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。自然現象のような「民族性」ということばは絶望に通じていきかねない。紀元前にしても天皇制にしても明治の、日本の資本主義が発生していく過程で明らかに意図的につくられたものなのです。今のわれわれの実感ではそうは到底思えないくらい血肉化しちゃっいるけれども、元をただせば権力の側からつくり出されたものが、われわれが自分の責任において自分の生活をその中に埋没させたことによって、一つの既成事実となったのです。

 

(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』平凡社ライブラリー 174―175頁)

広島の「平和」は、日本政府が推し進める広島の再「軍都」化を許すのか。

防衛拠点整備へ防衛省が土地を取得 広島県呉市で無人機など製造案 [広島県]:朝日新聞

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小泉進次郎防衛相は28日の閣議後会見で、広島県呉市にある「日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区」(日鉄呉)の跡地を防衛省が取得する契約を同社と締結したことを明らかにした。防衛省はこの跡地に「多機能な複合防衛拠点」を整備する計画を示していた。

[……]

地元では雇用創出に期待する声がある一方で、他国の攻撃の標的になるとして反対集会も開かれている。

 

防衛拠点整備へ防衛省が土地を取得 広島県呉市で無人機など製造案 [広島県]:朝日新聞

小泉防衛相は「防衛拠点整備」だと言いますが、「防衛力の抜本的強化」というのが、その実は米国主導のアジア・太平洋国際秩序を維持・拡大するための「米国の戦争」に参加するために必要な日本の軍事力のさらなる強化である*1ことを考えれば、これは「米国の戦争」のために呉を軍事拠点化するものに他なりません。そして、それはすなわち広島の再「軍都」化です。

1871年(明治4年)、広島城内に鎮西鎮台第一分営が設置され、広島は全国有数の陸軍の重要な拠点になりました。1888年(明治21年)に第五師団に改組され、市内には軍の施設が増えていきました。第五師団に所属する部隊は日清戦争、義和団戦争、日露戦争、青島出兵、シベリア出兵、日中戦争に出動するなど、近代日本の戦争に深く関わっていました。

 

広島平和記念資料館 | 展示を見る | 常設展示 | 6 広島の歩み | 6-1 戦時下の広島と戦争 | 6-1-1 戦前の広島 | 6-1-1-1 軍都広島

広島平和記念都市建設法

(目的)
第一条 この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする。

「平和都市・広島」の「平和」が恒久平和主義であるならば、「米国の戦争」のために呉を軍事拠点化することは、恒久平和主義と敵対的に矛盾するものであり絶対に許されないはずです。それとも「平和都市・広島」の「平和」は、恒久平和主義ではなく、未清算の軍国主義を覆い隠す欺瞞でしかないのでしょうか。「戦後平和主義」が、未清算の軍国主義を覆い隠す欺瞞である*2ように。

また、広島平和公園と記念館は日本と広島の平和への固い意思を表す代表的なスポットであるが、ここから車で一時間もかからない同じ県内の呉市に自衛隊基地があり、呉市海事歴史博物館(大和ミュージアム)の入館者数は広島平和記念館の入館者数を上回る。同じ県内で一方では戦争への反省と反核の表象を、他方では侵略戦争の中核を担った戦艦をそれぞれ展示している、ということになる。被爆経験から導き出された平和という理念が広島の特定の時空間に閉じ込められている証拠でもある。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局(2016年)186頁)

日本政府が推し進める呉の軍事拠点化は、戦争の放棄を定めた日本国憲法9条に違反するものですが、私たちが憲法9条に立脚して呉の軍事拠点化に反対するのであれば、その理由は「他国の攻撃の標的になる」ことだけではありません。憲法9条は日本を再び戦争の加害者にしないためのものですが、「米国の戦争」のために呉を軍事拠点化することは、すなわち呉を米日による他国への攻撃拠点にするものです。つまり私たちは、何よりもまず日本を再び戦争の加害者にしないために、呉の軍事拠点化に反対すべきなのです。

私は、広島は「被爆都市」だからというより、むしろ「軍都廣島」だったからこそ、平和都市であるべきだと思います。つまり、広島を真の平和都市とするためには、「軍都廣島」を清算し乗り越えることが必要不可欠なのです。そして、それは広島のみならず日本についても言えることです。つまり、日本を真の平和国家とするためには、未清算の日本軍国主義を清算し乗り越えることが必要不可欠なのです。そして、そのためにも私たちは、「米国の戦争」のために呉を軍事拠点化することを断じて許してはならず、さらには呉を「米国の戦争」の軍事拠点として必要とする日米軍事同盟の解消と日本軍「自衛隊」の解体を求めなければなりません。

……旗は今もお国のため天皇のため
死ねよ、死ねよとはためいている。
日の丸の下に安らかな眠りはない。
それでもピース、ピース ピース・ヒロシマだ。

 

(栗原貞子「それでもピース・ヒロシマ」(1986年))

私たちは、「ヒロシマ」を決して「ヤスクニ」にしてはならないのです。

真に問い直すべきは、天皇制そのものである。

(社説)君主の継承 「男子限定」を問い直す:朝日新聞

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世襲の君主継承を男性に限る国が、欧州から姿を消す。

立憲君主国リヒテンシュタインが、性別にかかわらず第1子が継ぐ制度への変更を発表した。侯爵家の家法を改正し、今後生まれる世代から適用する。家法に関する議決権も女性に認める。

[……]

リヒテンシュタインの君主と日本の天皇は単純には比べられない。だが、世襲制度を時代にどう適応させるかという課題は共通する。

日本でも、かつてこの点を正面から議論した。05年の政府有識者会議は、伝統は不変ではなく、各時代の選択の積み重ねが新たな伝統を形づくる面があると指摘した。何を守り、何を改めれば次代につなげられるのか。リヒテンシュタインの決断は、その問いを改めて日本に突きつける。

 

(社説)君主の継承 「男子限定」を問い直す:朝日新聞

日本を代表する「リベラル」紙の朝日新聞は、一体いつまで論点をずらし続けるつもりでしょうか。

上掲の朝日新聞社説は、天皇制を次代につなげるべき「伝統」だと考えているようです。しかし、天皇制を「伝統」だと考えるのは大間違いです。

天皇制は、近代において欧米に対抗して国民国家を形成するために作り出された人民支配の装置であり、それは神話という虚構に基づき「天皇」という特定の人物を特別視し、そうした特別視によって作り出される「天皇」の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとするものです。つまり、天皇制は神話に依拠することで「伝統」に擬態した支配装置であり、「伝統」では決してありません。朝日新聞は「リヒテンシュタインの君主と日本の天皇は単純には比べられない」と言いますが、まさか日本の「天皇」は「神の子孫」であり、それゆえリヒテンシュタインの君主とは違うのだ、とでも言うつもりでしょうか。

天皇制あるいは皇室制度は、神話という虚構に基づき「天皇」という特定の人物あるいは「天皇一家」という特定の家族を特別視するものですから、それは人間を「生まれ」によって差別し、それを権力者が利用して人民を抑圧するものです。そんな天皇制を次代につなげたい朝日新聞は、「何を守り、何を改めれば次代につなげられるのか」と問いかけますが、こうした問いには「リベラル」な「女系・女性天皇論」の本質が透けて見えます。つまり、「女系・女性天皇論」とは、男女平等という現代のリベラルな価値観に天皇制を適応させることで、人民に対する身分差別という天皇制の本質を守り、天皇制国家体制を維持するための方便なのです。

徐教授は去る20年余りの間、日本リベラル知識人たちは思想的にどこまでも崩れ落ちてきたと見る。それが日本の悲劇だ。中間を自任するリベラルは右派の超党派的国粋主義や攻撃的国家主義を拒否するが、彼らと同じ日本‘国民’として享有する既得権に執着しつつ、自己中心的‘国民主義’へと崩れ落ちていった。この国民主義はある局面では右派の国粋・国家主義と対立関係を形成するが、植民支配を通じた略奪と労働搾取を通じて蓄積された日本国民の潤沢な経済生活や文化生活、すなわち 日本国民として享有する自分たちの既得権が外部の他者(または、内部の他者である在日外国人、すなわち‘非国民’)から脅威を受けていると感じる瞬間に右派との補完関係、共犯関係に切り替わる。その時、リベラルの多数はいつも両非難論を前面に出し傍観的で冷笑的な態度で一貫する。それが去る数十年間にわたり日本右派の台頭を決定的に助けてきた。外部の人々の目にはこのことがよく見えない。 そのためにはっきり見える右派よりリベラルの方がはるかに危険なこともあると徐教授は語る。

 

日本‘リベラル’にだまされるな、もっと危険だ : 文化 : ハンギョレ新聞

天皇制の問題に関しても、「男系男子」に固執する右派よりも人民に対する身分差別という天皇制の本質を守るために「男女平等」という現代のリベラルな価値観を悪用する日本「リベラル」派の方が、故・徐京植先生の言葉のとおり「はるかに危険」と言えるかもしれません。

繰り返しになりますが、天皇制の本質は人民に対する身分差別です。つまり、天皇制について真に問い直すべきは、「男子限定」ではなく、人間を「生まれ」によって差別し、それを権力者が利用して人民を抑圧する天皇制そのものなのです。

世界人権宣言

第一条

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

 

世界人権宣言テキスト | 国連広報センター

そして、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という人類の普遍的価値に立脚するならば、人民に対する身分差別である天皇制は廃止しなければなりません

「戦後平和主義」の欺瞞に満ちた天皇徳仁の言葉

〈天皇陛下のお言葉全文〉「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」 全国戦没者追悼式:東京新聞デジタル

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終戦以来81年、人々のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。

ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。

 

〈天皇陛下のお言葉全文〉「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」 全国戦没者追悼式:東京新聞デジタル

案の定、天皇徳仁が全国戦没者追悼式で述べた言葉を絶賛する「リベラル」派たちが多く見受けられます。しかし、そんな「リベラル」派たちの多くが絶賛する徳仁の言葉も、私には「戦後平和主義」の欺瞞に満ちたものとしか思えません。

徳仁は、「終戦以来81年、人々のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられ」たと言います。しかし、はたして「今日のわが国の平和と繁栄」すなわち戦後日本の「平和」と「繁栄」は、日本国憲法のよって立つ恒久平和主義を体現したものであるといえるでしょうか。

米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の七〇%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 はしがき x頁)

徳仁が「終戦以来81年、人々のたゆみない努力により築き上げられ」たと言う「今日のわが国の平和」すなわち戦後日本の平和主義体制は、米国主導の国際秩序の維持・発展に伴う軍事的リスクを沖縄と韓国が負担するという、沖縄と韓国の犠牲の上に築かれたものです。

よく知られているように、いわゆる特需ブームとは何であったかです。アメリカは朝鮮戦線で莫大な物量の消耗戦を平気でやる、その武器の生産ないし修理はもっぱら日本が引受けている。日本の重工業資本は、戦後の復活のキッカケをここではじめてつかむ。特需が全体として日本の国際収支を支え、後の「高度成長」政策を可能にしていく。朝鮮戦争の犠牲の上に日本の資本主義体制、六〇年代以降につらなるその体制は築かれたのです。いま一度そのことをきわめて重い問題として考えておく必要があると思います。

 
(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』平凡社ライブラリー 270―271頁)

そして戦後日本は、憲法9条があるにもかかわらず、米国と「安全保障」に名を借りた軍事同盟を結び、皮肉な話ですが憲法9条のおかげで自らの手を血で汚すことなく朝鮮戦争(1950年~)やベトナム戦争(1960~75年)といった米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するための戦争に加担することで得た血生臭いカネを養分に日本資本主義が膨張することで繁栄してきました。これがまさに、徳仁が「終戦以来81年、人々のたゆみない努力により築き上げられ」たと言う「今日のわが国の繁栄」の正体です。
つまり、徳仁が「終戦以来81年、人々のたゆみない努力により築き上げられ」たと言う「今日のわが国の平和と繁栄」は、沖縄と朝鮮半島、さらにはベトナムの理不尽な犠牲の上に成り立つ「戦後平和主義」の欺瞞の産物なのです。徳仁の言葉は、そうしたことを隠蔽し「国民」たちに忘れさせます

徳仁は「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致」すと言いますが、徳仁はもちろん「リベラル」派の多くも、先に述べた「戦後の長きにわたる平和」に内包された矛盾から目を逸らします。しかし、そうした「戦後の長きにわたる平和」に内包された矛盾が激化したものこそが、まさに昨今の日本における軍国主義の台頭なのです。
徳仁は「深い反省」を口にしますが、いったい何を深く反省しているのでしょうか。「戦後平和主義」の欺瞞に満ちた徳仁の言葉から考えれば、それは石破前首相の「反省」*1と同様、せいぜい米国をはじめとする連合国と無謀な戦争をして、多くの犠牲を出し、無残な敗北を喫したことを反省するものでしかないでしょう。徳仁が「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継」ぐと言うように、戦後日本で語り継がれるのは戦中や戦後まもなくの占領期における日本人の苦難ばかりで、天皇制国家による戦争加害あるいは植民地支配による加害の歴史が語り継がれることは皆無に等しいと言っても過言ではありません。「リベラル」派の多くが、高市の「惨禍を繰り返させない」という言葉を批判していますが*2、徳仁の「繰り返されぬことを切に願い」という言葉も高市のそれと同様、どこか他人事です。

もちろん、こうしたことは徳仁や石破だけの問題ではありません。戦後日本の「反省」が、そうした米国をはじめとする連合国と無謀な戦争をして、多くの犠牲を出し、無残な敗北を喫したことを反省するものでしかないからこそ、「平和憲法」をないがしろにしてアジアにおける米国の覇権を維持・拡大するための「来たるべき戦争」の準備を進め、アジアを再び戦場にしようとしているのです。天皇制国家・日本は、米国をはじめとする連合国との無謀な戦争、すなわち太平洋戦争以前に、朝鮮侵略の第一歩となった江華島事件、朝鮮王宮への侵犯、甲午農民戦争での日本軍による農民虐殺、朝鮮支配めぐる戦争である日清戦争、台湾植民地支配、朝鮮支配めぐる戦争である日露戦争、朝鮮植民地支配、中国侵略の始まりである満州事変、日中戦争、日中戦争での日本軍による南京大虐殺……と、数々の過ちを重ねてきました。そうした過ちの積み重ねの延長線上に、米国をはじめとする連合国と無謀な戦争という過ちがあります。それを考えると、戦後日本が本当にするべき反省は、天皇制国家がアジアを侵略・植民地支配したことなのです。もし戦後日本が天皇制国家によるアジア侵略・植民地支配を深く反省していたなら、今日もなお天皇制国家体制が存続していることはないはずです。つまり天皇徳仁の「深い反省」も、「令和ファシズム」を推し進めるための口先だけの欺瞞でしかなく、徳仁の言葉を絶賛する「リベラル」派たちは「令和ファシズム」にまんまと絡め取られてしまっているということです。

「外国人も働いて納税し日本を支えているのだから、日本社会の一員だ」という言説の危うさ

[大弦小弦]働き納税者であり日本社会の一員である外国人 | 大弦小弦 | 沖縄タイムス+プラス

www.okinawatimes.co.jp

日本社会における外国人差別に反対する言説の中には、よく「外国人も働いて納税し日本を支えているのだから、日本社会の一員だ」というものが見受けられます。

その言わんとすることはわかりますが、しかし、そうした言説に私はある種の危うさを感じざるを得ません。

スイス経済は労働者を呼んだのに、来たのは人間だった。

 

マックス・フリッシュ(Max Frisch 1911-1991)

言うまでもなく外国籍市民はロボットではなく人間ですから*1、病気やケガなどといった個人的な事情、あるいは日本社会の構造的差別により働くことができない人もいることでしょう。そして、働くことができず経済的に困窮して納税できない人もいることでしょう。日本社会の一員である条件として働くことや納税することを求めるとすれば、そうした外国籍市民たちは日本社会から排除されてしまいます。

yukito-ashibe.hatenablog.com

差別主義者の中には「働かず納税しない人間はたとえ日本人だろうと社会から排除すべきだ」と言う人もいるでしょうが、差別に反対する「リベラル」派の中にはさすがにそういうことを言う人はいないでしょう。しかし、もし差別に反対する「リベラル」派が、日本社会の一員である条件として日本人に対しては求めない働くことや納税することを外国籍市民に対して求めるのであれば、それは差別であると言わざるを得ません。

「人種、性、身分、国籍などの区別に関係なく、人間であることに基づいて当然に享有できる権利」である基本的人権が尊重される社会では、外国籍であっても、働くことができず納税することができなくても、人間である以上はその一員です。つまり、もし日本社会がそうした社会であるならば(残念ながら今の日本社会は、そうした社会ではなく排外主義の嵐が吹き荒れていますが……)、働くことができず納税することができない外国籍市民であっても当然に日本社会の一員なのです。

このように私は、働くことや納税することが日本社会の一員である条件とは考えませんが、それでもあえて外国籍市民にも納税の義務が課されていることについて言うならば、外国籍市民には納税の義務が課されているにもかかわらず地方参政権すらないことがそもそもおかしいのです。つまり、民主主義が「治者と被治者の自同性」であることを考えると、もし日本が民主主義の国であるならば、日本国籍者と同様に納税の義務を課されている「被治者」である外国籍市民にも参政権が認められてしかるべきなのです。そして、民主主義の究極目的が個人の基本的人権を確保することにあることを考えると、日本社会を外国籍市民の人権も当然に尊重される真っ当な社会にするためにも、外国籍市民の参政権を認めるべきなのです。

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外国籍市民の命を危険にさらす卑劣な差別デマ

熊本 八代 倒壊住宅から女性救出 ベトナム人ら地元住民が協力 | NHKニュース | 地震、熊本県、ベトナム

news.web.nhk

7月28日の地震の直後、八代市興善寺町でひとり暮らしの90代の女性が倒壊した住宅に閉じ込められ、地域の住民たちが救出にあたりました。

住民の中には農業分野の特定技能の在留資格を持つベトナム人もいて、協力してがれきを取り除くなどしておよそ30分後に女性を救出しました。

 

女性を病院に搬送した西田和徳さん
「ベトナムの若者たちがいなければ、女性を助けることはできなかった。痛みを訴えていた女性を病院に届けた瞬間、助かってよかったと思った」

 

熊本 八代 倒壊住宅から女性救出 ベトナム人ら地元住民が協力 | NHKニュース | 地震、熊本県、ベトナム

地震で倒壊した住宅から90歳の女性を救出したベトナム人たちに対して、「ベトナム人が調子に乗るな」「ベトナム人が助けたというのはウソだ」といった旨の誹謗中傷が日本人たちから投げつけられています。救出したのが日本人であればそうした誹謗中傷が日本人たちから投げつけられることはないことを考えると、これは外国人差別に他なりません。

問題はそれだけではありません。

ベトナム人たちが日本人の高齢女性の命を救った一方で、インターネット上では彼ら外国籍市民の命を危険にさらす卑劣な差別デマをここぞとばかりにまき散らす日本人たちが、案の定今回の熊本地震でも少なからず見受けられます。

「外国人を熊本から追い出さないと略奪、窃盗が始まるよ」「多分外国人の火事場泥棒出る」…。X(旧ツイッター)では、地震直後からこんな根拠不明の書き込みが相次いでいる。

「こちら特報部」が熊本県警に問い合わせると「パトロールは強化しているが、外国人犯罪が増えているとの事実は確認していない」とのことだった。

 

熊本地震で「外国人犯罪が増えている事実ない」のに、なぜデマが…大災害時に繰り返されるヘイト、防ぐには:東京新聞デジタル

こうした差別デマは、「冗談」で済む話では決してありません。上掲の東京新聞の記事内で触れられているように、2011年の東日本大震災では東京の右翼団体が治安維持を理由に武装して被災地に入り、2024年の能登半島地震でも消防団がバールを手にパトロールしたことが報じられています。また、差別デマによって誘発されたヘイトクライムが日本各地で発生しています*1。そして外国人差別政策を推し進める政府の閣僚が、まるで外国人の多くが犯罪者予備軍であるかのような印象操作を率先して行っています*2。こうしたことを考えると、インターネット上の卑劣な差別デマが被災地においてヘイトクライムを誘発する可能性は決して皆無ではないのです。

卑劣な差別デマをまき散らす日本人たちの中には、そうした差別デマを「軽い冗談」だと言い訳する人もいるでしょう。しかし、外国籍市民の命を危険にさらす差別デマが「軽い冗談」としてまるで娯楽のように消費されるというのは、本当に恐ろしいことです。

日本人の多くは、関東大震災時(1923年)の朝鮮人・中国人虐殺を「遠い過去の話」だと思っているのかもしれません。しかし、災害が起こるたびに外国籍市民の命を危険にさらず卑劣な差別デマがまき散らされることを考えると、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺のような大規模災害時のジェノサイド(民族大量虐殺)は、決して「遠い過去の話」ではなく、日本社会の「今ここにある危機」なのです。

yukito-ashibe.hatenablog.com

私は天皇制の支配から私を解放するために天皇制の廃止を希求する。

皇族の不自由さを「気の毒」と思うなら解決策は一つ 「天皇制と人権」河西秀哉と木村草太が語る | AERA DIGITAL(アエラデジタル)

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木村:必然的な帰結です。「お気の毒」と考えるなら、天皇制をやめた方がいい、となります。

河西:皇族の不自由さの究極的な解決は、「制度をなくす」ですよね。時代や社会状況の変化で、制限を緩める議論も必要とは思います。でも、皇族に国民と全く同じ自由意思があるなら、皇族とは何かという存在への疑義も生じる可能性はあります。

 

皇族の不自由さを「気の毒」と思うなら解決策は一つ 「天皇制と人権」河西秀哉と木村草太が語る | AERA DIGITAL(アエラデジタル)

天皇制廃止論者の中には、人権や自由を大きく制限されている天皇や皇族が「お気の毒」だから天皇制を廃止すべきである、と主張する人が少なからず見受けられます。
人権は人間の普遍的な権利ですから、もちろん天皇や皇族の人権や自由なんてどうでもいいと言うつもりはありません。しかし、私が天皇制の廃止を希求するのは、天皇や皇族が「お気の毒」だからではありません。

天皇制および皇室制度は、神話という虚構に基づき「天皇一家」という特定の家族を特別視し、そうした特別視によって作り出される「天皇一家」の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置、すなわちそれは人間を「生まれ」によって差別し、そうして差別される人民を、差別が作り出す天皇の権威によって抑圧して支配するものです。つまり、天皇制の本質は人民に対する人権侵害であり、だからこそ天皇制を廃止すべきなのです。天皇や皇族たちが「お気の毒」だから天皇制を止めた方がいいと言う天皇制廃止論者たちは、天皇や皇族を思いやる一方で、どうして天皇制によって差別・抑圧される人民たちを無視するのでしょうか。

天皇や皇族のために天皇制を廃止すべきだと言う人たちは、もし天皇や皇族たちに「天皇制を廃止しないでくれ。我々から特権を奪わないでくれ」と懇願されたら、天皇制の廃止をあきらめるのでしょうか。そもそも天皇や皇族たちは、特権を手放して天皇制から自由になりたいと本当に思っているのでしょうか。私は天皇や皇族ではありませんから、天皇や皇族たちが本当はどう思っているかは知りません。しかし、天皇制に差別・抑圧される人民である私は、天皇制を廃止して私を天皇制の支配から解放したいことを、誰よりもよく知っています。だから私は、天皇や皇族のためではなく、天皇制に差別・抑圧される人民である私自身のために、天皇制の廃止を希求するのです。もし天皇や皇族たちに「天皇制を廃止しないでくれ。我々から特権を奪わないでくれ」と懇願されても、私は天皇制の廃止を決してあきらめません。

先に述べた人民支配装置という天皇制の本質に鑑みても、天皇制の廃止は、なによりも私たち人民が私たち自身を天皇制の支配から解放するために行うものです。それによって天皇や皇族が天皇制から自由になることは、あくまでも天皇制の支配から人民が解放されることに伴う反射的利益にすぎません

そうして私たち人民が、自分たちの手で天皇制を廃止し、自分たちを天皇制の支配から解放したとき、私たちの真の民主主義がはじまるのです。「天皇や皇族のために」というのは、臣民的な思考であって民主主義的な思考ではありません。人民たちが天皇制に支配される自分たちではなく「天皇や皇族のため」でなければ天皇制の廃止を希求できないような社会は、民主主義の精神が根付いた社会では決してありません。つまり、私たち人民が他ならぬ自分たちのために天皇制の廃止を希求することは、日本の真の民主化のためにも必要なことなのです。

もしかすると、天皇や皇族が「お気の毒」だから天皇制を廃止すべきだと言う天皇制廃止論者たちは、「国民」たちが「国民の総意」で天皇や皇族に押し付けていると思っているのかもしれません。しかし「国民の総意」というのは天皇制に抗う人民を排除して天皇制国家の「国民」を束ねるファシズムの論理であり*1、天皇制を正当化する欺瞞に過ぎません。私たち人民が天皇や皇族に対して押し付けているというのは真実ではなく、むしろ「国体護持(=天皇制国家体制の維持)」に固執する昭和天皇裕仁(徳仁の祖父)や「天皇一家」と結びついた権力者層が人民に天皇制を押し付けたのです。それゆえ、私たち人民が天皇や皇族に「負い目」を感じる必要は全くありません。私たち天皇制の支配から解放されることを希求する人民は、「天皇や皇族のため」ではなく、私たち自身のために天皇制を廃止しましょう。その方法として、日本国憲法を人権や民主主義といった人類の普遍的価値を真に体現した憲法にしたい私は、人権や民主主義といった人類の普遍的価値と敵対的に矛盾する「日本国憲法 第1章 天皇(第1条~第8条)」の改正を主張します。「護憲派リベラル」たちは日本国憲法を「日本の誇り」だと言いますが、恒久平和主義を定めた憲法9条があろうと、人権や民主主義といった人類の普遍的価値と敵対的に矛盾する「日本国憲法 第1章 天皇(第1条~第8条)」があるかぎり、日本国憲法を誇ることなど恥ずかしくて私にはとても無理です。