葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

朝鮮学校生徒へのヘイトクライムは、「北朝鮮によるミサイル発射の影響」によるものではなく、日本社会の在日コリアン差別や朝鮮悪魔視の影響によるものである。

朝鮮学校生徒への暴行など相次ぐ ヘイトクライム防止を法務省に要請:朝日新聞デジタル

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朝鮮学校生徒への卑劣なヘイトクライムについて、これを「北朝鮮によるミサイル発射の影響」によるものだと言うのは正しくありません。

ヘイトクライムは、社会の構造的な差別によって引き起こされる犯罪です。つまり、朝鮮学校生徒への卑劣なヘイトクライムは、日本社会の在日コリアンに対する構造的民族差別や国を挙げての「朝鮮悪魔視」によって引き起こされたものなのです。レイシストにとって「北朝鮮によるミサイル発射」は、朝鮮学校生徒へのヘイトクライムを犯す「都合のいい口実」にすぎません。朝鮮学校生徒への卑劣なヘイトクライムは、徹頭徹尾日本社会の問題です。

朝鮮学校生徒に暴行を加えたレイシストが発した「お前、朝鮮学校の生徒だろう。日本にミサイルを飛ばすような国が高校無償化とか言っているんじゃねえよ」という言葉からわかるように、日本政府の朝鮮学校に対する民族差別政策*1が、「朝鮮学校を日本社会から排斥してもかまわない」旨のメッセージとして機能することで、朝鮮学校生徒へのヘイトクライムを誘発しています。政府の民族差別政策が、朝鮮学校生徒へのヘイトクライムにいわば「お墨付き」を与えているのです。そして、政府がマスメディアを通じて煽る「朝鮮悪魔視」が、「『朝鮮』人になら何をしてもいい」という社会の「空気」を醸成し、そうした「空気」が朝鮮学校生徒へのヘイトクライムを助長するのです。

今般の朝鮮学校生徒への卑劣なヘイトクライムに関して、政府の長である岸田首相が在日コリアンに対するヘイトクライムヘイトスピーチを非難*2することはもちろん大事です。しかし、先述したように日本政府の朝鮮学校に対する民族差別政策や政府がマスメディアを通じて煽る「朝鮮悪魔視」が朝鮮学校生徒への卑劣なヘイトクライムを誘発・助長していることに鑑みれば、岸田首相はいわば「共犯者」なのですから、在日コリアンに対するヘイトクライムヘイトスピーチを非難したり被害者との面会を検討したりするだけでは全く不十分です。岸田首相が本当に「特定の民族や国籍の人々を排斥する不当な差別的言動、そのような動機で行われる暴力や犯罪は許されない」と思うのであれば、日本政府による朝鮮学校差別をはじめとする民族差別政策や、マスメディアを通じて「朝鮮悪魔視」を煽ることを、ただちにやめるべきです。そして、日本社会のマジョリティたる国民は、「朝鮮悪魔視」(「朝鮮悪魔視」は、決してネット右翼レイシストだけの問題ではありません*3。)を克服して、在日コリアンに対するヘイトクライムを引き起こす日本社会の民族差別構造をこわしていかなければなりません。

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「防衛力強化」に名を借りた日本のさらなる軍事力強化に断固反対する。

規模・財源、反撃能力が焦点 防衛力強化、18日から与党協議:時事ドットコム

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日帝・岸田政権は、「日本周辺の安全保障環境の悪化」を理由に「防衛力」を抜本的に強化する方針を打ち出しています。しかし、はたしてそれは本当に「防衛力」の強化なのでしょうか。

「戦後の日本には憲法9条があるのだから、日本が再び他国を侵略することは決してない」と信じている国民は多いことでしょう。

たしかに、戦後の日本には戦争の放棄と戦力の不保持をうたう憲法9条があります。しかし、戦後の日本は、憲法9条があるにもかかわらず、ベトナム戦争(1960~75年)やイラク戦争(2003~11年)といったアメリカの侵略戦争に加担してきました。そして、いまや世界第5位(2022年現在)の強大な軍事力を持つ*1軍事大国となった日本は、2015年に戦争法*2が制定されたことによって、「集団的自衛権」の名の下に*3世界最強の軍事力を誇る唯一の軍事超大国であるアメリカの侵略戦争に参加できるようになりました。つまり、今の日本は、憲法9条があるにもかかわらず「いつでも戦争ができる国」なのです。

こうして、「集団的自衛権」の名の下にアメリカの侵略戦争に参加できるようになった日本は、アメリカとともに対中国戦争に向けた準備を着々と進めています*4。これは、つまるところ米国主導の東アジア国際秩序、ひいては米国主導の世界経済体制を守るための戦争の準備です。国民の多くは、在日米軍と日本軍「自衛隊」が日本とその国民を守るためのものであると信じているようです。しかし、そもそも在日米軍も日本軍「自衛隊」も日本とその国民を守るためのものではなく、在日米軍は米国主導の東アジア国際秩序を守らんとする暴力装置であり、日本軍「自衛隊」は米国主導の東アジア国際秩序を守ることを通じて日本の「国体」(=天皇制国家であること)を護らんとする暴力装置なのです。

日帝・岸田政権が打ち出す「防衛力」の抜本的強化は、まさにかかる米国主導の東アジア国際秩序を守るための対中国戦争に向けたものです。日本が「集団的自衛権」の名の下に米国主導の東アジア国際秩序を守るための対中国戦争に参加することは、憲法9条の下において許容されている自衛権の範囲を超えるものであって、戦争の放棄をうたう憲法9条に違反し、到底許されるものではありません。つまり、日帝・岸田政権が打ち出す「防衛力」の抜本的強化は、実のところ憲法9条に違反する侵略戦争に向けた日本のさらなる軍事力強化であって、決して許されないものなのです。

私は、日帝・岸田政権による対中国戦争に向けた、「防衛力強化」に名を借りた日本のさらなる軍事力強化に、断固として反対します。

踏みつけられている人たちの闘いを嗤う「踏みつけている側」の者たち

ひろゆき氏「事実伝えると怒る人たちがいっぱい…」 沖縄タイムス記者らとネット番組出演 座り込み議論 平行線に | 沖縄タイムス+プラス

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踏みつけられている人たちの闘いを嗤う者たちがいます。彼らがそんなふうに踏みつけられている人たちの闘いを嗤えるのは、(彼らがそれを自覚しているかどうかはわかりませんが)「踏みつけている側」にいるからです。彼らは、自分たちが「中立公正な立場」にいると思っているのでしょうが、それは傲慢な勘違いです。

踏みつけられている人たちの闘いを嗤うことを、彼らは「議論」だと言うでしょう。しかし、彼らの「議論」は、彼らが「論破」という言葉を好んで使うことからわかるように、話し相手を正しく説得して承服させようとするものでは決してありません。彼らとの「議論」が平行線をたどるだけなのも無理はありません。なぜなら、彼らは話をもてあそぶことを楽しんでいるのですから。

彼等(註:反ユダヤ主義者たち)は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手の方で、彼等には、もてあそぶ権利があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実であることに、快感をさえ感じているのである。なぜなら、彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢を挫いたり、とまどいさせたりすることだからである。                    

踏みつけられている人たちの闘いを嗤う者たちや、彼らを擁護する者たちは、「『嗤っている』のではなく、踏みつけられている人たちの闘いをより良くするために『提言している』のだ」と言うかもしれません。そして、彼らの「提言」をありがたがらない「左派」や「リベラル派」を「不寛容だ」と批判するでしょう。もちろん、「提言」するのは自由ですし、(彼らが忌み嫌う)「左派」や「リベラル派」を「不寛容だ」と批判するのも自由です。しかし、彼らが本当に踏みつけられている人たちを思いやるのであれば、「踏みつけている側」にいる彼らは、踏みつけられている人たちに対して偉そうに「提言」したり、「左派」や「リベラル派」を「不寛容だ」と批判したりする前に、まずは権力に虐げられている人たちを踏みつけているその足をどかすべきです。

ロシアによるウクライナ4州「併合」を非難する日本人が忘れてはならない自国の「負の歴史」

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もちろん、ロシアによるウクライナ4州「併合」は断じて許されない暴挙ですし*1、日本人がそれを非難してはならないと言うつもりは毛頭ありません。しかし、ロシアの暴挙を非難する日本人が決して忘れてならないのは、今から112年前(1910年)に韓国(大韓帝国)に対して同様のことを行い、そして今もそれを正当化し続けているのが「天皇の国」日本だということです*2

いわゆる「韓国『併合』」について、日本では「両国の合意により日本は韓国を併合したので有効である」という言説が主流です。しかし、実のところ「両国の合意」は、ウクライナ4州のロシアへの併合を問う住民投票*3と同様、「見せかけ」にすぎません。

日本は、1875年の雲揚号事件(江華島事件*4を皮切りに、日本軍による朝鮮王宮占領(1894年)*5や日本の公使や軍人らによる朝鮮王妃殺害(1895年)*6日露戦争の開戦と同時に行った首都・漢城(ソウル)の軍事占領と「日韓議定書」*7の強要*8(1904年)など、強大な軍事力を背景に朝鮮(大韓帝国)に対する支配を強めていきました。こうして、日本は強大な軍事力を背景に朝鮮(大韓帝国)に対する支配を強めたのち、「韓国『併合』」に先立つ1905年には、「日韓保護条約(第2次日韓協約)」*9を強要して*10韓国の外交権を奪い、日本の事実上の属国としました。さらに、1907年には「第3次日韓協約」*11を強要し、内政権の剥奪と軍隊の解散を強行しました。つまり、「韓国『併合』」が行われた当時、韓国はすでに日本の事実上の属国として日本の支配下におかれていたのであり*12、それゆえ「韓国『併合』」は、真の「両国の合意によ」るものとは到底言えないのです。

こうしてみると、かつての日本による「韓国『併合』」は、日本の政府や国民の多くが非難する今般のロシアによるウクライナ4州「併合」と同様の許されざる暴挙であることがわかります。それゆえ、今般のロシアによるウクライナ4州「併合」を非難するのであれば、かつての日本による「韓国『併合』」を正当化することはできないはずです。しかるに、今般のロシアによるウクライナ4州「併合」を非難する一方で、かつての日本による「韓国『併合』」を正当化することは、自己矛盾の謗りを免れません。

 

参考図書

www.iwanami.co.jp

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*1:主張/ロシアの併合宣言/力ずくの暴挙 絶対容認できぬ

*2:いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(1)/脅迫と強圧で実現した「韓国併合」

*3:ロシア併合問う住民投票は「見せかけ、明らかな国際法違反」…G7首脳が非難声明 : 読売新聞オンライン

*4:江華島事件

*5:“そこで、日本は七月一七日、単独で内政改革を朝鮮政府に通告し、二〇日には最後通牒として清国との宗属関係の破棄と清軍の撤兵を朝鮮政府に求めた。そして、回答期限が過ぎた七月二三日早朝、日本は突如として、強大な軍事力をもって王宮占領を敢行し、一瞬のうちに閔氏政権を打倒した。”(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 107頁)

*6:閔妃暗殺事件

*7:日韓議定書とは - コトバンク

*8:2014 とくほう・特報/日本の侵略戦争/■第3回■ 「韓国併合」と植民地支配 (上)/独立奪った日本軍の大弾圧

*9:日韓協約

*10:“伊藤は無理強いしたが、高宗は「政府臣僚」や「一般人民」にも諮る必要があるとして拒絶した。伊藤は、「君主専制国」の韓国では皇帝の意志だけで決められるはずだし、いたずらに決定を延期する場合は韓国にとって不利益になると脅迫した。[……]そして一六日、伊藤は各大臣に条約締結を迫ったが、八人の大臣はみなこれを拒否した。[……]大臣たちは互いに拒絶の意志を確認し合ったが、日本の脅迫は軍事力を後ろ盾とするものであった。[……]王宮内外は駐箚軍がいく重にも取り囲み、伊藤は駐韓公使の林権助と駐箚軍司令官長谷川好道率いる五〇名ほどの憲兵を従えて入宮した。[……]外部大臣の邸璽(職印)は、日本人外交官が憲兵隊を引き連れて外部大臣官邸から奪ってきた。”(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 189頁―191頁)

*11:日韓協約

*12:“すでに乙巳保護条約と第三次日韓協約の締結によって、朝鮮は日本に合体したも同然であった。また、義兵活動も息の根をほとんど止められていた。民衆は暴力に翻弄され、生活はあまりの困苦に打ちひしがれていた。”(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 252頁)

われわれ人民の人権が守られているのは「国家や為政者のおかげ」ではない。

日本国憲法
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

私たちの人権が守られているのは国家や為政者のおかげである、そう思っている人は少なからずいるようです。しかし、われわれ人民の人権が守られているのが「国家や為政者のおかげ」だというのは大きな誤解です。

人権は、国家や為政者から恩恵として与えられるものでは決してなく、人間がただ人間であるということに基づいて当然に有する権利です(人権の固有性)。すなわち、人権は、国家や為政者の存在とは関係なく、人間であることにより当然に有するものです。したがって、「国家があってこそ人権がある」というのは間違いです。

歴史的にみて、人権にとっての最大の脅威は国家権力です。そこで、憲法によって国家権力を縛ることで国家権力から人権を守らんとするのが、近代立憲主義です。つまり、われわれ人民の人権が守られているのは、国家や為政者のおかげではなく、憲法による人権保障のおかげなのです。

もしわれわれ人民の人権が守られているのが「国家や為政者のおかげ」だとすれば、われわれ人民の人権が守られるかどうかは国家や為政者次第ということになってしまいます。しかし、国家や為政者が人権をないがしろにするような悪しきものであればこそ、なおのことわれわれ人民の人権は、そのような悪しき国家や為政者による人権侵害から守られなければなりません。人権保障は、「『国民』の多数が人権を守らないような悪しき為政者を選んだのだから、人権が守られなくてもしかたがない」で済む話ではないのです。

われわれ人民の人権が守られているのは「国家や為政者のおかげ」ではありませんから、われわれ人民は、われわれ人民の人権が守られていることについて為政者に感謝する必要は全くありません。これからもわれわれ人民が守られるためにわれわれ人民が主権者としてすべきことは、為政者に憲法を遵守させること、「壊憲」*1をもくろむ為政者から憲法を護ること、そして、憲法を遵守しない為政者を政権から引きずりおろすことです。

ヘイトクライムの「共犯者」たち

民団徳島事務所に脅迫文か 事件の可能性、県警捜査 - 産経ニュース

 

このようなヘイトクライムを断じて許してはならないことは言うまでもありません。しかし、それだけでは決してヘイトクライムをなくすことはできません。

在日コリアン集住地区への放火というヘイトクライムが曲がりなりにも司法によって断罪された*1後もヘイトクライムが繰り返されるのは、日本社会にヘイトクライムを生み出す構造的問題があるからです。

反日政策ヲ続ケル様デアレバ」という脅迫状の文言*2からは、日帝植民地支配下の人権問題や靖国参拝問題における日本政府の植民地主義的な態度に対する韓国政府の抗議(日本人の多くは、それを「反日」だと言います。)がヘイトクライムの動機付けに大きな影響を与えていることが窺い知れます。日帝植民地支配下の人権問題や靖国参拝問題も日本人が向き合うべき自国の「負の歴史」についての問題ですから、日帝植民地支配下の人権問題や靖国参拝問題における日本政府の植民地主義的な態度に対する韓国政府の抗議を理由に日本人が韓国に対して憎悪をたぎらせるのは本来筋違いです。しかるに、産経新聞をはじめとする権力の下僕と化したマスメディアが常日頃から韓国に対する憎悪や蔑視を煽り立てる日本社会では、日帝の侵略と植民地支配の正当化に腐心する権力に同調して韓国を敵視することが「国民」として「常識的な態度」であり、それゆえに「ごく普通の善良な国民」が当たり前のように韓国に対して「反日許すまじ」と憎悪をたぎらせるのです。つまり、日本社会におけるヘイトクライムは、ヘイトクライムを犯すような「レイシスト」だけの問題では決してありません。ウトロ地区放火事件も今般の事件も、日本社会に突然降って湧いたような問題ではなく、常日頃から韓国に対する憎悪や蔑視を煽り立てるマスメディアに煽られた「ごく普通の善良な国民」の韓国に対する憎悪が生み出した「結果」なのです。

韓国に対する憎悪や蔑視を煽り立てるマスメディアやそれに煽られて当たり前のように韓国に対して「反日許すまじ」と憎悪をたぎらせる「ごく普通の善良な国民」は、刑法上の共犯者ではもちろんありません。しかし、彼らが温存する社会構造がヘイトクライムを生み出し、煽り煽られる彼らが作り出す社会の「空気」がヘイトクライムを助長することを考えると、韓国に対する憎悪や蔑視を煽り立てるマスメディアやそれに煽られて当たり前のように韓国に対して「反日許すまじ」と憎悪をたぎらせる「ごく普通の善良な国民」は、やはりれっきとしたヘイトクライムの「共犯者」です。

安倍氏の「国葬」に断固として反対する。

安倍元首相「国葬」費用 総額16億6000万円程度の概算公表 政府 | NHK政治マガジン

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国葬」が法的根拠を欠くものであることや「国葬」にかかる費用が高額であることも、もちろん問題です。しかし、そういったことだけが問題なのでは決してありません。

自民党・二階氏の「(国葬が)終わったら、反対していた人たちも必ずよかったと思うはず。日本人ならね」というレイシズムに満ちた発言*1からもわかるように、「国葬」は、政権が安倍氏の死をファシズム体制のさらなる強化に利用するものです。つまり、「国葬」は、「国葬」に反対する人民を排除することを通じて「日本国民」を一つに束ねんとするものなのです。

こう言うと、「国葬」賛成派は「そういうことは反対派が警察に逮捕されてから言えよ」と冷笑するかもしれません。しかし、ファシズム体制のさらなる強化のために、暴力装置による直接的な弾圧は必ずしも必要ではありません。「『空気』が(で)支配する国・日本」では、マスメディアやソーシャルメディアを通じた「国葬」反対派に対するネガティブ・キャンペーン*2暴力装置を用いた威嚇*3によって「国家行事に反対することは『悪』である」という「空気」を作り出せば、必要にして十分なのです。

もちろん、安倍氏を追悼することは個人の自由です。しかし、個人の自由だからこそ、それは国家の主導でするべきことではありません。つまり、「国葬」の是非は、安倍氏を悼むかどうかの問題ではないのです。

なお、安倍氏が「国葬にふさわしい人物」かどうか*4は、問題ではありません。私が「国葬」を問題視するのは、それが権威者や権力者の死をファシズム体制の強化に利用するものだからです。そして、安倍氏の「国葬」だろうと国王の「国葬」だろうと、「国葬」が権威者や権力者の死をファシズム体制の強化に利用するものであることに変わりはありません。

私は、安倍氏の死をファシズム体制のさらなる強化に利用する「国葬」に断固として反対します。