葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

本当に問題なのは「外国人」に参政権を認めることではなく「外国人」に参政権を認めていないことだ。

市は昨年12月に改正案を公表しパブリックコメント(意見公募)を実施。寄せられた約1900件のうち7割近くが反対意見で「外国人に参政権を認めたことにならないか」「日本の安全保障上問題がある」といった声が相次いだ。市議会の議論なども踏まえて撤回を決めた。

 

「外国人も市民」熊本市が記述を撤回 条例改正案パブコメに反対意見7割「参政権認めたことにならないか」「安全保障上問題」(西日本新聞) - Yahoo!ニュース

「外国人」に参政権を認めることの何がそんなに問題なのでしょうか。日本社会が本当に民主主義を志向する社会であるならば、むしろ「外国人」に参政権を認めていないことのほうが問題です。

「外国人」に参政権を認めることを問題視する人は、民主主義の本質を理解していません。民主主義の本質は「治者と被治者の同一性」です。つまり、民主主義の下では、被治者であれば当然に治者なのです。そして、「外国人」であっても、「永住者」あるいは「定住者」であれば被治者なのですから(納税など日本国籍者と同様の公的義務を負う「永住者」あるいは「定住者」は、間違いなく被治者です。)、治者として政治に参加する権利を当然に有するのです。また、日本社会のマイノリティとして人権を侵害されることが「日本国籍者」よりもはるかに多い「外国人」の参政権を保障することは、個人の基本的人権を確保するという民主主義の究極的な目的に適うものです。

このように「外国人参政権」は、民主主義の本質から要請されるものです。日本社会は、この要請に応えてはじめて、完全な民主主義社会となることができます。おそらく「日本人」の多くが「日本は成熟した民主主義国家である」と思っていることでしょう。しかし、国政レベルはおろか、地方政治レベル(ちなみに、韓国では永住外国人地方参政権が認められています*1。)ですら「外国人参政権」が実現していない日本は「成熟した民主主義国家」とはとても言えないのです。

なお、「外国人」に参政権を認めることは国民主権に反しません。というのも、国民主権の本質的な意義は君主が主権を持たず人民が主権を持つ点にありますが、かかる意義からすれば国民主権における「国民」を日本国籍者に限るべき理由はないからです。

こうしてみると、本当に問題なのは「外国人」に参政権を認めることではなく「外国人」に参政権を認めていないことだということがわかります。日本社会が本当に民主主義を志向する社会であるならば、市民の定義に「外国籍を有する人」という文言を加える市の条例改正に対して反対意見が多く寄せられることはないはずですし、反対意見の「外国人に参政権を認めたことにならないか」「日本の安全保障上問題がある」といった声は「外国人」差別の発露でしかありません。

これについて大西市長は28日の記者会見で「条例の改正で、外国人との間に分断が生まれることがあってはならないと考えた」と述べました。

その上で「外国人への差別や偏見を生まないようにする行政の努力が非常に重要だということを再認識する機会となった。自治会や地域の場など交流の機会を増やし、相互理解を深める取り組みを進めたい」と述べました。

 

外国籍市民を断念した熊本市長 外国人との相互理解深める考え|NHK 熊本県のニュース

「(市民の定義に「外国籍を有する人」という文言を加える)条例の改正で、外国人との間に分断が生まれる」のではなく、日本社会の差別構造とそれが生み出すマジョリティの差別意識が、市民の一員である「外国人」を市民社会から排除しているのです。つまり、「外国人への差別や偏見を生まないようにする行政の努力」として本当に必要なのは、「相互理解を深める取り組み」ではなく、日本社会のマジョリティである「日本人」が人権や民主主義の本質を正しく理解し、「外国人」への差別や偏見を克服するための取り組みです。「自治会や地域の場など交流の機会を増や」すことが無意味だと言うつもりはありませんが、しかし、日本社会のマジョリティである「日本人」が人権や民主主義の本質を正しく理解しない限り、いくら自治会や地域の場など交流の機会を増やしたとしても、日本社会のマジョリティである「日本人」が「外国人」への差別や偏見を克服することは決してできないでしょう。