葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「河野談話」と「村山談話」は過大評価されている。

日本国が自ら過去の植民地支配と侵略について反省と謝罪を公的に表明したものとして高い評価を得ているのが、いわゆる「河野談話*1と「村山談話*2です。しかし、私が思うに、(こんなことを言うとリベラル派の方に叱られるかもしれませんが、)「河野談話」と「村山談話」は過大評価されているきらいがあります。

もちろん、私は「河野談話」と「村山談話」をすべて否定するつもりはありません。たしかに、「河野談話」の日本軍性奴隷制について旧日本軍の​関与や強制的であったことを日本政府として公式に認め、謝罪した点や、「村山談話」の日帝アジア諸国で侵略や植民地支配を行ったことを認め、公式に謝罪した点は、高く評価されてしかるべきです。また、歴史修正主義が跳梁跋扈する昨今、「河野談話」の「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意」は、ますますその重要性を増しているといえます。

しかし、「河野談話」にも「村山談話」にも、根本的な欠点があります。それは、「河野談話」も「村山談話」も、日帝による朝鮮植民地支配の不法性を認めず、それゆえ日帝による朝鮮植民地支配下での人権侵害である日本軍性奴隷制について日本政府の法的責任を認めない点です。両談話が、日本政府の法的責任とその前提となる日帝による朝鮮植民地支配の不法性を認めないのは、日帝による朝鮮植民地支配が天皇の名のもとに行われたものであり、それゆえ天皇の責任が問題となるからでしょう。それは、村山富市氏が、談話を発表した記者会見で「今回の私の談話においても、国策の誤りをもって陛下の責任を云々するというようなことでは全くありません」と述べている*3ことから推察できます。

今の日本が過去の日本による朝鮮植民地支配を真摯に反省するということは、たとえ帝国主義列強が築き上げた当時の国際法秩序に照らして「合法」だったとしても、それを言い訳にせず、帝国主義列強が築き上げた当時の国際法秩序の不当性を問い、人民の自決権を承認する現代の国際法秩序に照らして日帝による朝鮮植民地支配の不法性を認めることです*4。しかるに、日帝による朝鮮植民地支配の不法性を認めない「村山談話」は、いくら「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」しているとしても、つまるところ、それは日本政府の法的責任、ひいては天皇の責任を回避するための「その場しのぎの反省とお詫び」でしかないと言わざるを得ないでしょう。そして、日本軍性奴隷制は、単に「国策を誤った戦争」下の性暴力にとどまるものではなく、日帝による不法な朝鮮植民地支配を前提とする戦時性暴力ですから、日本軍性奴隷制問題を真に解決するには、日帝による朝鮮植民地支配の不法性を認め、不法な植民地支配下での人権侵害である日本軍性奴隷制について日本政府の法的責任を認めることが必要不可欠です。もちろん、現実問題として日本軍性奴隷制被害者への早急な補償が必要であることは否定しません。しかし、だからといって「日本とたたかっているのは、お金が欲しくてたたかっているわけではない」*5という被害者の声を無視することが許されるわけではありません。つまり、日本政府が法的責任を認めて真摯に謝罪することを日本政府に求める被害者の方々がいらっしゃる*6以上、(賠償金ではない)「償い金」や「癒やし金」による解決では、日本軍性奴隷制問題を真に解決するには不十分なのです。

今後も日本政府が「河野談話」と「村山談話」を継承すべきであることは、言うまでもありません。しかし、ただ単に継承すればよいというわけではなく、批判的に継承することが必要です。そして、「河野談話」と「村山談話」の批判的継承とは、すなわち日本政府が、日帝による朝鮮植民地支配の不法性を認め、日本軍性奴隷制について法的責任を認めることです。