あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

差別問題の誤解と本質

日本社会における民族差別の問題に関して、よく「日本人の皆が皆レイシストだというわけではない」と言う人がいます。もちろん、「日本人の皆が皆レイシストだというわけではない」のはその通りです。しかし、そのようなことを言う人は、民族差別の問題の本質を誤解しています。

誤解している人も少なくないようですが、日本社会における民族差別の問題は、「良い日本人がおり、その他に性悪な日本人がいる」ということではありません。それは、日本社会に民族差別を生み出す構造があるということです。

“良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるということは真実ではないからだ。植民者がいる。それだけのことだ。”(J‐P. サルトル植民地主義は一つの体制である』)

つまり、日本社会における民族差別は、日本人の気質や性格が問題なのではなく、日本社会の差別構造が問題なのです(そして、このことを考えれば、日本社会における民族差別を批判することは日本社会の差別構造を批判することなのですから、それを「日本人差別だ」などと言うことがいかに荒唐無稽な詭弁であるかがよくわかるでしょう。)。

かかる差別問題の本質に鑑みれば、「マイノリティは、差別されないように社会に適応する努力をすべきだ」というのは間違いです。誤解しないでください。マイノリティは、社会に適応する努力をしないから差別されるのではありません。社会に構造的差別があるから、マイノリティは差別されるのです。そして、構造的差別は、マイノリティが克服すべき問題ではなく、差別構造を構築し、これを温存する〈力〉を持つマジョリティが克服すべき問題です。つまり、マイノリティが差別されないようにするためには、マイノリティが差別されないように社会に適応する努力をするのではなく、マジョリティが社会の差別構造をこわす努力をしなければならないのです。

“日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。”(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』)

民族差別に反対するリベラル派の中には、よく「民族差別を許すと社会が壊れる」と言う人がいます。言わんとすることはわかりますが、しかし、民族差別を生み出しているのは他ならぬ既存の社会なのですから、そのような社会は保守するのではなく、むしろ一旦こわさなければならないでしょう。

“哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。肝心なのは、それを変革することである。”(カール・マルクスフォイエルバッハに関するテーゼ』)

「外国人参政権」について、民主主義の本質から考える。

おそらく日本国民の多くは、いわゆる「外国人参政権」を国民主権あるいは民主主義に反するものであると思っているでしょう。実際、「外国人参政権」反対論者たちは、「外国人参政権を認めることは国民主権の原理に反する」と主張しています。

もし国民主権の「国民」が「日本国籍者」に限られるとすれば、「外国人参政権」を認めることは国民主権の原理に反するといえるでしょう。しかし、国民主権の本質的な意義は、君主が主権を持たず人民が主権を持つ点にあります。この点に鑑みれば、国民主権の「国民」が「日本国籍者」に限られるとすべき理由はありません。

参政権は、民主主義の根幹をなす人権です。それゆえ「外国人参政権」についても、民主主義の本質から考えるべきです。

それでは、民主主義の本質とは何か。それは、「治者と被治者の自同性」、すなわち「治める者と治められる者が同一であること」です。これを日本国籍ではない永住者あるいは定住者についてみると、日本国籍ではない永住者あるいは定住者も日本国籍者と同じ義務を負う「被治者」です。しかし、その一方で日本国籍ではない永住者あるいは定住者は参政権を認められておらず、「治者」の地位にありません。つまり、日本国籍ではない永住者あるいは定住者に参政権を認めないことは、「治者」ではない「被治者」を生み出す点で、「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に悖るものであるといえるのです。

こうして考えてみると、「外国人参政権」を認めることは、国民主権あるいは民主主義に反するどころか、むしろ国民主権あるいは民主主義の趣旨に適うものであるといえます。そして、「外国人参政権」を認めることは、「外国人参政権」の実現というより、むしろ民主主義の完全な実現であるといえます。つまり、国政レベルはおろか、地方政治レベルすら「外国人参政権」が実現していない日本は、およそ「成熟した民主主義国家」とはいえないのです。

 

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日本軍性奴隷制問題をめぐる朝日新聞の傲慢な勘違い

(社説)慰安婦合意 意義を再評価し前進を:朝日新聞デジタル

 

日本軍性奴隷制問題をめぐる朝日新聞誤報が日本軍性奴隷制問題に関する日本政府の責任を免れさせるものではないのと同様に、尹美香氏をめぐる不正疑惑が日本軍性奴隷制問題に関する日本政府の責任を免れさせるものではないことは言うまでもありませんが、それはさておき、日本軍性奴隷制問題をめぐり、相変わらず朝日新聞は傲慢な勘違いを犯しています。

日本軍性奴隷制問題が人権問題であるのは、もちろんその通りです。それなのに、どうして朝日新聞は「政治的な落着点」にすぎない日韓「慰安婦合意」の意義を再評価すべきだと言うのでしょうか。日本軍性奴隷制問題が人権問題であるならば、「政治的な落着点」にすぎない日韓「慰安婦合意」の意義を再評価すべきだとは言えないはずです。残念ながら朝日新聞は、日本軍性奴隷制問題が人権問題であることの意味をうわべだけしか理解していないと言わざるを得ません。人権問題の原点に立ち戻るべきなのは韓国政府ではなく、朝日新聞であり、そして日本政府です。

日本政府が安倍首相名で「心からのおわびと反省」を表明したというのは、たしかに事実です*1。しかし、謝罪というのは、ただ「心からおわびと反省の気持ちを表明する」と口先だけで言えばよいというものではありません。真摯に謝罪したといえるためには、謝罪と矛盾する態度をとらないこと、そして同じ過ちを繰り返さないように過ちを記憶することが大切です。しかし、日本政府は2015年の日韓「慰安婦合意」の後も、「軍などによる強制連行があったと裏付ける資料は見つからなかった」などと問題の矮小化に腐心したり*2アメリカやドイツなどで戦時性暴力の根絶のために歴史を記憶することを目的とする「平和の少女像」に対して圧力を加えたり*3と、謝罪と矛盾する態度をとり続けています。また、同じ過ちを繰り返さないように過ちを記憶するどころか、前述したように戦時性暴力の根絶のために歴史を記憶することを目的とする「平和の少女像」を敵視して圧力をかける始末です。もし日本政府が本当に「心からのおわびと反省」をしたというのであれば、日本政府が率先して戦時性暴力の根絶のために歴史を記憶する「場」を設けてもよいはずです。

どうやら朝日新聞は、日本軍性奴隷制問題がいつまでも解決しないのは正義連(旧挺対協)とそれに迎合する文在寅政権のせいだと言いたいようですが、それは傲慢な勘違いです。日本軍性奴隷制問題がいつまでも解決しないのは、日本政府が「心からのおわびと反省」と矛盾する態度をとり続け、歴史を消し去ることに腐心するからです。「文氏は……財団の解散以降、代わりの具体的な救済策を示してはいない」というのも、とんだ言いがかりです。それというのも、日本政府が法的責任を認めて真摯に謝罪し、謝罪と矛盾する態度をとらないことが具体的な救済策であるのですから、そもそも文在寅大統領が「代わりの具体的な救済策を示」す必要などないからです。「文在寅氏は代わりの具体的な救済策を示せ」という朝日新聞の言い草は、まるで「野党は反対するなら対案を出せ」というネット右翼の言い草のようです。

朝日新聞は、日韓「慰安婦」合意に基づく支援金を被害者の7割が受領していることを、日韓「慰安婦」合意を正当化する理由として援用しています。もちろん、被害者の7割が支援金を受領したこと自体は、何ら責められるべきことではありません。しかし、被害者の7割が支援金を受領したからといって、支援金を受領しなかった3割の被害者の意思を無視してもよいということにはなりません。日本軍性奴隷制問題は人権問題なのですから、「多数決の論理」はここでは通用しないのです。それに、支援金を受領した被害者の多くが「苦悩や葛藤の末に受け入れた」のであれば、被害者に苦悩や葛藤を強いる日韓「慰安婦」合意は、「過去の傷を少しでもやわらげる」どころか、むしろ被害者をさらに傷つけるものでしかないでしょう。つまり、日韓「慰安婦」合意は、「過去の傷を少しでもやわらげる」ものなどでは決してなく、過去の傷に苦しむ被害者を分断し、さらに深い傷を負わせて被害者を沈黙させるものでしかないのです。

日韓「慰安婦」合意の意義を評価する「良心的日本人」たちは、「法的責任を認めて真摯に謝罪し、謝罪と矛盾する態度をとらないことを今の日本政府に期待するのは現実を無視した理想主義だ」と冷笑するかもしれませんが、それは日本人としてあまりにも無責任な態度です。法的責任を認めて真摯に謝罪し、謝罪と矛盾する態度をとらないことを今の日本政府に期待するのではなく、今の日本政府に法的責任を認めさせて真摯に謝罪させ、謝罪と矛盾する態度をとらせないことこそが、現在に生きる日本人が日本軍性奴隷制被害者に対して負っている責任です。そして、今の日本政府に法的責任を認めさせて真摯に謝罪させ、謝罪と矛盾する態度をとらせないことは、決して不可能なことではありません。それを「不可能だ」と言うのは、責任逃れの言い訳です。

「つるの発言」は、どこが問題か。(前エントリーの補足)

yukito-ashibe.hatenablog.com

 

つるの剛士氏はどうやら勘違いをしているようですが、「盗難被害を訴えるな」とは誰も言っていません。盗難被害を訴えることにかこつけて外国人差別を煽るな、と言っているのです。ことさらに「犯人は外国人だ」などと言わなくても、盗難被害を訴えることはできるはずです。つるの氏も彼を擁護する人たちも、どうしてそれが分からないのでしょうか。

もちろん、どんな人種や民族にも犯罪者はいるでしょうし、どんな人種や民族の人間が犯しても罪が罪であるのは言うまでもないことです。しかし、差別的言動に対する批判の文脈で問題なのは、そのようなことではありません。つまり、差別的言動に対する批判の文脈では、批判の対象は差別的言動であり、発言者の主観がどうであれ批判の対象となっている言動が差別を助長することが問題なのです。「外国人はみんな聖人だ」とか「不幸な外国人が犯した罪は見逃すべきだ」とか、そんなことは誰も言っていません。「罪を犯すような奴は外国人に違いない」といった偏見を煽るな、と言っているのです。今般の件では、差別を助長しているのは野菜泥棒ではなく、紛れもなくつるの氏の言動です。

それにしても、「差別を助長しているのは紛れもなく(窃盗の)犯人本人であり、(窃盗の)被害者が泣き寝入りしてしまう世の中こそ差別だ」などというつるの氏の屁理屈が通用してしまい、つるの氏の差別的言動が許されてしまう日本社会は、いったいどこまで腐ってしまっているのでしょうか。

被害者であることは、自らの加害行為の「免罪符」には決してならない。

つるの剛士、怒 パクチー被害で米山隆一氏が「差別的」と…「こちら100%被害者!」/芸能/デイリースポーツ online

 

デイリースポーツは、つるの剛士氏の「日本人でも外国人でも農産物を盗む行為は歴とした犯罪!こちら100%被害者!差別??現行犯!事実!」という発言を「猛反論」だと書いています。しかし、つるの氏のその発言は、つるの氏の言動が外国人差別を煽るものであることへの批判に対する反論になっていません。

どうやらつるの氏も彼を擁護している人たちも、つるの氏の言動の何が問題なのか分かっていないようです。もっとも、本当は分かっていながら、あえて分からないふりをしているのかもしれませんが。

たしかに、盗難被害にあったことはお気の毒です。しかし、盗難被害を訴えることは、「一応(犯人の)目星がついていますので。(犯人は)畑近くの工場で働いてる外国人」だなどと外国人差別を煽るようなことを言わなくてもできるはずです。私は、なにもつるの氏に対して「盗難被害を訴えるな」と言いたいわけではありません。私がつるの氏に対して言いたいのは、盗難被害を訴えることにかこつけて外国人差別を煽るな、ということです。たとえつるの氏が盗難被害に関して「100%被害者」であろうと、差別煽動に関してはつるの氏が「100%加害者」であり、つるの氏が盗難被害に関して「100%被害者」であることは、つるの氏の加害行為の「免罪符」には決してなりません。しかるに、「こちら100%被害者!」だなどと言って差別煽動という自らの加害行為を正当化しようとするつるの氏の態度は、実に卑怯であると言わざるを得ません。

つるの氏の今般の言動がいかに危険であるかということは、関東大震災直後に自警団や軍などによって多くの朝鮮人が虐殺されたという歴史を振り返れば容易に分かることです。私は、つるの氏の今般の言動を絶対に許しませんし、つるの氏の今般の言動のような卑劣な差別煽動が許される社会であってはなりません。

天皇の権威に依存する、日本のあきれた「民主主義者」たち。

先般「持病の悪化」を理由に安倍晋三氏が総理大臣を辞任することを表明しましたが、その安倍氏と前天皇明仁氏の関係に関して、リベラル派の中には「明仁陛下は安倍がお嫌いだ」と言う人が少なからずいます。

もちろん、彼らが明仁氏の「お気持ち」を想像するのは自由ですが、しかし彼らが「民主主義者」を自任するのであれば、天皇の権威に依存するその態度は民主主義の精神に悖るものであると言わざるを得ません。

「治者と被治者の自同性」を本質とする民主主義の下では、政治的意思決定の拠り所は自分自身です。したがって、たとえ明仁氏が安倍氏を嫌いだとしても、それは自分自身を政治的意思決定の拠り所とする民主主義者にとって「どうでもいい話」のはずです。それとも、彼は天皇の権威に頼らなければ、安倍政権に反対するという政治的意思決定をすることができないのでしょうか。しかし、それは自分自身を政治的意思決定の拠り所とする民主主義者として相応しからぬ態度であると言わざるを得ないでしょう。

このように、天皇の権威に依存する「国民」を作り上げて人民の政治的自主性を奪う天皇制は、やはり「治者と被治者の自同性」を本質とする民主主義とは相容れないものです。おそらく多くの国民は、戦前の天皇制と戦後の天皇制は全く別物であると思っているでしょうし、そう解するのが憲法学の通説とされています*1。しかし、私はそれには異存があります。たしかに、戦前の天皇制と戦後の天皇制とでは天皇が自ら権力を行使するか否かの違いはあるものの、天皇制が天皇の権威を利用して人民を支配し抑圧するための「権力装置」であることに何ら変わりはありません。つまり、天皇が自ら権力を行使しなければ民主主義と相容れるということはなく、天皇制が天皇の権威を利用して人民を支配し抑圧するための「権力装置」である以上は決して民主主義と相容れないのです。

天皇制と民主主義の矛盾に関しては、「革新政党」とされる日本共産党が「憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だ」と主張しています*2。まさか日本共産党は、もし自衛隊国防軍とする9条改憲がなされてしまったら、その時は「憲法にある組織として、国防軍と共存するのが道理ある態度だ」と言うのでしょうか。日本共産党は誤解していますが、大切なのは憲法にある制度や組織であるかどうかではなく、憲法の理念に沿う制度や組織であるかどうかです。つまり、いくら天皇制が憲法にある制度だろうと、それは民主主義に反するものなのですから、民主主義と共存することなど到底できないのです。「天皇制は憲法にある制度だから、それと共存するのが道理ある態度だ」などというのは、つまるところ反民主主義的で差別的な制度である天皇制を温存するための詭弁です。日本共産党は、「道理ある態度」云々を説く前に、自らの右翼日和見主義的な態度を恥じるべきです。

リベラル紙による安倍政権7年8カ月の総括*3では、「『安倍政治』が民主主義を歪めた」といった論調が盛んです。しかし、それは真実ではありません。天皇制という反民主主義的な制度が存在することで最初から歪んでいるまがい物の民主主義が、「安倍政治」を生み出したのです。それゆえ、未だ民主化していないことを日本人民が自覚せず、「成熟した日本の民主主義が『安倍政治』によって歪められてしまった」などと勘違いしてまがい物の民主主義に安住し続ける限り、「安倍政治」という怪物は顔と名前を変えて何度でも日本人民の前に現れるでしょう。「安倍政治」を本当に終わらせるには、日本人民が自らの手で民主化を実現しなければなりません。そして、天皇の権威に依存する「国民」を作り上げて人民の政治的自主性を奪う天皇制を廃止することは、日本人民が自らの手で民主化を実現する上で絶対に避けて通ることのできない道なのです。日本人民が、日本の真の民主化を実現したいと望むのであれば、何よりもまず天皇の権威を拒絶すべきです。

yukito-ashibe.hatenablog.com

 

*1:“……明治憲法の下でも、天皇は象徴であったと言うことができる。……もっとも、同じ象徴と言っても、統治権の総覧者たる地位と結びついた場合の象徴性と、「国政に関する権能」を一切有しない原則と結びついた場合の象徴性とは、本質的に異なることに注意しなければならない。”(芦部信喜憲法岩波書店

*2:天皇をどうする

*3:社説:「安倍政治」の弊害 民主主義ゆがめた深い罪 - 毎日新聞

(社説)最長政権 突然の幕へ 「安倍政治」の弊害 清算の時:朝日新聞デジタル

どこまでも日本人を被害者にする、戦後日本の「平和教育」を問い直す。

(教育考差点)平和のバトン、子どもにどう渡す:朝日新聞デジタル

 

拙ブログでもこれまでたびたび触れてきましたが、戦後日本の「平和教育」は、日本の戦争被害を重視し、日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害を軽視してきました。そして、それは「戦後平和主義」の最も大きな問題であると、私は思います。したがって、日本の戦争被害を重視し、日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害を軽視してきた戦後日本の「平和教育」を問い直すことは、私も大いに賛成です。

平和教育」における日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害の取り上げ方に関して、東京女子大学准教授の竹内久顕先生は、「戦争の加害行為は、一人の人間が命令に背けなかったという被害者的な側面まで学べば、重層的な理解につながる。」とおっしゃいます。たしかに、「日本人の被害者的な側面」を経由することで日本の戦争加害に対して日本人が抱く抵抗感を和らげることができるでしょう。しかし、「一人の人間が命令に背けなかったという被害者的な側面まで学べば、重層的な理解につながる」ということについては、私はいささか意見を異にします。

竹内久顕先生は、「新しい形の平和学習」の一つとして、元日本兵の苦悩を告白する映像を通し、フィリピンの人と和解に取り組むNPOの「優れた試み」を挙げておられます。もちろん、それを無下に否定するつもりはありません。しかし、それはつまるところ、どこまでも日本人が「悲劇の主人公」であり、日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者は、「悲劇の主人公」の語りを通してしか現れることができない「脇役」でしかないということです。はたして、それで本当に「重層的な理解」ができるのでしょうか。そのような、そこまでも日本人を被害者にする「平和教育」では、「一人の人間が命令に背けなかったという被害者的な側面」は戦争の加害行為の重層的な理解につながるどころか、むしろ「国家の命令に背けなかった元日本兵もまた『被害者』なのだし、命令に背くことができず戦争の加害行為に加担したことで罪悪感に苦悩している。だから、被害者はもう『寛容の精神』で元日本兵を赦してあげたらどうだろう」という、「和解の暴力」につながりかねません。

日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者は、「悲劇の主人公」である日本人の語りを通してしか現れることができない、これはまさに今も継続する植民地主義です。つまり、「元日本兵の苦悩の告白」には耳を傾けても、日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者たちの悲痛の訴えには耳を傾けようとしない戦後日本の「平和教育」は、今も継続する植民地主義から自由ではないということです。「ひろしまタイムライン」が犯した過ち*1などは、まさにこのような戦後日本の「平和教育」の「産物」だといえます。

いま日本の「平和教育」に最も必要なのは、何よりもまず日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者の声に耳を傾けること、そして、日本が犯した侵略戦争や植民地支配の加害を記憶する「場」を設けることです。日本(日本人)の戦争被害の記憶は、これまで語り部やメディアを通じて数多く伝えられてきましたし、日本(日本人)の戦争被害を記憶する「場」も、日本全国に数多く存在しています。それに比べて、日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害を記憶する機会や場は、ほぼ皆無に等しいといっても過言ではありません。これでは、多くの日本人が日本の加害に無頓着であるのも当然の結果でしょう。

日本人が日本の加害と直に向き合うことは、たしかに初めは「拒絶反応」を引き起こすかもしれません。しかし、その「拒絶反応」を克服することこそが、まさに日本人が植民地主義を克服することなのです。