葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

踏みつけられている人たちの闘いを嗤う「踏みつけている側」の者たち

ひろゆき氏「事実伝えると怒る人たちがいっぱい…」 沖縄タイムス記者らとネット番組出演 座り込み議論 平行線に | 沖縄タイムス+プラス

www.okinawatimes.co.jp

踏みつけられている人たちの闘いを嗤う者たちがいます。彼らがそんなふうに踏みつけられている人たちの闘いを嗤えるのは、(彼らがそれを自覚しているかどうかはわかりませんが)「踏みつけている側」にいるからです。彼らは、自分たちが「中立公正な立場」にいると思っているのでしょうが、それは傲慢な勘違いです。

踏みつけられている人たちの闘いを嗤うことを、彼らは「議論」だと言うでしょう。しかし、彼らの「議論」は、彼らが「論破」という言葉を好んで使うことからわかるように、話し相手を正しく説得して承服させようとするものでは決してありません。彼らとの「議論」が平行線をたどるだけなのも無理はありません。なぜなら、彼らは話をもてあそぶことを楽しんでいるのですから。

彼等(註:反ユダヤ主義者たち)は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手の方で、彼等には、もてあそぶ権利があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実であることに、快感をさえ感じているのである。なぜなら、彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢を挫いたり、とまどいさせたりすることだからである。                    

踏みつけられている人たちの闘いを嗤う者たちや、彼らを擁護する者たちは、「『嗤っている』のではなく、踏みつけられている人たちの闘いをより良くするために『提言している』のだ」と言うかもしれません。そして、彼らの「提言」をありがたがらない「左派」や「リベラル派」を「不寛容だ」と批判するでしょう。もちろん、「提言」するのは自由ですし、(彼らが忌み嫌う)「左派」や「リベラル派」を「不寛容だ」と批判するのも自由です。しかし、彼らが本当に踏みつけられている人たちを思いやるのであれば、「踏みつけている側」にいる彼らは、踏みつけられている人たちに対して偉そうに「提言」したり、「左派」や「リベラル派」を「不寛容だ」と批判したりする前に、まずは権力に虐げられている人たちを踏みつけているその足をどかすべきです。