皇室典範改定案撤回を/「国民の総意」と言えず/参院委で小池氏 | しんぶん赤旗|日本共産党
日本共産党の小池晃書記局長は6日の参院決算委員会で、政府が提出した皇室典範改定案について取り上げました。天皇の制度は憲法の条項と精神に基づいて議論・検討すべきで、「男系男子」による継承ありきで女性天皇の可能性を閉ざす改定案は「国民の総意」に基づいておらず、「旧宮家」の男系男子を皇族の養子に迎えることは国民の理解が得られないと指摘し、法案は撤回すべきだと述べました。
日本国憲法
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
日本共産党をはじめとする日本「リベラル」派たちは、女性天皇に賛成する「国民」の声の多さ*1を理由に、自民党政権の「皇室典範改定案」を「『国民の総意』に基づいていない」と批判します。
たしかに、報道各社の世論調査に鑑みれば女性天皇に賛成するというのが多数の「国民」の声のようですし、それゆえに「女性天皇」を認めるのが「国民の総意」に沿うようにも思えます。
しかし、そもそも日本「リベラル」派たちが援用する日本国憲法第1条の「国民の総意」とは一体何なのでしょうか。
しかし、「国民の総意」を神秘化して、国民の手に届かないところに置こうとする動きがないわけではない。すあわち、ある論者は、これはルソーのいう「ヴォロンテ・ジェネラール(普遍意思)」と同様のものであって、「常に正しい意思」であるとか、「常に公共の福祉を表現しようとする意思」であるとかと説明する。この結果、天皇の地位についてときどきの国民は安易に云々すべきものではないこととされ、「常に正しい意思」が象徴天皇制を選んだ以上、天皇制度の廃止などはおよそ問題にもならないとされる。
けれども、この言葉を、そのように複雑かつ神秘的に考える必要はまったくないし、考えるべきでもない。単純に、「国民の大方の意思」と考えればいいのである。逆に、「国民の総意」とは、「国民すべて」という意味でもない。憲法制定時にも、天皇廃止論が存在したことから分かるように、国民の一部に象徴天皇制に反対する者が存在するとしても、それが憲法改正意思として現れない限り、国民の総意は象徴天皇制を選択しているのである。
(横田耕一『憲法と天皇制』岩波新書 24頁)
憲法学者の横田耕一先生は、日本国憲法第1条の「国民の総意」を「国民すべて」という意味ではなく「国民の大方の意思」と考えればいいとおっしゃいます。「国民の総意」を「国民すべて」と考えるべきではないのは、もちろんその通りです。しかし、「国民の大方の意思」と考えればいいというのも、後述するように日本国憲法の構造的欠陥である第1条を救済するための「善意の解釈」に過ぎません。
偶然「日本国籍者」として生まれた私は、法的には「国民」ですが、しかし女性天皇に賛成か否か以前に天皇制そのものに反対です。そんな私は「非国民」なのでしょうか。それならそれでもちろん結構ですが、これは決して私が「非国民」であることを受容すれば済む話ではありません。つまり、日本国憲法第1条の「国民の総意」とは、私のような天皇制廃止を主張する人民を「国民に非ず」ものとして排除したうえで、天皇制を肯定する多くの「国民」の声をもとに「数の論理」で「国民の総意」を擬制して「サイレント・マジョリティ」を包摂し、人民に対する身分差別である天皇制の存続を正当化する、「排除と包摂」のファシズムの論理なのです。そうした「国民の総意」をどのように考えようが、「天皇の地位についてときどきの国民は安易に云々すべきものではないこととされ、『常に正しい意思』が象徴天皇制を選んだ以上、天皇制度の廃止などはおよそ問題にもならないとされる」ことは、「皇室典範改定案」をめぐる議論で天皇制の廃止が徹底的に無視されている現実に鑑みれば明らかです。
神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制は、人民に対する人権侵害であり、そうした人権侵害を「国民の総意」というファシズムの論理で正当化する日本国憲法第1条は、日本国憲法の基本原理である基本的人権の尊重と敵対的に矛盾します。つまり人民に対する身分差別である天皇制という反人権的な制度を定めた第1条は、基本的人権の尊重を基本原理とする日本国憲法の構造的欠陥であると言わざるを得ないのです。
日本国憲法第1条の「国民の総意」というファシズムの論理に疑問を抱かない日本「リベラル」派たちは、いったい人権を何だと思っているのでしょうか。人権とは、人間が人間であることから当然に有する権利です。つまり人権は「国民の権利」ではなく人間の権利であり、そうした人間の権利を「国民の総意」というファシズムの論理で奪うことは許されません。そして、天皇制によって最も差別・抑圧されるのが「国民」ではない人民である*2ことを考えると、天皇制を「国民の総意」で正当化することはなおのこと許されないのです。
自民党政権の「皇室典範改定案」を「『国民の総意』に基づいていない」と批判する日本「リベラル」派たちは、きっと「女性天皇に賛成多数が『民意』なのだから、その『民意』に従って女性天皇を認めるのが『民主主義』だ」と言うでしょう。しかし、そもそも人民に対する身分差別である天皇制は、自由および平等を大前提とする民主主義とは決して相いれません。つまり、人民に対する身分差別である天皇制を「民主主義」で正当化することは決してできないのです。天皇制の存続を望む日本「リベラル」派たちは認めたくないでしょうが、天皇制が存続する限り日本が真の民主化を遂げることはありません。
日本「リベラル」派たちの多くは、憲法上の制度である天皇制を尊重するのが「護憲」だと思っているようですが、はたして日本国憲法の構造的欠陥を放置することが「護憲」なのでしょうか。もしそうなら、私は「護憲派」ではありません。日本国憲法という「器」よりも人権や民主主義といった「中身」を大切にする私は、制憲権者の一人として、人権や民主主義といった人類の普遍的価値と敵対的に矛盾する「日本国憲法 第1章 天皇(第1条~第8条)」の改正を主張します。女性天皇を認めれば皇族の女性差別は解消かもしれませんが、それで人民に対する身分差別が解消されることは決してありません。いま本当に必要なことは、女性天皇を認めることではなく、天皇制を廃止して人民に対する身分差別を解消することであり、そしてそれこそが日本国憲法を人権や民主主義と言った人類の普遍的価値を真に体現した憲法にするために必要なことなのです。

