葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「国民」概念の問題性

左派や「リベラル」派も当たり前のように使う「国民」という言葉ですが、実のところ「国民」概念は、いくつかの看過できない問題も内包しています。

「国民」概念の問題性は、第一に、それが同化と排除の論理に貫かれているということです。人民を天皇制国家の「国民」として一つに束ね、そこに束ねられない人民を差別して疎外する同化と排除の論理は、天皇イデオロギーと密接に結びついた日本のファシズムあるいはレイシズムの中核をなす論理であり、そしてそれは日本社会の支配構造あるいは差別構造を支える論理です。しかるに、ファシズムレイシズムに反対する「アンチファ」あるいは「良心的なマジョリティ」の中にも「国民」概念を貫く同化と排除の論理に無頓着な人は決して少なくありません*1

第二に、「国民」概念は「国民」から除外される人民を人権保障や民主主義から疎外します。人権は人間の権利であって「国民」の権利ではありませんし、「治者と被治者の同一性」をいう民主主義において治者たる被治者は日本国籍者である「国民」だけではありません。しかるに、「国民」概念は人権や民主主義があたかも「国民」だけのものであるかにように歪曲し、「国民」から除外される人民を人権保障や民主主義から疎外するのです*2

第三に、「国民」概念は人民に階級矛盾を隠蔽し忘却させます。すなわち、ブルジョアプチブル、プロレタリアを「国民」という概念でひとくくりにすることで、人民に搾取階級と被搾取階級の間の矛盾を隠蔽し忘却させるのです。そうして階級矛盾を忘却した被搾取階級の「国民」は、「主人公」として自分たちを議会において代表し弾圧する者を抑圧する階級の中から数年に一度選ぶことで満足します。素晴らしき哉、「国民」主権!こうして人民が階級矛盾を忘却した「国民国家」では、搾取階級であるブルジョワジーが「社会保障の財源を高齢者も含め国民全体で負担できる仕組みが必要だ」といけしゃあしゃあとのたまい*3また、被搾取階級であるプロレタリアートの前衛党であるはずの政党までもが「愛国の党」を自称し、人民に階級矛盾を隠蔽し忘却させる「国民」という言葉を連呼する*4始末です。

ところで、左派あるいは「リベラル」派の中には、「国民」概念を批判することはファシズムあるいはレイシズム批判ではなくナショナリズム批判にすぎないと考える人もいるようです。しかし、前述のとおり、近代以降今日までの日本における「国民」概念は「排除と同化」の論理で貫かれており、そしてそれは天皇イデオロギーと密接に結びついた日本のファシズムあるいはレイシズムの中核をなす論理です。つまり、日本における「国民」概念を批判することは、天皇イデオロギーと密接に結びついた日本のファシズムあるいはレイシズムの中核をなす論理を批判することであり、それゆえ単にナショナリズム批判にとどまるものではなく、まさに日本のファシズムあるいはレイシズムを批判するものなのです。