葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

天皇制は「宗教」ではない。

天皇制廃止論者の中には、天皇制を「天皇教カルト」だと言う人がいます。私も天皇制廃止論者ですから、そう言いたい気持ちは分からなくもありません。しかし、もし天皇制が「宗教」ならば、たとえ「カルト」であろうとそれを廃止することは「天皇教信者」の信教の自由を侵害することになるでしょう。

天皇制は、神道を悪用し(神話上では)「神の子孫」という天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置であり、決して「宗教」ではありません。つまり、神話を信じるのは個人の自由ですが、しかし、支配装置である天皇制の問題は「天皇を崇拝するのもしないのも個人の自由だ」という話ではないのです。

もしかすると、「天皇制は『宗教』ではない」という私の言説を、「神社神道は宗教にあらず」と同じものだと批判する天皇制廃止論者もいるかもしれません。しかし、その批判は失当です。なぜなら、「神社神道は宗教にあらず」というのが、天皇制のために神道を悪用するべく神道に特権的地位を与えることを正当化する詭弁であるのに対して、「天皇制は『宗教』ではない」という私の言説は、神道を悪用し「神の子孫」という天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置という天皇制の本性を暴くものであり、決して「神社神道は宗教にあらず」と同じものではないからです。「神社神道は宗教にあらず」の復活を憂慮するのであれば、むしろ「宗教」に擬態した天皇制の支配装置という本性を暴き、「宗教」ではない天皇制を廃止して神道天皇制から解放しなければなりません。そうしなければ、「神社神道は宗教にあらず」はいつでも復活するでしょう。

さて、もし天皇制が「宗教」だとすると、天皇のために戦争で死ぬことを顕彰するための施設である「ヤスクニ」も、「天皇教」の「神社」として、その信教の自由を保障しなければならないことになるでしょう。しかし、先に述べたように「ヤスクニ」は、天皇のために戦争で死ぬことを顕彰するための施設であって、つまりそれは「神社」に擬態した戦争動員のためのイデオロギー装置であり、決して神道の神社ではありません。

人民を差別・抑圧して支配する天皇制は、日本国憲法の基底にある原理である民主主義に悖るものです。そして、天皇のために戦争で死ぬことを顕彰するための施設である「ヤスクニ」は、、日本国憲法の基本原理である平和主義に悖るものです。それゆえ、民主主義と平和主義を真に実現するためには、天皇制と「ヤスクニ」を廃止することが必要不可欠なのです。天皇制は「宗教」ではありませんし、「ヤスクニ」は「神社」ではありませんから、それらを廃止することは宗教的迫害でも何でもありません。だから、民主主義と平和主義の実現を希求する私たちは、ためらうことなく天皇制と「ヤスクニ」を私たちの手で廃止しましょう。