葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「多数決」は民主主義の本質ではなく、「代議制」が民主主義のすべてではない。

日本国民の間には、民主主義にまつわる二つの根強い誤解があります。一つは「民主主義の基本は多数決である」という誤解であり、もう一つは「代議制が民主主義のすべてである」という誤解です。

民主主義とは、読んで字のごとく「民」が「主」だということであり、その本質は「治者と被治者の自同性」、すなわち「治める者と治められる者が同一である」ということです。かかる民主主義の本質に従えば、人民の一人ひとりが平等な主権者ですから、政治参加の方法として直接民主制を採用し、そこでの意思決定は全会一致の方式によるものとするのが、民主主義システムの本来あるべき形だといえます。しかし、実際に多数の有権者が一堂に会する場もなく、また平等な発言を認めたうえで全会一致の方式による政治的意思決定を行うことは時間的にも困難であるので、いわば「次善の策」として代議制を採用し、そこでの意思決定は多数決の方式によるものとするのです。もっとも、この見解に対しては、代議制に固有の意義や価値があると考える立場から「それは代表者の責任を軽視するもの」だという批判もあるでしょう。たしかに、直接民主制を極端に重視すれば、代表者は人民の「使者」に過ぎないといえるかもしれません。しかし、人民の主権を重視すること自体は、必ずしも直接民主制を極端に重視することであるとは限らず、人民の主権を重視することと代表者に固有の意義を認めてその責任を重視することは、決して矛盾しないはずです。それゆえ、代議制を「次善の策」であるとする見解を「代表者の責任を軽視するもの」だと批判することは、必ずしも妥当ではないと私は思います。

このように、「多数決」は決して民主主義の本質ではなく、また「代議制」が民主主義のすべてではありませんから、それらは「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に反するものであってはなりません。代議制民主主義における多数決による合意形成が、少数意見を尊重し十分に議論を尽くした上でなされたものでなければならない理由は、まさにここにあります。つまり、「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に従えば、人民の一人ひとりが主権者として平等ですから、少数意見を尊重し十分に議論を尽くさなければならないのです。たとえ議会で得られた多数決の結果であっても、少数意見が尊重され十分に議論が尽くされたのでなければ、それは正当性を持ち得ません。また、実際の代議制システムが「治者」と「被治者」の乖離を生じさせるものであるとすれば、それはもはや「代議制民主主義」とはいえません。つまり、選挙制度と議会制度が存在しさえすれば民主主義であるというのは、大きな誤解です。本当に大切なのは、「器」よりも「中身」です*1選挙制度と議会制度は、あくまでも「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質を実現する手段なのです。

ある哲学の先生が「よく学生から、『ほんとは直接民主主義がいいけど、それはできないから次善の策として間接民主制を採っている』みたいなことを言われるんですけど、いったい誰がそんなことを言ったのだろうか」と語っている*2(なお、「直接民主制が本来行われるべきであるが、実際にそれを行うことは技術的・物理的に困難であるため、次善の策として代議制を採用する」というのは、いわゆる「プープル主権」論です。)ことから、もしかすると私の理解を「オマエの理解は間違っている」と言う人もいるかもしれません。もちろん、私の理解を間違っていると思うのはその人の自由ですし、私は自分の理解を完全無欠のものだと言うつもりはありません。しかし、学者の言うことは絶対に正しいと信じこみ、代議制を「次善の策」であるとする見解を間違いだと決めつけて、代議制を民主主義の本質から要請されるものだと考えるのは、ややもすると人民が「治者」であることを隠蔽し、忘却させるきらいがあります。さらに言えば、もはや代議制は、「治者と被治者の乖離」を隠蔽し、本来は人民が「治者」であることを忘れさせることで、人民の政治に対する関心を遠ざけるための欺瞞の手段と化してしまっている(つまり、人民の「政治的無関心」は、単なる「主権者意識」の問題ではなく、代議制という民主主義システムに内在する構造的欠陥の問題だということです。)のではないでしょうか。そうだとすれば、議会制民主主義を絶対視することは、それこそ人民の政治に対する関心を遠ざけて専横を極めたい権力者の思う壺でしょう。

ただ、「直接民主主義VS.間接民主主義の二項対立発想ではダメ」だというのは、たしかにそのとおりです。私も、決して「代議制に固有の意義や価値があると考えるのは間違いだ」と言いたいわけではありません。私が言いたいのは、「代議制と多数決が民主主義のすべてである」と誤解して「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質を忘れ、デモや抵抗運動といった直接民主主義の実践を軽視あるいは侮蔑したり「数の暴力」を正当化したりすることが問題だということです。

民主主義について議論するにあたっては、常に「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に立ち返ることを忘れてはなりません*3