葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

安倍氏の「国葬」に断固として反対する。

安倍元首相「国葬」費用 総額16億6000万円程度の概算公表 政府 | NHK政治マガジン

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国葬」が法的根拠を欠くものであることや「国葬」にかかる費用が高額であることも、もちろん問題です。しかし、そういったことだけが問題なのでは決してありません。

自民党・二階氏の「(国葬が)終わったら、反対していた人たちも必ずよかったと思うはず。日本人ならね」というレイシズムに満ちた発言*1からもわかるように、「国葬」は、政権が安倍氏の死をファシズム体制のさらなる強化に利用するものです。つまり、「国葬」は、「国葬」に反対する人民を排除することを通じて「日本国民」を一つに束ねんとするものなのです。

こう言うと、「国葬」賛成派は「そういうことは反対派が警察に逮捕されてから言えよ」と冷笑するかもしれません。しかし、ファシズム体制のさらなる強化のために、暴力装置による直接的な弾圧は必ずしも必要ではありません。「『空気』が(で)支配する国・日本」では、マスメディアやソーシャルメディアを通じた「国葬」反対派に対するネガティブ・キャンペーン*2暴力装置を用いた威嚇*3によって「国家行事に反対することは『悪』である」という「空気」を作り出せば、必要にして十分なのです。

もちろん、安倍氏を追悼することは個人の自由です。しかし、個人の自由だからこそ、それは国家の主導でするべきことではありません。つまり、「国葬」の是非は、安倍氏を悼むかどうかの問題ではないのです。

なお、安倍氏が「国葬にふさわしい人物」かどうか*4は、問題ではありません。私が「国葬」を問題視するのは、それが権威者や権力者の死をファシズム体制の強化に利用するものだからです。そして、安倍氏の「国葬」だろうと国王の「国葬」だろうと、「国葬」が権威者や権力者の死をファシズム体制の強化に利用するものであることに変わりはありません。

私は、安倍氏の死をファシズム体制のさらなる強化に利用する「国葬」に断固として反対します。