葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

朝鮮学校差別は、日本社会のマジョリティである日本国民の問題だ。

「朝鮮学校差別」に共に立ち向かう日本の市民たち…「北朝鮮核問題は生徒とは無関係」 : 日本•国際 : hankyoreh japan

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朝鮮学校差別に対して朝鮮学校の生徒たちと共に立ち向かう日本の市民たちがいる一方で、「朝鮮学校が無償化から除かれたのは、不透明な学校運営の実態や教育内容の問題があるからだ」*1と考える日本国民も少なくありません。しかし、そのような「差別される側である朝鮮学校に問題がある」という考えは正しくありません。

日本の政府や国民の多くが朝鮮学校差別を正当化する理由として用いる「『北朝鮮*2による日本人拉致問題や核問題」あるいは「朝鮮学校の教育内容の問題」は、朝鮮学校差別を正当化する理由には決してなりません。

阪神教育闘争」*3や「2.28、3.7事件」*4からもわかるように、日本の政府あるいは地方自治体は、戦後間もない頃(1950年前後)から今日に至るまで、(美濃部都政のような若干の例外はあるものの*5)ほぼ一貫して在日コリアンの民族教育を弾圧し*6、あるいは朝鮮学校を差別してきました。一方、日本の政府や国民が朝鮮学校差別を正当化する理由として挙げる「『北朝鮮』による日本人拉致問題や核問題」が発覚したのは、拉致問題が1980年頃*7、核問題が1990年代前半*8です。つまり、日本の政府あるいは地方自治体は、「『北朝鮮』による日本人拉致問題や核問題」が発覚するずっと前から在日コリアンの民族教育を弾圧し、あるいは朝鮮学校を差別してきたのであって、「『北朝鮮』による日本人拉致問題や核問題」というのは、朝鮮学校を差別するための「後付けの言い訳」でしかないということです。また、たとえ朝鮮学校の教育内容に何らかの問題があったとしても、それは民族教育の当事者である在日コリアンが議論して解決すればよいだけの話であって、朝鮮学校差別を正当化する理由にはなりません。

そもそも、在日コリアンの民族教育を必要ならしめたのは、かつての日帝による朝鮮植民地支配です。それを考えれば、日帝による朝鮮植民地支配について責任を負う日本政府は、その責任を果たすべく在日コリアンの民族教育を支援するのが道理です。しかるに、在日コリアンの民族教育を支援するどころか、在日コリアンの民族教育を弾圧し、あるいは朝鮮学校を差別するというのは、無理非道であると言わざるを得ません。

このように、日本の政府あるいは地方自治体による朝鮮学校差別は、全く正当化できないものであり、子どもの権利条約*9が保障する「民族教育を受ける権利」(28条・30条)の侵害という国際法に違反する人権侵害です。そして、それは日本社会の構造的問題であり、差別構造を構築し温存している日本社会のマジョリティである日本国民の問題なのです。それゆえ、日本国民が本当に基本的人権の尊重という普遍的価値を共有しているのであれば、私自身を含む日本社会のマジョリティである日本国民は、「差別される側である朝鮮学校に問題がある」といって朝鮮学校差別を正当化することなく、日本社会のマジョリティである自分自身の問題として、日本の政府あるいは地方自治体による朝鮮学校差別をやめさせるとともに、朝鮮学校差別を生み出している構造を打ち壊さなければならないのです。