葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「日本国籍」あるいは「日本国民」を貫く「排除と同化」の論理

朝鮮や台湾を植民地支配した日帝政府によって一方的に「日本国籍」を付与された在日コリアンや在日台湾人は、日帝の敗戦後である1952年4月、新たにアメリカを盟主とするサンフランシスコ体制に組み込まれた「民主主義国家」日本の政府によって個々人の意思に関係なく一方的に「日本国籍」を剥奪されました*1

このことから、リベラル派の中には、在日コリアンや在日台湾人に再び「日本国籍」を付与すべきだと主張する人も見受けられます。

たしかに、戦後日本の政府が個々人の意思に関係なく一方的に在日コリアンや在日台湾人の「日本国籍」を剥奪したことは、排除という暴力です。しかし、近代以降今日までの「日本国籍」あるいは「日本国民」に天皇イデオロギーと密接に結びついたレイシズムが内在している点に鑑みれば、その点を無視ないし軽視して在日コリアンや在日台湾人に再び一方的に「日本国籍」を付与するのは、それもまた同化という暴力です。

こう言うと、おそらく「おまえは在日コリアンや在日台湾人が日本国籍を奪われたままでよいというのか」と揚げ足を取る人もいるでしょう。私は、決して「在日コリアンや在日台湾人が日本国籍を奪われたままでよい」と言いたいのではありません。

問題の本質は、在日コリアンや在日台湾人が、「日本国籍」を保持していないゆえに公民権を保障されていないということです。そして、もちろん「日本国籍」の回復という形で在日コリアンや在日台湾人の公民権を保障することも一つの方法です。しかし、「日本国籍」の回復という形で在日コリアンや在日台湾人の公民権を保障しようとするのであれば、レイシズムと密接に結びついた「日本国籍」あるいは「日本国民」の概念を問い直すことが必要不可欠なのです。私が言いたいのは、そういうことです。

近代以降今日までの「日本国籍」は、公民権ではなく「日本人の血」という不合理なものと結びついた概念です。たとえば、日本以外に朝鮮をもう一方のルーツに持つ私が「日本国籍者」として生まれたのは、父親が「日本人」だという、ただそれだけの実に馬鹿げた理由によるものです(なお、現行の国籍法(1984年改正法)は、父母の少なくともどちらか一方が日本国民であれば国籍を付与する父母両系血統主義を採用しています。)。「日本国籍」の回復という形で在日コリアンや在日台湾人の公民権を保障しようとするのであれば、この「日本人の血」という不合理なものと結びついた「日本国籍」の概念を公民権と結びついたものに変えるべきです。そして、そのためには、やはり天皇制を廃止することが必要です。もっとも、民主主義とは「治者と被治者が同一であること」をいいますので、「被治者」であれば国籍に関係なく「治者」として公民権が保障されるのが民主主義国家の本来あるべき姿です*2

「安倍―菅政権」のような極右政権を批判したりレイシストによる民族差別に反対したりする「良心的マジョリティ」の中にも、「日本国籍」あるいは「日本国民」を貫く「排除と同化」の論理に無頓着な人が残念ながら少なくありません。もちろん、「日本国籍」あるいは「日本国民」を貫く「排除と同化」の論理に無頓着であっても、「安倍―菅政権」のような極右政権を批判したりレイシストによる民族差別に反対したりすることはできるでしょう。しかし、「排除と同化」の論理は、天皇イデオロギーと密接に結びついた日本のレイシズムの中核をなす論理であり、そしてそれは日本社会の差別構造を支える論理です。それゆえ、構造的に「差別する側」であるマジョリティは、「排除と同化」の論理に無頓着でいるとマイノリティ当事者の尊厳を不用意に傷つけてしまいかねないのです。

もしかすると、「日本国籍」あるいは「日本国民」の概念を批判することは、レイシズム批判ではなくナショナリズム批判にすぎないと考える人もいるかもしれません。しかし、前述のとおり、近代以降今日までの「日本国籍」あるいは「日本国民」の概念は「排除と同化」の論理で貫かれており、そしてそれは天皇イデオロギーと密接に結びついた日本のレイシズムの中核をなす論理です。つまり、「日本国籍」あるいは「日本国民」の概念を批判することは、天皇イデオロギーと密接に結びついた日本のレイシズムの中核をなす論理を批判することであり、それゆえ単にナショナリズム批判にとどまるものではなく、まさに日本のレイシズムを批判するものなのです。