葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

天皇制を廃止すべき理由

天皇制を廃止すべきなのは、まず何よりも天皇制が神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置であり、それは人民を差別人民の人権を抑圧するものだからです。

天皇制を廃止すべきだと言えば、天皇制を支持する国民から「国民の大多数が天皇制を支持している*1のだから、天皇制は維持されるだ」と反発を受けるでしょう。たしかに、天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」(日本国憲法第1条)ことに鑑みれば、「国民の大多数が天皇制を支持しているのだから、天皇制は維持されるべきである」というのは一見正論のように見えます。しかし、人民を差別・抑圧して支配する天皇制の問題は、人民に対する差別・抑圧という人権問題です。そして、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等」(世界人権宣言第1条)ですから、「国民の多数意思」は少数派の人民に対する人権侵害を正当化しません。さらに、天皇制によって差別・抑圧されているのは「日本国民」だけではありません。むしろ最も差別・抑圧されているのは日本の民主主義制度から疎外されている「日本国民」ではない人民です。それゆえ、「国民の大多数が天皇制を支持している」ことは、人民の人権を侵害する天皇制を正当化する理由にはならないはずです。つまり、「国民」の大多数が天皇制を支持していようが、人民の人権を侵害する天皇制は廃止されるべきなのです。それに、そもそも国民の大多数が天皇制を支持するような状況を作り出しているのは、ほかならぬ天皇制による人民支配です。すなわち、国民の大多数が天皇制を支持するような状況は、神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制と、それを支える暴力装置の人民抑圧によって作り出されるものなのです。「リベラル」派の間では、天皇制の存廃を「日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題」だとする意見*2も根強いようですが、日本の真の民主化を妨げているのが他ならぬ天皇制であることを考えると、天皇制が安泰である限り、時が来れば自然に「日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟」するということは決して起こりえません。また、先にも述べたように、天皇制によって差別・抑圧されるのは、決して「日本の国の主人公である国民」だけではなく、むしろ、天皇制によって最も差別・抑圧されているのは、「日本の国」の民主主義制度から疎外されている「日本の国の主人公である国民」ではない人民なのです。

天皇制を廃止すべき理由については、天皇制廃止論者の中にも、天皇制について「天皇や皇族の人権を侵害するものだから、天皇制は廃止されるべきである」と考える人が少なからず見受けられます。たしかに、個人としての天皇や皇族の人権は、天皇制によって制約されています*3。しかし、それは人民を差別・抑圧して支配する天皇制を維持するためです。つまり、天皇制の目的は人民を差別・抑圧して支配することであり、個人としての天皇や皇族の人権に対する制約は、(天皇制国家にとって)天皇制の目的を実現するための「必要悪」なのです。それゆえ、天皇制廃止の議論においては、何よりも「天皇制に差別・抑圧される人民の人権」を考えるべきです。天皇制廃止の目的は何よりも「人民を天皇制の支配から解放すること」であり、これによって天皇や皇族が天皇制から解放されたとしても、それは人民が天皇制の支配から解放されたことの反射的効果にすぎません。

 

天皇制は、このように人民を差別し人民の人権を抑圧するものですが、それのみならず、民主主義と本質的に相容れないものです。

「戦後の日本は民主主義国家であるから、戦後の天皇制も民主的な制度である」と思っている国民も多いことでしょう。たしかに、戦前とは異なり日本国憲法は、天皇の地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」ものとしています。しかし、そもそも「主権の存する日本国民の総意」とはいったい何でしょうか。私は「日本国民」とされる人民の一人ですが、決して天皇制を許容しません。それなのに、天皇制が「日本国民の総意」だというのは、まさに天皇ファシズムの横暴です。

民主主義のは「治者と被治者の自同性」すなわち人民が治められる者であると同時に治める者であることを本質とするものであり、それは平等原理のうえに成り立つものです。これに対して、神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制は、人間の間に差別や身分的秩序をつくりだす身分差別制度です。つまり、平等原理のうえに成り立つ民主主義と身分差別制度である天皇制は本質的に矛盾するものであり、この矛盾は、妥協不可能な敵対的矛盾なのです。

そもそも、いわゆる「象徴天皇制」は、天皇制を延命させたい昭和天皇裕仁や日本の権力者層と天皇制を日本の間接統治に利用したいGHQ連合国軍総司令部)の思惑が一致した産物です*4。そして、その取引において、アジア太平洋戦争で「皇国」を守るための「捨て石」とされた沖縄は、自己保身に腐心する昭和天皇裕仁によってアメリカに売り渡されました*5。つまり、「戦後の日本は民主主義国家であるから、戦後の天皇制も民主的な制度である」というのは、そういったことを忘れさせるための詭弁なのです。また、リベラル派の中には「天皇や皇族の人権を奪っているのはわれわれ主権者だ」と言う人がしばしば見受けられます。しかし、そのような言説は、「民主的な天皇制」という欺瞞を通して天皇制国家の被抑圧者たる人民に罪悪感を植え付け、天皇制国家の被抑圧者であることを忘れさせるための「方便」に過ぎません。つまり、「天皇や皇族の人権を奪っているのはわれわれ主権者だ」と言うリベラル派は、意図せずして天皇ファシズムに絡めとられ、天皇制による人民抑圧に加担してしまっているのです。

 

さて、天皇制を支持する多くの国民にとって「笑顔あふれる天皇ご一家」*6の様子は、さぞかし微笑ましいものであるに違いありません。しかし、「天皇ご一家」の「あふれる笑顔」の裏には、なんともグロテスクな真実が隠されています。「天皇ご一家」の「あふれる笑顔」の裏に隠されたグロテスクな真実、それはすなわち「笑顔あふれる天皇ご一家」は、暴力装置の人民に対する人権侵害によって支えられている、という真実です。

たしかに、天皇制は戦後、戦前の絶対主義的天皇制から象徴天皇制へと変わりました。しかし、それでも神話という虚構に由来する天皇の権威によって人民を抑圧し支配する装置であるという天皇制の本質に何ら変わりはありません。それゆえ、天皇制を維持するためには相変わらず暴力装置の人民に対する人権侵害が不可欠なのです。つまり、天皇制を維持するための暴力装置による人民への人権侵害は、決して過去の話ではないのです*7

 

以上のことからわかるように、天皇制を容認するということは、人民への差別と人権抑圧を容認するということであり、「治者と被治者の自同性」を本質とする民主主義を否定するということです。つまり、天皇制を許容するか否かという問題は、人民の人権や民主主義という普遍的な問題であって、決して天皇のことが好きか嫌いかの問題ではないのです。それゆえ、人民の人権や民主主義という普遍的な価値を共有するのであれば、たとえ国民の大多数が、天皇に親しみや好感を抱き、天皇制を支持しているとしても、人民を差別・抑圧し民主主義と敵対的に矛盾する天皇制は廃止すべきなのです。