(寄稿)断絶のS字社会、蛇は何思う リベラルへ優しく誘う、私達の脱皮は 中村文則:朝日新聞デジタル
数年前、ドイツの映画監督がこんな風に言っていた。
「私達欧州のリベラルは急ぎ過ぎた。私達の主張に反感を持つ人が増え、逆に社会が保守化し、極右勢力が台頭した。アメリカもオバマ大統領の次は、反動でトランプ氏になった」
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現在、世界も日本も全体的に、保守的で男尊女卑社会だ。
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保守的な論客が「なぜリベラルは負けるのか」みたいに(やや得意げに?)言ったりするが、そもそも人間は生物だから保守的で、保守が勝つに決まっているのだった。
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どうすればいいか。重要なのは伝え方だと思う。優しくなるのはどうだろう。ユーモアもあるといい。リベラルを嫌う人の内面構造を理解し、拒絶や押し付けではなく包括し、リベラル側へと少しずつ誘うイメージはどうだろう。
中村文則氏はリベラル派なのでしょうが、こうした問題の本質を見誤ったリベラル派の「敗因総括」には心底辟易とします。
戦前と戦後は連なっているということは、日本の諸階級の多数にとって、まず敗戦体験が根本的な価値観の崩壊ではなく、カメレオンみたいに色を変えればすむことだったということだ。
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このように、基本的な継続性があった上で、天皇制イデオロギーが持っていた非合理性が有効でなくなったことに対応する。別なものによる補強があって、「戦後民主主義」的・資本家的安定が、次第に回復していく。その場合、政治の次元では、「平和と民主主義」という、どうにでも解釈されうる二つの観念が新たな価値体系の中心に据えられた。一方、経済的には、朝鮮戦争なんかをバネとして、アメリカの極東戦略とも関連する、独占資本主義体制の維持・強化がいうまでもなく行なわれ、戦前以上に複雑な差別支配のメカニズムが、労働者階級をも体制的に取り込んでゆく。[……]その体制と価値観に安住する者は一定の保障を得るが、その外側に、身分的に差別されて、あるいは自発的にはみ出している者には、このような大衆社会は全く冷たい。体制内的身分を踏みはずさないように自発的にたどっていく労働者階級にとって、「戦後民主主義」は、そのことの問題性を避けて通るためのオブラートにもなっている。
欧州はどうだか知りませんが、少なくとも日本では、近代以降今日に至るまで一貫して保守主義すなわち天皇制レイシズムと植民地主義が支配的価値観であり続けています。つまり、日本に限って言えば「リベラルに反感を持つ人が増え、社会が保守化し、極右勢力が台頭した」ということは決して真実ではないのです。これについては、「安倍政権」や「ネット右翼」のような極右勢力の台頭を「戦後民主主義」あるいは「悪夢の民主党政権」に反感を持つ人が増えたことによるものだと言う人もいるでしょう。しかし、「戦後民主主義」は天皇制レイシズムと植民地主義を温存するための方便にすぎず、冷戦構造の崩壊と独占資本主義体制の衰退によって「戦後民主主義」が内包する矛盾が激化し、いわば「戦後民主主義」の化けの皮が剥がれて天皇制レイシズムと植民地主義が剥き出しになったのが、「安倍政権」や「ネット右翼」のような極右勢力の台頭なのです。また、民主党政権が短命に終わったのも、「戦後民主主義」が内包する矛盾がもはや右翼日和見主義(民主党政権は決して左翼政権ではありません)では取り繕うことができないほどに激化してしまっただけのことです。
このように、現在も日本が全体的に「保守的で男尊女卑社会」なのは、天皇制レイシズムと植民地主義を克服してこなかった結果であり、「リベラルの敗北」の結果では決してありません。つまり、問題の本質は天皇制レイシズムと植民地主義の克服であり、それは日本社会とそのマジョリティ一人ひとりの問題(「ネット右翼」だけの問題でないことは言うまでもありません)であって、リベラルの勝ち負けの問題では決してないのです。
日本の天皇制イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変わらぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。自然現象のような「民族性」ということばは絶望に通じていきかねない。紀元前にしても天皇制にしても明治の、日本の資本主義が発生していく過程で明らかに意図的につくられたものなのです。今のわれわれの実感ではそうは到底思えないくらい血肉化しちゃっいるけれども、元をただせば権力の側からつくり出されたものが、われわれが自分の責任において自分の生活をその中に埋没させたことによって、一つの既成事実となったのです。
中村氏は大きな勘違いをしていますが、日本において近代以降今日に至るまで一貫して保守主義すなわち天皇制レイシズムと植民地主義が支配的価値観であり続けてきたのは、人間が「生物だから保守的で、保守が勝つに決まっている」からでは決してありません。本当に「人間は生物だから保守的で、保守が勝つに決まっている」のが日本の保守主義である天皇制レイシズムと植民地主義が支配的価値観であり続けてきた理由であるならば、日本社会とそのマジョリティである日本人が日本の保守主義である天皇制レイシズムと植民地主義を克服できないのも仕方ないことなのかもしれません。しかし、日本の保守主義である天皇制レイシズムと植民地主義は、梶村秀樹先生がおっしゃるように権力の側がつくったものであり、すなわち人がつくったものだから、日本社会のマジョリティ一人ひとりはこれをこわしていくことができるのです。それにもかかわらず、日本社会のマジョリティの圧倒的多数が天皇制レイシズムと植民地主義を支配的価値観とする体制に安住し、天皇制レイシズムと植民地主義の克服を怠ってきた結果、日本の保守主義である天皇制レイシズムと植民地主義が今日もなお日本の支配的価値観であり続けているのです。つまり、「そもそも人間は生物だから保守的で、保守が勝つに決まっているのだった」というのは真理ではなく、問題の本質を見誤った敗北主義でしかありませんが、このような敗北主義に酔えるのも、中村氏が日本社会のマジョリティだからです。
先にも述べたとおり、問題の本質は天皇制レイシズムと植民地主義の克服であり、それは日本社会とそのマジョリティ一人ひとりの問題であって、リベラルの勝ち負けの問題では決してありません。リベラル派の中には「右も左も関係ない」という言葉が好きな人も少なくありませんが、それこそ日本の保守主義である天皇制レイシズムと植民地主義が今日もなお日本の支配的価値観であり続けているというのは、日本の権力層とそれを支えて体制に安住し一定の保障を得ている圧倒的多数のマジョリティによるマイノリティへの差別・抑圧の問題であり、保守とリベラルの政治的対立の問題ではないのです。中村氏の言う「優しくなる」というのが具体的にどういうものなのかよくわかりませんが、もしリベラルが「優しくな」って政治的多数派になれたとしても、天皇制レイシズムと植民地主義が克服されない限り、問題の根本的解決には至らないでしょう。この点については「リベラルが政治的多数派になれば自ずと天皇制レイシズムと植民地主義も克服されるはずだ」と言う人もいるでしょうが、日本リベラル派の頽落ぶりを考えるとそれは甚だ疑問です。
中村氏は「リベラルを嫌う人の内面構造を理解しよう」と言いますが、いったい何を理解しろと言うのでしょうか。まさか、「われわれ日本人がこんなに苦しい思いをしているのにもかかわらず、外国人たちは我々の国で我が物顔に振る舞っているのだから、そうした傲慢不遜な外国人たちに甘いリベラルが嫌われるのも理解できる」とでも言うのでしょうか。しかしそれは、それこそこれまで散々使い古されてきた、天皇制レイシズムと植民地主義を正当化するための戯言です。また、中村氏は「拒絶や押し付けではなく包括し」ようとも言いますが、そんなことを言えるのは、中村氏が構造的に「差別する側」であるマジョリティだからです。つまり、問題の本質を見誤ったリベラル派の「敗因総括」は、所詮マジョリティの傲慢でしかないのです。「差別する側」にいるマジョリティは、目の前の差別に抗う人たちに対して高いところから偉そうに「そんな言い方じゃ差別をやめてもらえないよ」と言う前に、まずは目の前の差別に抗うべきです。
知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。
重要なのはリベラルが嫌われないよう努力することではなく、一人でも多くのマジョリティが目の前の差別や排外主義、歴史修正主義に抗い、天皇制レイシズムと植民地主義を支配的価値観とする体制に安住することをやめ、天皇制レイシズムと植民地主義を克服するよう努力することです。そして、そのためには知識人やジャーナリストが、天皇制レイシズムと植民地主義を支配的価値観とする体制に安住する圧倒的多数のマジョリティにとって聞き心地のよい甘い言葉ではなく、権力とそれを支えそれに支配されている圧倒的多数のマジョリティに対して真実を語ることです。