葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

私は「令和ファシズム体制」下を「自由な個人」として生き延びることができるだろうか。

「自由な個人」として生きることを許さない、そんな「空気」が日本社会の隅々まで支配しつつあることをひしひしと肌で感じるようになりました。

「厳しくも慈悲深い天皇の国」の政府は、「ヒノマル」の旗の下、「アメとムチ」で人民を「国民」という名の臣民として束ねていきます。本来ならば市民の「知る自由」に奉仕するはずのマスメディアは、市民の「知る自由」ではなく「厳しくも慈悲深い天皇の国」の政府に奉仕し、もはや「令和ファシズム」の「共犯者」に成り下がりました。国家権力を縛るものである憲法のことも、「厳しくも慈悲深い天皇の国」の政府は平気で蔑ろにし、もはや憲法は「絵に描いた餅」になりつつあります。

「このままだと、日本は戦前のファシズムに逆戻りしてしまう」と憂う人も少なくないでしょう。しかし、「このままだと、日本は戦前のファシズムに逆戻りしてしまう」という認識には、いささか誤りがあります。なぜなら、私たちはすでに「令和ファシズム」体制下に生きているからです。だからといって絶望するのは、それこそファシストたちの思う壺ですが、それでも「今の日本は成熟した民主主義の国である」という幻想は捨てるべきです。

「厳しくも慈悲深い天皇の国」であるこの国で、「国民」という名の臣民であることを拒否し、「自由な個人」として生きることは、ますます難しくなってきました。はたして私は、どこまで抗い続け、この「令和ファシズム体制」下を「自由な個人」として生き延びることができるでしょうか。この「令和ファシズム」の時代において、「自由への道」は、実に困難な道です。それでも私は、「厳しくも慈悲深い天皇の国」の「令和ファシズム」に抗い続け、「自由な個人」としてどうにか生き延びたいと思います。