葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

私が日本共産党に望むこと

これまで私は、左翼として日本共産党を批判しながらも支持してきました。そんな私が日本共産党に望むことは、天皇制や日本軍「自衛隊」に対する態度における右翼日和見主義を克服し、「愛国の党」*1からプロレタリアート人民の前衛政党という原点へ回帰することです。

 

まず、天皇制について日本共産党は、天皇制が「憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」ことを理由に、「『将来、情勢が熟したとき』まで天皇の制度と共存する」ことを主張しています*2

天皇制というのは、憲法で決められた制度であります。日本共産党の考えだけで、変えられるものではありません。日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題であります。それまでは、私たちの好き嫌いいかんにかかわらず、憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だと私たちは考えています。

 
日本共産党創立81周年記念講演)

天皇制が日本共産党の考えだけで変えられるものではないというのは、たしかにその通りです。しかし、天皇制が「憲法上の制度」だから「天皇制と共存するのが道理ある態度だ」というのは、憲法の本質を無視する悪しき形式主義です。例えばもし国防軍を創設する9条改憲が実現してしまったとして、その時に日本共産党は「国防軍憲法上の制度だから、これと共存するのが道理ある態度だ」と言うつもりでしょうか。

憲法上の制度である天皇制と共存することが「護憲派」の道理ある態度だと日本共産党が考えているのであれば、日本共産党は「護憲」というものを誤解しています。思うに「護憲」とは、憲法の根底にある基本的人権の尊重や民主主義、恒久平和主義という人類普遍の価値を護ることです。そして、人民を抑圧し、支配するための差別制度である天皇制は、基本的人権の尊重や民主主義という憲法の根底にある人類普遍の価値に悖るものですから、これを廃止するのが「護憲派」の道理ある態度なのです。「私たちの好き嫌いいかんにかかわらず、憲法にある制度として、天皇制と共存す」べきだと日本共産党は言いますが、私は単なる「好き嫌い」で天皇制の廃止を主張するのではありません。私は、天皇制が人民を差別・抑圧する制度であるから、天皇制の廃止を主張するのです。つまり、人民を差別・抑圧する制度である天皇制は、私たちの好き嫌いいかんにかかわらず廃止しなければならないのです。

日本共産党は、天皇制の存廃を「日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題」だと言いますが、これは天皇制に対する日和見主義を正当化するための詭弁でしかありません。なぜなら、日本の真の民主化を妨げているのが他ならぬ天皇制であることを考えると、天皇制が安泰である限り、時が来れば自然に「日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟」するということは決して起こりえないからです。また、天皇制によって差別・抑圧されるのは、決して「日本の国の主人公である国民」だけではありません(むしろ、天皇制によって最も差別・抑圧されているのは、「日本の国の主人公である国民」ではない人民です。)。つまり、天皇制による差別・抑圧は、「国民主権」を理由に正当化することができない、普遍的な人権の問題なのです。

 

つぎに、日本軍「自衛隊」について日本共産党は、「日本共産党としてはいっかんして『自衛隊=違憲』論の立場をつらぬ」くが、「党が参加する民主的政権の対応としては、自衛隊と共存する時期は、理の必然として、『自衛隊=合憲』の立場をと」ると言います。

日本共産党としてはいっかんして「自衛隊=違憲」論の立場をつらぬきますが、党が参加する民主的政権の対応としては、自衛隊と共存する時期は、理の必然として、「自衛隊=合憲」の立場をとります。「憲法違反の自衛隊を活用するというのは矛盾している」という議論がありますが、民主的政権としての憲法判断が「自衛隊=合憲」である以上、その政権が自衛隊を活用することに、憲法上、何の矛盾もありません。

 

73、安保・基地・自衛隊(2022参院選/各分野の政策)│2022参議院選挙政策│日本共産党の政策│日本共産党中央委員会

たしかに、共産党立憲民主党のような右翼日和見主義の政党と連立を組むためには、「自衛隊」が違憲であるという理を曲げるのも仕方のないことなのかもしれません。しかし、共産党が加わる「連合政権」が、違憲である「自衛隊」を「合憲だ」と強弁するのであれば、自民党政権と何ら変わらないでしょう。

自衛隊」は、たしかに建前としては憲法の禁ずる軍隊ではありません。しかし、日本がいまや世界有数の軍事大国である*3ことや、軍隊ではないはずの「自衛隊」が対中国戦争に向けて欧米諸国の軍隊と共同軍事訓練を行っている*4ことに鑑みれば、「自衛隊」はれっきとした軍隊であると言わざるを得ないでしょう。かかる「自衛隊」の実態からすれば、「自衛隊」は憲法9条が許容する「自衛のための必要最小限度の実力組織」だとは言えず、理の必然として違憲だと言うほかありません。そして、「自衛隊」が違憲であるならば、「自衛隊」の存在の根拠となる法令が無効となり、「自衛隊」は存在することが許されなくなるはずです。すなわち、「自衛隊」が違憲であるならば、「自衛隊」は解体されなければならないのが「理の必然」です。「自衛隊と共存しているので……理の必然として合憲の立場をとる」というのは、悪しき現状を追認する保守反動の論理であり、それを日本共産党が肯定することは、革新政党たる共産党として恥ずべき態度です。

特にコンミューンは、「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」という証明を提供した。

 
マルクス・エンゲルス共産党宣言』一八七二年ドイツ語版への序文)

「民主的政権としての憲法判断が『自衛隊=合憲』である以上、その政権が自衛隊を活用することに、憲法上、何の矛盾もありません」というのも、大きな勘違いです。自衛隊が合憲か否かの問題は、平和的生存権という人権の問題です。そして、人権の問題は、「民主的政権」を支持する「国民」多数の意思に左右されるべきものではありません。しかるに、世界人民の平和的生存権を脅かす日本軍「自衛隊」を温存したい「国民」の顔色をうかがい、そういった「国民」の期待に応えるべく詭弁を弄する日本共産党の態度は、まさに日和見主義であり、それは「国民」ではなくプロレタリアート人民の前衛政党である共産党としてふさわしくない恥ずべきものだと言うほかありません。

 

さて、「わが日本共産党こそ真の『愛国の党』である」と言ってはばからない日本共産党ですが、党員の中には、次のようなことを言う人もいます。

在日朝鮮人であるがゆえに意に反して愛する党を追われた私の亡祖父も、宮本氏が言う「日本人とアジアの人々の巨大な犠牲を生んだ侵略戦争に命がけで反対した私たちの先輩」の一人でした。そんな私の亡祖父も、「真の愛国者」としてヒノマルの旗の下に束ねられてしまうのでしょうか。もしそうなら、それは私の亡祖父のような元在日朝鮮人党員に対する侮辱です。

 

もちろん、天皇制や日本軍「自衛隊」は、日本共産党の考えだけでなくせるものではありません。しかし、そのことは、人民を差別・抑圧する天皇制の廃止や、世界人民の平和的生存権を脅かす日本軍「自衛隊」の解体に向けて人民を導く前衛政党としての責務を怠ることの言い訳にはなりません。たとえ天皇制や日本軍「自衛隊」が日本共産党の考えだけでなくせるものではないとしても、プロレタリアート人民の前衛政党である日本共産党は、「主人公」である人民に対して、人民を差別・抑圧する天皇制の廃止や、世界人民の平和的生存権を脅かす日本軍「自衛隊」の解体を訴えかけることはできるはずです。そして、そのためにも日本共産党は、右翼日和見主義を克服し、「愛国の党」からプロレタリアート人民の前衛政党という原点へ回帰すべきです。私は、これまで日本共産党を支持してきたプロレタリアート人民の一人として、それを日本共産党に期待します。