葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

外国籍市民にも住民投票への参加を認めることは、民主主義の本質から要請されるものである。

外国人含む住民投票案「目的の議論が不十分」 東京・武蔵野市が総括:朝日新聞デジタル

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東京都武蔵野市で13日、住民投票制度の創設に向けて議論を続けてきた有識者懇談会が最終回を迎えた。市事務局はこれまでの意見を踏まえ、2021年に市が提出した条例案について「制度の目的や性格に関する議論が不十分だった」と振り返った。

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市事務局は13日、委員からの意見を踏まえ、21年の条例案について、「(2度のパブリックコメントなど)通常の条例制定よりも丁寧に手続きが進められた」としつつ、「制度の目的や性格についての議論に十分な時間をかけなかった」と指摘。目的や性格が抽象的なまま、投票資格者などの個別の論点が議論された結果、「投票資格者に外国人住民を含めるか否か、という二項対立的な問題に転化した側面があった。冷静に熟慮・熟議を重ねる議論とはほど遠かった」と総括した。

 

外国人含む住民投票案「目的の議論が不十分」 東京・武蔵野市が総括:朝日新聞デジタル

外国籍市民にも住民投票への参加を認める武蔵野市条例案が否決されたのは、はたして「制度の目的や性格に関する議論が不十分」で「投票資格者に外国人住民を含めるか否か、という二項対立的な問題に転化した側面があった」からでしょうか。

思うに、日本社会のマジョリティである日本人の多くが外国籍市民に対して差別意識を持たず、民主主義の本質を十分に理解していれば、投票資格者に外国籍市民を含めるという点は問題にはならないはずです。つまり、外国籍市民にも住民投票への参加を認める武蔵野市条例案が否決されたのは、武蔵野市の住民に限らず日本社会のマジョリティである日本人の多くが外国籍市民に対して差別意識を持ち*1、民主主義の本質を十分に理解していないからなのです。市事務局は「冷静に熟慮・熟議を重ねる議論とはほど遠かった」と言いますが、日本社会のマジョリティである日本人が排外主義を克服し、民主主義の本質を正しく理解しない限り、いつまでも「冷静に熟慮・熟議を重ねる議論」をすることはできないでしょう。

民主主義の本質は「治者と被治者の同一性」すなわち治める者と治められる者が同一であることです。つまり、民主主義の下では、被治者であれば当然に治者なのです。そして、外国籍であっても、「永住者」あるいは「定住者」であれば被治者なのですから(納税など日本国籍者と同様の公的義務を負う「永住者」あるいは「定住者」は、間違いなく被治者です。)、当然に住民投票への参加が認められるべきなのです。また、民主主義の目的が究極的には個人の基本的人権を確保することであることに鑑みれば、日本社会のマイノリティとして人権を侵害されることが日本国籍者よりもはるかに多い外国籍市民に住民投票への参加を認めることは、民主主義の目的に適うものであるといえます。

このように、外国籍市民にも住民投票への参加を認めることは、民主主義の本質から要請されるものです。そして、民主主義の本質からの要請にさらに応えるとすれば、外国籍市民の地方参政権を認めるべきです。日本人の多くは、日本を「成熟した民主主義国家」だと思っていることでしょう。しかし、国政レベルはおろか、地方政治レベル(ちなみに、韓国では永住外国人地方参政権が認められています*2。)ですら外国籍市民の参政権が認められていない日本は、残念ながら「成熟した民主主義国家」だとはとても言えないのです。