「虎に翼」込めた思いは? 脚本家の吉田恵里香さんに憲法学者・木村草太さんが聞く 差別禁じる憲法14条は「宝物」 - 琉球新報デジタル
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
たしかに、憲法14条それ自体は素晴らしいものであり、「宝物」といっても過言ではありません。しかし、日本国憲法は、そんな「宝物」を自ら腐らせてしまっています。
いわゆる「菊タブー」なのでしょうか、上掲の記事はその点への言及を慎重に避けていますが、日本国憲法は、14条で「法の下の平等」を謳いながら、それと矛盾する身分差別である天皇制を定めています。これについては、よく「憲法自身が平等原則の例外を認めている」という説明がなされます。しかし、問題の本質は平等原則の例外が許される合理的理由があるかどうかであって、「憲法自身が平等原則の例外を認めている」というのは、それだけでは憲法14条と矛盾する身分差別である天皇制が許される理由にはなりません。
日本国憲法の象徴天皇制は、天皇制を日本の間接統治に利用したいGHQ(連合国軍総司令部)と「国体護持」(=天皇制国家体制の維持)に腐心する昭和天皇ヒロヒトら支配層の思惑が一致したことでうまれた「政治的産物」に過ぎず*1、日本国憲法の基本原理から要請されるものではありません。それどころか、神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制は、人民を差別し人民の人権を抑圧するものであり、日本国憲法の基本原理とは決して相容れないものです。つまり、天皇制が平等原則の例外として許される合理的理由はどこにもなく、身分差別である天皇制は決して許されないのです。
このように、本来であれば許されないはずの身分差別である天皇制が温存された日本国憲法体制では、その成立過程で、引き続き天皇制国家体制を維持し人民を天皇制国家の「国民」として束ねるにあたり不都合な存在とされた*2人たちが切り捨てられました。すなわち、日本国憲法施行の前日である1947年5月2日、昭和天皇ヒロヒトの裁可による最後の勅令として外国人登録令が公布・施行され、これによって、かつて日帝によって一方的に「皇国臣民」とされた在日朝鮮人と在日台湾人は、日本国憲法体制の成立直前でこれまた一方的に切り捨てられて警察の取り締まり対象にされたのです。こうして、日本国憲法体制から疎外されて社会権や参政権といった人間の普遍的な権利たる人権が憲法の保障の枠外におかれた在日朝鮮人をはじめとする外国籍市民は、憲法14条が「法の下の平等」を謳っているにもかかわらず今日まで「政治的、経済的又は社会的関係において、差別され」続けています。これについては、もしかすると、「憲法14条は『すべて国民は、法の下に平等であ』ると謳っているのだから、『国民』ではない外国人が差別されるのは当然だろう」と思っている人もいるかもしれません。しかし、人権が「国民」の特権ではなく人間の普遍的な権利であることに鑑みれば、憲法14条は「国民」という文言にかかわらず外国籍市民にも保障されるものと解すべきであり、そう解するのが通説・判例(1964年年11月18日最高裁大法廷判決参照)です。
こうしてみると、日本国憲法は、日本国憲法は、14条で「法の下の平等」を謳いながら、それと矛盾する身分差別である天皇制を定めるという致命的な自己矛盾を犯すことで、自ら憲法14条という「宝物」を自ら腐らせていると言わざるを得ません。もしかすると、そもそも「護憲派」の方々が「宝物」と呼んでありがたがっている代物は、日本社会の差別の根源である天皇制を維持するための供物として祭壇に飾る贋物なのかもしれません。こんなことを言ったら「護憲派」の方々からお叱りを受けるでしょうし、さすがに贋物は言い過ぎかもしれませんが、しかし、「護憲派」が贋物の輝きに目を奪われて日本国憲法が抱える致命的な自己矛盾から目を背け続けるかぎり、素晴らしい憲法14条を真の宝物にすることはできないでしょう。つまり、素晴らしい憲法14条を真の宝物にするためには、差別を禁じる憲法14条と敵対的に矛盾する身分差別である天皇制を廃止することが必要不可欠なのです。