葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「日の丸」が天皇制国家主義の象徴であり天皇制ファシズムの道具だからこそ、天皇制国家のファシスト政権は「国旗損壊罪」の法制化に躍起になる。

社説:国旗損壊罪 敬意を払って大切に扱いたい : 読売新聞

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国旗はその国の象徴である。どの国であっても敬意を払い、大切に取り扱うのは自然だ。

外国の国旗と同様に、自国の国旗を損壊した場合も、罰則を設けるのは妥当な考え方と言えよう。

 

社説:国旗損壊罪 敬意を払って大切に扱いたい : 読売新聞

「国旗はその国の象徴である」から「どの国であっても敬意を払い、大切に取り扱うのは自然だ」とのたまう御用新聞は、日本が「国旗」とする「日の丸」が日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴であることを都合よく無視しています。

「日の丸」を事実上の「国旗」とした*1天皇制国家・大日本帝国は、アジアの国々を侵略・植民地支配し、多くの人民を抑圧・虐殺しました。御用新聞は、そんな血塗られた「日の丸」を「日本の国旗だから」というだけの理由で「敬意を払い、大切に取り扱うのは自然だ」というのでしょうか。多くのアジア人民を抑圧・虐殺した天皇制国家の象徴に敬意を払い、それを大切に取り扱うことは、少なくとも私にとっては不自然です。

日本が今もなお日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴である「日の丸」を国旗として使い続けているのは、つまるところ多くのアジア人民を抑圧・虐殺した大日本帝国と本質的に変わらない天皇制国家だからです。もし本当に今の日本が多くのアジア人民を抑圧・虐殺した大日本帝国とは違う民主主義国家であるならば、日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴である「日の丸」を国旗として使い続けることはできないはずです

「国旗損壊罪」の創設に反対する「リベラル派」の中には「自民党こそ『日の丸』を汚している」と言う人が見受けられます。しかし、「自民党こそ『日の丸』を汚している」というのは正しくありません。なぜなら、そもそも「日の丸」は日帝に抑圧・虐殺されたアジア人民の血で汚れたものだからです。そして、日帝に抑圧・虐殺されたアジア人民の血で汚れた「日の丸」が天皇制国家主義の象徴であり天皇制ファシズムの道具だからこそ、天皇制国家のファシスト政権は「国旗損壊罪」の法制化に躍起になるのです。

先に述べたように、今の日本が多くのアジア人民を抑圧・虐殺した大日本帝国とは違う民主主義国家であるならば、日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴である「日の丸」を国旗として使い続けることはできないはずです。つまり、日本の真の民主化を実現するためには、人民である私たち一人ひとりが自らの手で「日の丸」を焼き払わなければならないのです。

「国旗損壊罪」は国旗を「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」で損壊する行為を処罰するものですが、日帝のアジア侵略・植民地支配の根底にある天皇制国家主義の象徴である「日の丸」を焼き払うことに「不快または嫌悪の情を催」す人がいるとすれば、それはその人が天皇制国家主義に支配されているからです。人権や民主主義という普遍的価値を共有する自由な人間であれば、むしろ日帝に抑圧・虐殺されたアジア人民の血で汚れた天皇制国家主義の象徴であり天皇制ファシズムの道具である「日の丸」にそれ自体に不快または嫌悪の情を催すはずです。

いま本当に必要なのは「国旗損壊罪」ではなく、天皇制国家主義の象徴であり天皇制ファシズムの道具である「日の丸」の廃止です。私たち人民が自らの手で「日の丸」を廃止し、そしてその根底にある天皇制を廃止して私たち人民が天皇制ファシズムから自らを解放したとき、日本の真の民主主義が始まるのです。それを阻止せんとする天皇制国家のファシスト政権の強い意志の表れが、まさに「国旗損壊罪」です。

私は、天皇制国家のファシスト政権が推し進める「国旗損壊罪」の法制化に断固として反対します

*1:太政官布告第57号・第651号

「護憲派リベラル」が都合よく無視する「戦後平和主義」の矛盾

いわゆる「護憲派リベラル」の中には「日本国憲法の下で戦後日本は繁栄してきた」と言う人が見受けられます。

たしかに、表層的な事実としてはそうかもしれません。しかし「日本国憲法の下で戦後日本は繁栄してきた」と言う「護憲派リベラル」の人は、「繁栄」の不都合な真実を都合よく無視しています。

また、「護憲派リベラル」の中には「たくさんの犠牲の上に私たちは日本国憲法を手にした」と言う人も見受けられます。

たしかに憲法9条といった日本国憲法の平和主義条項は、アジアを侵略し多くの人民を虐殺した日本に再び同じ過ちを繰り返させないために定められたものですから、「たくさんの犠牲の上に私たちは日本国憲法を手にした」というのは決して間違いではありません。しかしそうした言説では、「戦後平和主義」の抱える矛盾が都合よく無視されています。

平和主義を掲げる日本国憲法は、ただ過去の日本が犯したアジア侵略による多大な犠牲の上に成り立つだけのものではありません。

米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の七〇%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 はしがき x頁)

つまり、日本国憲法の平和主義体制は、米国主導の国際秩序の維持・発展に伴う軍事的リスクを沖縄と韓国が負担するという、沖縄と韓国の犠牲の上に成り立つものでもあるのです。

よく知られているように、いわゆる特需ブームとは何であったかです。アメリカは朝鮮戦線で莫大な物量の消耗戦を平気でやる、その武器の生産ないし修理はもっぱら日本が引受けている。日本の重工業資本は、戦後の復活のキッカケをここではじめてつかむ。特需が全体として日本の国際収支を支え、後の「高度成長」政策を可能にしていく。朝鮮戦争の犠牲の上に日本の資本主義体制、六〇年代以降につらなるその体制は築かれたのです。いま一度そのことをきわめて重い問題として考えておく必要があると思います。

 

(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』平凡社ライブラリー 270―271頁)

そして戦後日本は、「護憲派リベラル」たちが世界に誇る憲法9条があるにもかかわらず、米国と「安全保障」に名を借りた軍事同盟を結び、皮肉な話ですが憲法9条のおかげで自らの手を血で汚すことなく朝鮮戦争(1950年~)やベトナム戦争(1960~75年)といった米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するための戦争に加担することで得た血生臭いカネを養分に日本資本主義が膨張することで繁栄してきました。これがまさに日本国憲法下における戦後日本の「繁栄」の正体です。

こうしてみると、日本国憲法下における戦後日本の「繁栄」というものが、沖縄と韓国の軍事的な犠牲の上に成り立つ「戦後平和主義」の欺瞞の産物であることがわかります。「日本国憲法の下で戦後日本は繁栄してきた」と言う「護憲派リベラル」の人は、同じことを沖縄と韓国でも言えるのでしょうか。もっとも、沖縄と韓国でも「日本国憲法の下で戦後日本は繁栄してきた」と平気で言えてしまうのが戦後日本の「護憲派リベラル」なのかもしれませんが。

「戦後」の日本社会は現実として平和主義を実現できたわけではなく、自衛隊は存在し、日米安保条約と米国の核の傘のもとにある。しかし護憲運動においては、平和憲法を守ろう、「平和主義」を壊すなというスローガンがくりかえし語られる。ここで権氏が指摘するのは、そもそも平和憲法が維持される前提となった東アジアの構造とはいかなるものであったのか、という問いである。朝鮮半島の分断体制があり、その最前線にはいかなる意味でも「平和主義」的ではない兵営国家・韓国がある。こうした朝鮮半島での戦争状態の継続と、米国の核の傘のもとで謳歌されたのが「戦後」日本の平和ではなかったか、「平和憲法を守ろう」というスローガンは、こうした構造を「守ろう」というものになりはしないか。そう権氏は問うのである。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 237―238頁 鄭栄桓氏による訳者あとがき)

こうした「護憲派リベラル」たちが都合よく無視する「戦後平和主義」の抱える矛盾は、昨今の日本における軍国主義の台頭を考える上で決して避けて通れない問題です。というのも、昨今の日本における軍国主義の台頭は、日本国憲法の平和主義によって既に清算された日本軍国主義が復活したものでは決してなく、「戦後平和主義」の抱える矛盾、すなわち日本国憲法の平和主義と未清算の日本軍国主義の矛盾が激化したものだからです。そうした矛盾を都合よく無視して、平和憲法を守ろう、「平和主義」を壊すなというスローガンをただ唱えるだけの「護憲」運動では、人類の普遍的な価値としての恒久平和主義を真に実現することは決してできません。つまり、人類の普遍的な価値としての恒久平和主義を真に実現するためには「戦後平和主義」が内包する矛盾を克服することが必要不可欠なのです。そして「戦後平和主義」の抱える矛盾を克服するためには、恒久平和主義と敵対的に矛盾する日本軍「自衛隊」を解体し、米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するために日本軍「自衛隊」を必要とする日米軍事同盟を解消し、さらには日本軍「自衛隊」と日米軍事同盟を必要とする天皇制を廃止しなければなりません

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民主主義的思考を妨げる天皇制

皇族確保策 天皇陛下「国民の理解や納得得られるものに」と長官拝察 [皇室典範の改正]:朝日新聞

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安定的な皇位継承をめぐる「立法府の総意」が取りまとめられたことを受け、宮内庁の黒田武一郎長官は11日の定例会見で、天皇陛下に総意の内容を報告したと明かした。その上で、天皇陛下は国民の総意に基づく立場から「国民のみなさまの理解や納得を得られるものとなるように願われているのではないかと拝察している」と話した。

 

皇族確保策 天皇陛下「国民の理解や納得得られるものに」と長官拝察 [皇室典範の改正]:朝日新聞

皇族数確保策に向けた皇室典範改正の問題に関して、高市政権を「皇統問題に汚れた手を突っ込んでる」と批判し「今上陛下がお気持ちを表明された以上、国民は臆すことなく、政権を批判すべし」と訴える岡美穂子・東京大学教授の発言が、多くの「リベラル」派たちの共感を集めています。

故・安倍氏の遺志を継ぎ「安倍政治」を完成させた高市政権は、たしかに岡教授のおっしゃるとおり「日本史上、最悪の政権の一つ」であるといえるでしょう。しかし私は、上掲した岡教授の発言を多くの「リベラル」派たちのように手放しで肯定的に評価することはできません。

「今上陛下」が「お気持ちを表明」したから何だと言うのでしょうか。もし天皇徳仁が「お気持ち」なるものを表明しなかったら、「国民」たちは高市に臆して政権を批判しないのでしょうか。自らに由らず天皇の権威に依拠して政権を批判するというのは、臣民的思考であって民主主義的思考ではありません。天皇の権威に依拠せず、民主主義に拠って立つ私は、天皇徳仁の「お気持ち」なるものと関係なく、天皇制国家のファシスト政権である高市政権を批判します。そして、高市政権が拘泥する「男系男子主義」を放棄してでも人民に対する身分差別である天皇制を存続させたい天皇徳仁の「お気持ち」に臆することなく、人民に対する身分差別である天皇制の廃止を訴えます。そんな私は、天皇徳仁も援用する日本国憲法第1条の「国民の総意」というファシズムの論理に従えば、やはり「非国民」なのでしょうか。東アジアの人民を自認する私は、それならそれで構いませんが、そんな「同化と排除」の論理の上に成り立つ日本国憲法(日本国憲法施行の前日に昭和天皇裕仁が「最後の勅令」である外国人登録令を発して在日台湾人と在日朝鮮人を日本国憲法体制から排除した*1のも、日本国憲法体制において「同化と排除の論理」を貫くためでしょう。)を多くの「リベラル」派たちのように世界に誇ることは、恥ずかしくて私にはできません。

さて、歴史学者の岡教授は、先に述べたように高市政権を「皇統問題に汚れた手を突っ込んでる」と批判しますが、そんな岡教授が忘れていらっしゃることがあります。それは、そもそも天皇の玉座それ自体が「天皇の軍隊」によって虐殺されたアジアの人民たちの血で汚れたものだということです。つまり、多くの「リベラル」派たちが「リベラル」と礼賛する明仁・徳仁親子は、徳仁の祖父である昭和天皇裕仁の「皇軍」によって虐殺されたアジアの人民たちの血で汚れた天皇の玉座に何食わぬ顔で座っている(いた)のです。そして、戦後の日本が米国に追従し、沖縄を差し出してその戦争に協力し続けるのも、まさに「天皇の軍隊」によって虐殺されたアジアの人民たちの血で汚れた天皇の玉座を護持することの代償なのです*2。そうしたことを忘れた「リベラル」派たちが天皇の権威に依拠して高市政権を批判する姿は、まさに「戦後平和主義」の矛盾と欺瞞の表れです。

こうしてみると、天皇制が民主主義的思考を妨げるものだということが改めてよくわかります*3。残念ながら日本の「リベラル」派の多くは、「民主主義」という言葉は知っていても、その意味までは知らないようです。人民に対する身分差別である天皇制は、自由および平等を大前提とする民主主義と敵対的に矛盾するものであり、その矛盾は天皇制を廃止することでしか解消することができません。つまり、「天皇の軍隊」によって虐殺されたアジアの人民たちの血で汚れた天皇の玉座を廃止しなければ、日本の真の民主主義は決して始まらないのです。それとも日本の「国民」たちは、天皇制国家体制に同化されない人民たちが差別されるのを眺めながら「戦後民主主義」という米国から与えられた贋物で満足し、神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制によって骨の髄まで支配され続けることを望むのでしょうか。

天皇制の根本的な問題は「女性天皇」あるいは「女系天皇」が認められていないことではない。

女性・女系天皇、議論棚上げ 国会と世論、生じるズレ:朝日新聞

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国会と世論 生じるズレ

安定的な皇位継承にむけた国会での与野党の検討が大詰めを迎えている。ただ、議論のテーマはあくまでも当面の皇族数を確保するための方策で、世論調査で支持される「女性天皇」や、母方のみ天皇につながる「女系天皇」をめぐる議論は棚上げされている。

朝日新聞が5月中旬に行った全国電話世論調査では、天皇について「女性もなれるようにした方がよい」が72%で、「女系を認めてもよい」は74%だった。ただ、こうした意見は国会では少数派で、世論とのズレが生じている。

[……]

当面の数確保 問題すり替え 識者

皇位継承をめぐる議論の過程を検証している成城大学の森暢平教授は「そもそも皇位継承者を女性・女系にまで拡大する検討の根本には、男女同権意識を含む家族観の変化など現代社会のありように天皇制を対応させ、継承者の確保につなげるという方針があったはずだ」と指摘する。その上で、現在の国会での議論について、「天皇制が抱えている根本的な問題の議論を避け、当面の数の確保という一時的な対応を議論することは問題のすり替えにも映る」と述べる。

 

女性・女系天皇、議論棚上げ 国会と世論、生じるズレ:朝日新聞

上掲の朝日新聞の記事で、識者は、「当面の皇族数を確保するための方策」についての議論を「天皇制が抱えている根本的な問題の議論を避け」るものであって「問題のすり替え」だと言います。

「天皇制が抱えている根本的な問題」が「女性天皇」あるいは「女系天皇」が認められていないことであるならば、たしかに識者の言うとおり「当面の皇族数を確保するための方策」についての議論は「問題のすり替え」でしょう。しかし、天皇制の根本的な問題は「女性天皇」あるいは「女系天皇」が認められていないことでありません。

神話という虚構に基づき「天皇一家」という特定の家族を特別視し、そうした特別視によって作り出される「天皇一家」の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制および皇室制度は、人間を「生まれ」によって差別するものです。そして、それこそがまさに天皇制の根本的な問題です。つまり、天皇制の根本的な問題は、天皇制が人民に対する身分差別であることなのです

人民に対する身分差別という天皇制の根本的問題は、「女性天皇」あるいは「女系天皇」を認めることでは決して解決しません。「女性天皇」あるいは「女系天皇」を認めることは、むしろ、人民に対する身分差別を温存するものです。人民に対する身分差別という天皇制の根本的問題を解決する方法は、ただ一つ、天皇制を廃止することです。そして、「女性天皇」あるいは「女系天皇」を認めないことが女性差別だとしても、それは家父長制の頂点たる天皇制を廃止すれば自ずと解消されるのです。

こうしてみると、当面の数の確保という一時的な対応を議論することだけでなく、「女性天皇」あるいは「女系天皇」の是非を議論することも、人民に対する身分差別という天皇制の根本的問題の議論を避けるものであって、問題のすり替えにほかならないということがわかります。つまり、本当に議論すべきことは人民に対する身分差別である天皇制の廃止なのです

天皇制の廃止は、天皇や皇族を天皇制から解放するためにするのでは決してありません。先に述べたように、天皇制は天皇の権威を利用した人民支配の装置です。つまり、人民支配の装置である天皇制を廃止することは、私たち人民を天皇制の支配から解放することなのです。「天皇のため」や「皇族のため」というのは臣民思考です。そんな臣民思考はもう捨てて、私たち人民は、自分たちの手で天皇制を廃止し、自分たちを天皇制の支配から解放しましょう。そうして私たち人民が、自分たちの手で天皇制を廃止し、自分たちを天皇制の支配から解放したとき、私たちの真の民主主義がはじまるのです

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「光州5.18」に関心を持つ日本の市民に知ってほしい「華城4.15」

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2018年に日本でも劇場公開された韓国映画『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』や光州出身のBTSメンバーJ-HOPEさん*1の影響で、「光州5.18」すなわち1980年5月18日の光州民主化運動に関心を持つ日本の市民が増えています。

もちろん、日本の市民たちが「光州5.18」に関心を持つのは良いことです。しかし、もし「光州5.18」に関心を持つ日本の市民たちが、「光州5.18」を「『平和』な我が国とはまるで無関係な、我が国よりも『民主化』が遅れた隣国の悲劇」だと思っているのであれば、私は日本の市民たちの「光州5.18」に対する関心の高まりを手放しで喜ぶことはできません

「あそこのことをみんなが大きな声でしゃべるのは遠いよその国だからなのよ。政治問題は遠い国のことほど単純に、壮烈にしゃべりたくなるものなのよ。自分の国のことになると一ミリの振動でもびくびくしてたちまち口ごもってしまうくせに、そうなのよ。つまり、きれいに苦悩できるのよ。」

 

(開高健『夏の闇』新潮文庫 256頁)

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「光州5.18」に関心を持つ日本の市民たちの中に、たとえば「華城4.15」を知っている人はどれだけいるでしょうか。「華城4.15」とは、すなわち日本が朝鮮を植民地支配していた1919年4月15日に日本の警察と憲兵が引き起こした「4.15堤岩里・古洲里虐殺事件」です。

三一運動殉国紀念塔

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[……]しかし、その弾圧は苛烈であった。長谷川好道の要請を受けて首相の原敬も、四月四日、六大隊の派兵を閣議決定した。弾圧には、憲兵隊と軍隊だけでなく、鉄道擁護隊・在郷軍人会・消防隊までもが動員されている。

その結果、多くの犠牲者が出た。虐殺も数多く行われた。中でも四月一五日、水原郡の堤岩里で二十数名のキリスト教徒と天道教徒が教会に閉じ込められて射殺され、教会もろともに焼かれた事件は有名である。[……]この事件は、日本では箝口令が敷かれ、ほとんど報道されなかった。

 

(趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書 45―46頁)

奪われた国を取り戻し、祖国の自主独立、平和と自由を熱望する華城市民の抗日闘争は、どの地域よりも強烈なものであった。華城市民の植民地統治に対する激烈な抵抗は、日程の組織的な報復と残酷な鎮圧、集団虐殺を招いた。堤岩里・古洲里虐殺事件は、日帝の人倫に反する行為の残酷な実相を示す、大韓民国独立運動史において、もっとも代表的な事件である。

[……]

1919年3月1日、日帝の植民地統治に抵抗する韓民族最大の独立運動である3·1運動が、韓半島全域で展開された。3月21日に東灘面からはじまった華城における3·1運動は、松山面、西新面、雨汀面、長安面、郷南面、八灘面など、華城全域に拡散した。

[……]

華城市民の激烈な抵抗に対して、日帝は報復と殺傷を躊躇せず、堤岩里・古洲里虐殺事件を自ら引き起こした。この事件を目撃した多くの宣教師・外交官や記者たちは、その惨状記録に残し、これを世界各国に打電した。堤岩里・古洲里虐殺事件が国際的に公表される中で、日帝の非人道的な植民地支配が暴露され、韓民族の独立に対する熱望と当為性が全世界に知らされる契機となった。

 
(華城市独立運動記念館 常設展示 日本語版パンフレットより引用)

華城市独立運動記念館 常設展示 日本語版パンフレット

もしかすると、日本の市民たちにとって「華城4.15」は、「光州5.18」と同じく韓国近現代史上の「悲劇」の一つかもしれません。しかし、「華城4.15」は、韓国の軍事独裁政権による虐殺事件である「光州5.18」と異なり、日本による朝鮮植民地支配下で日本の警察と憲兵が被植民者である朝鮮人たちを虐殺した事件です。つまり、それはわれわれ日本の市民にとって単なる韓国近現代史上の「悲劇」の一つでは決してなく、われわれ日本の市民が真摯に向き合い、記憶しなければならない、日本の加害の歴史なのです。それゆえ、「光州5.18」に関心を持つ日本の市民にまず「華城4.15」を知ってほしい、否、むしろ日本の市民は「華城4.15」を知らなければならない、私はそう思うのです。

そもそも「光州5.18」における軍事独裁政権による市民虐殺は、日本も決して無関係ではありません。というのも、米国主導の戦後東アジア国際秩序を基盤とする「日韓1965年体制」において韓国の軍事独裁政権を支えていたのが、まさに日本の自民党政権だからです。そして、そうした日本の自民党政権と韓国の軍事独裁政権の「蜜月関係」を基礎づけた新植民地主義的な「日韓1965年体制」は、日本による朝鮮植民地支配の延長線上に位置づけられるものです。

米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の七〇%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。そして、この地域では、米国に与えられた役割に適合的な政治体制が必要であった。それが日本の自民党長期政権であり、韓国の反共軍事独裁政権であった。

 
(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 はしがき x頁)

つまり、「軍事独裁国家だった当時の韓国とは違う日本の『平和』や『民主主義』」は、日本による朝鮮植民地支配の未清算と韓国の市民たちの犠牲の上に成り立つ虚構に過ぎないのです。それを考えれば、日本の市民たちが「光州5.18」を「『平和』な我が国とはまるで無関係な、我が国よりも『民主化』が遅れた隣国の悲劇」だと思うことはできないはずです。

民主化した現在の韓国で「光州5.18」の記憶が継承されるのは、韓国の市民社会がかつての軍事独裁政権による市民虐殺という国家暴力の歴史と真摯に向き合っているからです。そして、それは「光州5.18」に関心を持つ日本の市民たちが韓国の市民社会から学ぶべき大事なことの一つです。つまり、「光州5.18」に関心を持つ日本の市民たちが、「光州5.18」を通じて韓国の市民社会から国家暴力の歴史と真摯に向き合う姿勢を学んだのであれば、「華城4.15」という天皇制国家・日本による国家暴力の歴史とも真摯に向き合うことができるはずです

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ヘイトスピーチは表現の自由に含まれない。

「表現の自由」を理由にヘイト・スピーチの法規制に反対する主張は、突き詰めれば、差別的表現の自由も保障されるべきであり、「不快な」表現は被害者が我慢すべきだということになる。

[……]マイノリティがヘイト・スピーチによって被る害悪[……]は、社会、すなわちマジョリティが、マイノリティに対して我慢を強いることが許されるような程度のものなのだろうか。

 

(師岡康子『ヘイトスピーチとは何か』岩波新書 50―51頁)

差別煽動表現(以下、ヘイトスピーチという)は憲法が保障する表現の自由に含まれる、そう主張する人が少なからずいます。もちろん、「ヘイトスピーチは表現の自由に含まれる」と主張するのは自由です。しかし、これから述べる憲法が表現の自由を人権として保障した趣旨に鑑みれば、ヘイトスピーチそれ自体を表現の自由に含まれるものと考えることは、私にはできません。

意見を持つということも、政府の葡萄酒醸造政策についてでもあったら、まだまだ承認できぬこともない。アルジェリアの葡萄酒を、自由に輸入するか否かについては、それぞれの理由も成り立とう。というのも、この場合は、物品の管理についての見解を述べるのだからである。これに反して、直ちに特定の個人を対象とし、その権利を剝奪したり、その生存を脅かしたりしかねぬ一主義を、意見などと呼ぶことは、わたしには出来ない。

 

(J-P.サルトル『ユダヤ人』安藤信也訳 岩波新書 4頁)

憲法が表現の自由を人権として保障したのは、それが単に「自由」だからではなく、人権として憲法で保障する価値があるからです。表現の自由には、二つの大切な価値があります。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)です。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)です。そして、これら二つの大切な価値を守ることが究極的には個人の尊厳の確保に資することから、憲法は表現の自由を人権として保障したのです。

ヘイトスピーチが表現の自由に含まれるか否かを議論することは自己実現の価値あるいは自己統治の価値に資するといえるので、「ヘイトスピーチは表現の自由に含まれる」と主張するのは表現の自由に含まれるといえます。これに対し、個人の尊厳を傷つけるヘイトスピーチは、究極的には個人の尊厳を確保するという憲法が表現の自由を保障した趣旨に悖るものであって、それが表現の自由に含まれないことは明らかです。いわゆる「ヘイトデモ」について、2016年6月の横浜地裁川崎支部の決定も、違法性が顕著であれば「憲法が定める集会や表現の自由の保障の範囲外」であるとしています*1

もっとも、ヘイトスピーチも表現の自由に含まれるが、「公共の福祉」によって制約される、と解することも不可能ではありません。しかし、そう解するのは、先に述べた憲法が表現の自由を人権として保障した趣旨をあまりにも軽んじるものであって、妥当ではありません。やはり、ヘイトスピーチは表現の自由に含まれない、と解するのが理に適うものといえます。

ところで、ヘイトスピーチは個人の尊厳を傷つけるという点に関しては、「ヘイトスピーチが傷つけるのは、集団であって個人ではないから、個人の尊厳云々は無関係だ」と言う人がいます。しかし、そういう人は、ヘイトスピーチによって傷つけられる人間を間違って捉えています。

反ユダヤ主義者が傷けようとしているユダヤ人、それは、行政法の中にでもあるような、単にその機能によってのみ定義された図形的存在ではない。法典におけるが如く、状況と行為によってのみ規定された存在ではない。それはひとりのユダヤ人、ユダヤ人を父とし、肉体的に、髪の色や、あるいは身なりで、更に、性格によっても、識別がつくといわれるひとりのユダヤ人なのである。

 

(J-P.サルトル『ユダヤ人』安藤信也訳 岩波新書 4頁)

つまり、「ヘイトスピーチが傷つけるのは、集団であって個人ではない」という人は、ヘイトスピーチによって傷つけられる人間を「記号的存在」として捉えています。しかし、ヘイトスピーチが傷つけるのは、「記号的存在」としての人間ではなく、一人ひとり顔も性格も異なる生身の人間なのです

このように、私はヘイトスピーチを表現の自由として保護する価値のある表現ではないと考えるわけですが、こうした問題意識、すなわち「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対し、いわゆる有識者の中には「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と答える人が少なからずいます。

「規制は例外的で、ヘイトスピーチ規制も慎重であるべきだ」という榎透・専修大教授(47)は、表現の自由の大切さを指摘する。

[……]

しかし、差別的な表現まで保護する価値はあるのか。「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と榎教授。

 

(憲法を考える)ヘイト規制、表現の自由と両立は 全国初の罰則条例、川崎市で施行:朝日新聞 (2020年7月28日付け朝刊)

もちろん、表現の自由は大切ですし、「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」というのも、それはその通りです。しかし、それは「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対して答えるものではありません。というのも、「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対して「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と答えるのは、抽象的思考レベルの議論と具体的思考レベルの議論を混同して話をはぐらかすものだからです。つまり、「常に権力の乱用の危険がある」というのは「いかなる表現が保護に値しない『ヘイトスピーチ』であるか」を判断あるいは裁定するための規範を定立する具体的思考レベルの議論(もっとも、そこで定立される規範自体は、「法規範」ですから一般的かつ抽象的なものです。)における問題であって、それは「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という抽象的思考レベルの議論において問題とすべきものではないのです。

「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対する答えは、「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はある」「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はない」のいずれかです。規範の「漠然不明確性」や「過度の広汎性」による権力の乱用の危険は、具体的思考レベルの議論において問うべきことであって、抽象的思考レベルの議論における問いの答えではありません。それに、もし抽象的思考レベルの議論における「ヘイトスピーチ」の概念が漠然とした不明確なものだというのなら、およそあらゆる抽象的思考レベルの議論における概念が漠然とした不明瞭なものだということになるでしょう。たとえ抽象的思考レベルにおいてヘイトスピーチは表現の自由に含まれないと解しても、具体的思考レベルにおいて表現の自由に含まれない「ヘイトスピーチ」を厳密に定義すれば、権力の乱用を防ぐことは十分可能です。また、「常に権力の乱用の危険がある」のはヘイトスピーチの法規制に限ったことではありません。そして、そもそも個人の尊厳を傷つけるヘイトスピーチは「言論」ではありませんから、憲法がその確保を究極目的とする個人の尊厳を傷つけるヘイトスピーチを民主制の過程を通じて法規範を定立することによって「言論」から除外し、司法が法規範を適用することでヘイトスピーチによる人権侵害を救済することは、「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めること」では決してありません。

いくら表現の自由が大切といえども、それが個人の尊厳に根ざすマイノリティの人格権に常に優越することは決してないことを考えれば、本当に問うべきは、権力の乱用を防ぎつつ、いかにヘイトスピーチによる侵害からマイノリティの人格権を法的に保護していくか、ということです。しかるに、「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」というところで思考を止めてしまい、「表現の自由」を教条的に唱えてヘイトスピーチを野放しにしておくのは、マジョリティの怠慢かつ傲慢と言うほかありません。

www.iwanami.co.jp

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*1:"川崎市の社会福祉法人が、在日コリアンの排斥を訴えるヘイトスピーチデモを主催する男性のデモを禁止するよう求めた仮処分で、横浜地裁川崎支部は2日、同法人の事務所から半径500メートル以内でのデモを禁止する決定を出した。橋本英史裁判長は、5月に成立したばかりのヘイトスピーチ対策法に言及し、ヘイトデモを「人格権に対する違法な侵害行為に当たる」と認定。さらに、その違法性が顕著であれば「憲法が定める集会や表現の自由の保障の範囲外」とも指摘した。"ヘイトデモ:接近禁止の仮処分決定 横浜地裁支部 | 毎日新聞

「世界に誇る平和憲法がある日本すごい」と言うけれど

いわゆる「護憲派リベラル」の中には、ナショナリスティックな「日本すごい」に対するアイロニーのつもりなのかもしれませんが、「世界に誇る平和憲法がある日本すごい」と言う人が少なからず見受けられます。

日本国憲法が掲げる恒久平和主義の理念それ自体がかけがえのないものであることは、もちろん私も否定しません。しかし、「世界に誇る平和憲法がある」ただそれだけで本当に「日本すごい」と言えるのでしょうか。そして、「護憲派リベラル」の皆さんが「世界に誇る平和憲法」だと言う日本国憲法は、本当に世界に憚りなく誇ることができるようなものなのでしょうか。

おそらく「護憲派リベラル」の多くが、現政権の高市政権でますます拍車化がかかる「平和憲法」の破壊を、安倍政権に始まった話だと思っていることでしょう。しかし、「平和憲法」の破壊は、安倍政権に始まった話では決してありません。

二〇一五年九月、予想どおり「戦争関連法案」が日本の国会で可決された。武装を禁止した条文を変えないまま、法律によって憲法を軽々と超えてしまったことは、憲法の形骸化にとどまらない、「憲法の停止」であるといえる。[……]憲法の否定というクーデターが議会制民主主義のもとで合法的になされたのである。[……]こうして日本政府はいわゆる集団的自衛権を行使する権限を手に入れ、ふたたび「戦争のできる国」となって米国の軍事行動に堂々と参加できるようになった。

[……]

遡れば、自衛隊と在日米軍という屈指の軍事力に政府や司法が合憲のアリバイをあたえた、一九五〇年代以来の解釈改憲の積み重ねがあった。今回の「憲法の停止」は、遅ればせの「現実」の追認でもあった。憲法形骸化の最後の段階であった「集団的自衛権」容認をやすやすと手に入れることで、すでに破れてぼろきれのようになっていた「平和主義」というこの手に余る服を完全に脱ぎ捨てたのである。いわばこれまでの流れへの「逆行」ではなく拡大なのである。これまでの解釈改憲に、もうひとつ解釈改憲を付け加えたのである。よって安倍政権の登場により加速している「平和主義」の否定を突発的な事態ととらえるのではなく、歴史の必然的な帰結とみなければならない。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局(2016年) はしがき ⅲ―ⅳ頁)

戦後日本は、「護憲派リベラル」の皆さんが世界に誇る「平和憲法」があるにもかかわらず、米国と「安全保障」に名を借りた軍事同盟を結び、皮肉な話ですが「平和憲法」のおかげで自らの手を血で汚すことなく朝鮮戦争(1950年~)やベトナム戦争(1960~75年)といった米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するための戦争に加担して暴利をむさぼってきました。そうして「平和憲法」をなおざりにすることで世界屈指の「経済大国」となった*1日本は、1980年代の後半から今日まで、米国主導の「国際秩序」を維持・拡大するために日本に対してさらなる協力を求める米国の期待に応えるべく、「平和憲法」を形骸化させる解釈改憲という詭弁を弄して「防衛力の強化」に名を借りた軍事力の拡張を続け、本来「憲法の番人」であるはずの司法府も、そうした「平和憲法」を形骸化させる「解釈改憲」という詭弁を追認してきました。つまり、「平和憲法」の破壊は、1950年の再軍備*2始まったのであり、それから今日まで「護憲派リベラル」の皆さんが世界に誇る「平和憲法」は、「解釈改憲」という詭弁を弄して「平和憲法」を形骸化させる政府と、それに「お墨付き」を与える司法府、そしてそうした「解釈改憲」という詭弁に疑問を持つことなく「平和」を謳歌する多くの「国民」たちによって蔑ろにされてきたのです

「平和憲法」を世界に誇る「護憲派リベラル派」の皆さんは、よく「日本が戦後ずっと戦争をしなかったのは、憲法9条のおかげだ」と言います*3。もちろん、戦後の日本が「憲法9条のおかげ」で戦争に直接参加して自らの手を血で汚すことがなかったのは事実ですし、9条改憲論者たちのように「戦後日本の平和は憲法9条ではなく日米同盟のおかげだ」と言うつもりはもちろんありません。しかし、「日本が戦後ずっと戦争をしなかったのは、憲法9条のおかげだ」と言う「護憲派リベラル」の皆さんが決して忘れてはならないことがあります。

米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の七〇%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 はしがき x頁)

「日本が戦後ずっと戦争をしなかったのは、憲法9条のおかげだ」と言う「護憲派リベラル」の皆さんが決して忘れてはならないこと、それは、戦後日本の「平和主義」が、米国主導の国際秩序の維持・発展に伴う軍事的リスクを沖縄と韓国が負担するという、沖縄と韓国の犠牲の上に成り立つ(権赫泰先生の言葉に倣えば)「平和なき『平和主義』」であるということです。

「戦後」の日本社会は現実として平和主義を実現できたわけではなく、自衛隊は存在し、日米安保条約と米国の核の傘のもとにある。しかし護憲運動においては、平和憲法を守ろう、「平和主義」を壊すなというスローガンがくりかえし語られる。ここで権氏が指摘するのは、そもそも平和憲法が維持される前提となった東アジアの構造とはいかなるものであったのか、という問いである。朝鮮半島の分断体制があり、その最前線にはいかなる意味でも「平和主義」的ではない兵営国家・韓国がある。こうした朝鮮半島での戦争状態の継続と、米国の核の傘のもとで謳歌されたのが「戦後」日本の平和ではなかったか、「平和憲法を守ろう」というスローガンは、こうした構造を「守ろう」というものになりはしないか。そう権氏は問うのである。

 

(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局 237―238頁 鄭栄桓氏による訳者あとがき)

「平和憲法」が内包する欺瞞は、「平和なき『平和主義』」だけではありません。恒久平和主義と不可分の関係にある民主主義は、自由および平等を大前提とします。しかし、日本国憲法の第1条は、人民を差別・抑圧して支配する天皇制を定めています。これは、民主主義の大前提である自由および平等と矛盾するものです*4。つまり、「主権在民」を謳いながらも民主主義と矛盾する天皇制を定めている日本国憲法の第1条は、「平和憲法」が内包する欺瞞を体現した規定であると言わざるを得ないのです。

こうしたことを考えると、「世界に誇る平和憲法がある日本すごい」とは私には到底思えませんし、「平和憲法」をそれが内包する欺瞞から目を背けて憚りなく誇ることは私には恥ずかしくてできません。

戦後日本の「平和憲法」は「護憲派リベラル」の皆さんにとって自尊心の拠り所でしょうから。「平和なき『平和主義』」や民主主義と敵対的に矛盾する天皇制といった「平和憲法」が内包する欺瞞から目を背けたいかもしれません。しかし、そうした欺瞞から目を背けて「平和憲法」を無批判に肯定することが「護憲」では決してありません。戦後日本の「平和憲法」を「基本的人権の尊重」や「平和主義」といった人類の普遍的価値を真に体現した平和憲法にするためには、戦後日本の「平和憲法」が内包す欺瞞と真摯に向き合い、それらを克服することが必要不可欠なのです。「護憲派リベラル」の皆さんは、皆さんが世界に誇る日本の「平和憲法」を人類の普遍的価値を真に体現した平和憲法にすることを希求するならば、「世界に誇る平和憲法がある日本すごい」で思考を止めてしまってはいけません。

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*1:yukito-ashibe.hatenablog.com

*2:日本の再軍備

*3:"社民党党首の福島みずほ参院議員は、今年3月の日米首脳会談で高市首相がトランプ大統領に対しイランが事実上封鎖するホルムズ海峡への自衛隊派兵を明言しなかったことを取り上げ、「憲法9条があるから(こそ)自衛隊を送れなかった。9条の威力だ」と指摘した。その上で、「日本が戦後ずっと戦争をしなかったのは、憲法9条のおかげだ。9条を絶対に変えさせてはならない」と訴えた。"【憲法施行79年】憲法大集会に5万人集結 ~「9条守れ」「戦争反対」の声 - 社民党 SDP Japan

*4:yukito-ashibe.hatenablog.com