葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

ロシアによるウクライナ4州「併合」を非難する日本人が忘れてはならない自国の「負の歴史」

www.mofa.go.jp

もちろん、ロシアによるウクライナ4州「併合」は断じて許されない暴挙ですし*1、日本人がそれを非難してはならないと言うつもりは毛頭ありません。しかし、ロシアの暴挙を非難する日本人が決して忘れてならないのは、今から112年前(1910年)に韓国(大韓帝国)に対して同様のことを行い、そして今もそれを正当化し続けているのが「天皇の国」日本だということです*2

いわゆる「韓国『併合』」について、日本では「両国の合意により日本は韓国を併合したので有効である」という言説が主流です。しかし、実のところ「両国の合意」は、ウクライナ4州のロシアへの併合を問う住民投票*3と同様、「見せかけ」にすぎません。

日本は、1875年の雲揚号事件(江華島事件*4を皮切りに、日本軍による朝鮮王宮占領(1894年)*5や日本の公使や軍人らによる朝鮮王妃殺害(1895年)*6日露戦争の開戦と同時に行った首都・漢城(ソウル)の軍事占領と「日韓議定書」*7の強要*8(1904年)など、強大な軍事力を背景に朝鮮(大韓帝国)に対する支配を強めていきました。こうして、日本は強大な軍事力を背景に朝鮮(大韓帝国)に対する支配を強めたのち、「韓国『併合』」に先立つ1905年には、「日韓保護条約(第2次日韓協約)」*9を強要して*10韓国の外交権を奪い、日本の事実上の属国としました。さらに、1907年には「第3次日韓協約」*11を強要し、内政権の剥奪と軍隊の解散を強行しました。つまり、「韓国『併合』」が行われた当時、韓国はすでに日本の事実上の属国として日本の支配下におかれていたのであり*12、それゆえ「韓国『併合』」は、真の「両国の合意によ」るものとは到底言えないのです。

こうしてみると、かつての日本による「韓国『併合』」は、日本の政府や国民の多くが非難する今般のロシアによるウクライナ4州「併合」と同様の許されざる暴挙であることがわかります。それゆえ、今般のロシアによるウクライナ4州「併合」を非難するのであれば、かつての日本による「韓国『併合』」を正当化することはできないはずです。しかるに、今般のロシアによるウクライナ4州「併合」を非難する一方で、かつての日本による「韓国『併合』」を正当化することは、自己矛盾の謗りを免れません。

 

参考図書

www.iwanami.co.jp

www.iwanami.co.jp

*1:主張/ロシアの併合宣言/力ずくの暴挙 絶対容認できぬ

*2:いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(1)/脅迫と強圧で実現した「韓国併合」

*3:ロシア併合問う住民投票は「見せかけ、明らかな国際法違反」…G7首脳が非難声明 : 読売新聞オンライン

*4:江華島事件

*5:“そこで、日本は七月一七日、単独で内政改革を朝鮮政府に通告し、二〇日には最後通牒として清国との宗属関係の破棄と清軍の撤兵を朝鮮政府に求めた。そして、回答期限が過ぎた七月二三日早朝、日本は突如として、強大な軍事力をもって王宮占領を敢行し、一瞬のうちに閔氏政権を打倒した。”(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 107頁)

*6:閔妃暗殺事件

*7:日韓議定書とは - コトバンク

*8:2014 とくほう・特報/日本の侵略戦争/■第3回■ 「韓国併合」と植民地支配 (上)/独立奪った日本軍の大弾圧

*9:日韓協約

*10:“伊藤は無理強いしたが、高宗は「政府臣僚」や「一般人民」にも諮る必要があるとして拒絶した。伊藤は、「君主専制国」の韓国では皇帝の意志だけで決められるはずだし、いたずらに決定を延期する場合は韓国にとって不利益になると脅迫した。[……]そして一六日、伊藤は各大臣に条約締結を迫ったが、八人の大臣はみなこれを拒否した。[……]大臣たちは互いに拒絶の意志を確認し合ったが、日本の脅迫は軍事力を後ろ盾とするものであった。[……]王宮内外は駐箚軍がいく重にも取り囲み、伊藤は駐韓公使の林権助と駐箚軍司令官長谷川好道率いる五〇名ほどの憲兵を従えて入宮した。[……]外部大臣の邸璽(職印)は、日本人外交官が憲兵隊を引き連れて外部大臣官邸から奪ってきた。”(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 189頁―191頁)

*11:日韓協約

*12:“すでに乙巳保護条約と第三次日韓協約の締結によって、朝鮮は日本に合体したも同然であった。また、義兵活動も息の根をほとんど止められていた。民衆は暴力に翻弄され、生活はあまりの困苦に打ちひしがれていた。”(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 252頁)