葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「生存権」という言葉にまつわる誤解

人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利を憲法25条の「生存権」だと思っている人は、どうやら少なくないようです。しかし、結論から言うと、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利は、憲法25条の「生存権」ではありません。

憲法25条の「生存権」、すなわち「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は、 資本主義経済の発達によって生みだされた富の偏在、貧困、失業などの問題*1の克服や自由権の形骸化を防ぎ、自由と社会的平等を保障することを国家に対して求める(いわゆる「国家による自由」)ための権利として登場した社会権*2であり、それは論理的に国家の存在を前提とするものです(ただし、それは決して社会権が「国民の権利」であることを意味しません。)。一方、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利は、国家以前に存在する(前国家的な)自然権*3です。そして、国家はこの自然権を保障するための組織です。つまり、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利は、論理的に国家の存在を前提とするものではなく、それゆえ論理的に国家の存在を前提とする社会権である憲法25条の「生存権」とは異なるものなのです。また、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利を国家が保障するのは、先述のとおりそれが国家の存在意義だからであって、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利が「国家による自由」である社会権だからではありません。

さて、先述のとおり国家は自然権を保障するための組織ですから、いかなる国家権力も自然権を侵害することは許されず、それゆえ人民は、国家に対する防御権を持っています。こうした人民の対国家的防御権を基本的人権である自由権として保障するのが憲法であり、すなわち、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利は、憲法上の権利としては自由権なのです。人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利を「生存権」だと思っている人の中には、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利が、例えば「表現の自由」のような自由権とは違う特別な権利だと思っている人もいるようです。しかし、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利も自由権ですから、それが自由権とは違う特別な権利だというのは大きな誤解です。もし彼らが言うように、人間が保持している生命や身体に関する不可譲の権利が自由権とは違う特別な権利であって、自由権に対して常に優越するのだとすると、「国家安全保障は究極の自然権保障である」として「国家安全保障」(それは、しばしば侵略戦争の口実に使われます。)を目的とした自由権の制限(例えば、徴兵制)も常に認められることになるでしょう。しかし、それは実に恐ろしいことです。

生存権」という言葉の意味は、たしかに憲法学上の意味が唯一絶対のものではないかもしれません。しかし、人権という憲法学的な問題について議論するのであれば、「生存権」という言葉は、やはり憲法学上の意味で用いることが正しい議論のためには必要です。