葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

ヘイトクライムは、「『われわれ』とは違う『レイシスト』」だけの問題ではない。

面会や手紙で「ヘイト」否定も 京都・ウトロ放火被告、記者に語ったことは|社会|地域のニュース|京都新聞

 

被告人が有罪かどうかはさておき、在日コリアンの集住地区であるウトロ地区を標的とした放火は、被告人がどんな言い訳をしようと、専門家が指摘するとおり「差別感情を元にした典型的なヘイトクライム」です。

もしかすると、日本社会のマジョリティである日本人の多くは、ヘイトクライムを「『われわれ』とは違う『レイシスト』」の問題だと思っているかもしれません。

もちろん、ヘイトクライムを犯すような「レイシスト」には、自らを「レイシスト」たらしめた個人的な責任があるでしょう。しかし、差別は「好き・嫌い」といった個人的な感情の問題ではなく、社会の構造的な問題です。それゆえ、そもそも社会に構造的差別がなければ、彼は自らを「レイシスト」たらしめることはできなかったはずです。つまり、日本社会のヘイトクライムは、究極的には日本人がマジョリティである日本社会の構造的差別が生み出すものであって、「レイシスト」だけの問題ではないのです。しかるに、ヘイトクライムを「レイシスト」だけの問題に矮小化してしまえば、ヘイトクライムはいつまでも繰り返されるでしょう。

被告人が語ったが語った事件の動機や、在日コリアンへの認識などからは、日本政府による在日コリアンへの政策的差別や日本の植民地支配下における人権問題の正当化あるいは韓国政府への責任転嫁がヘイトクライムの動機付けに大きな影響を与えていること窺い知れます。日本政府による在日コリアンへの政策的差別や日本の植民地支配下における人権問題を理由に在日コリアンや韓国・朝鮮に対して日本人が憎悪をたぎらせるのは本来筋違いですが、すっかり権力の下僕と化したマスメディアが常日頃から在日コリアンや韓国・朝鮮に対する憎悪や蔑視を煽り立てる日本社会では、もはや権力に同調して在日コリアンや韓国・朝鮮を敵視することが「国民」として「常識的な態度」であり、それゆえに「レイシスト」だけでなく「ごく普通の善良な国民」も当たり前のように在日コリアンや韓国・朝鮮に対して「反日許すまじ」と憎悪をたぎらせるのです。つまり、ヘイトクライムは、決して「『われわれ』とは違う『レイシスト』」だけの問題ではないのです。

近代以降今日に至るまで、「同化と排除の論理」と「朝鮮蔑視観」が近代国民国家としての日本を支えてきました。つまり、ヘイトクライムを生み出す日本社会の差別構造を必要としているのは、国家権力であり、究極的には国民国家の主権者という名の特権者である「国民」です。それゆえ、日本社会のヘイトクライムをなくすためには、国民国家の主権者という名の特権者である「国民」が自らの手で日本社会の差別構造をこわしていかなければなりません。そして、「国民」であれば、たとえ「差別に反対する良心的日本人」であっても、日本社会の差別構造をこわす責任から逃れることはできません。

レイシスト」が犯したヘイトクライムを非難することは、もちろん「差別は悪である」という倫理観を確立するうえで大切なことです。しかし、前述したように日本政府による在日コリアンへの政策的差別や日本の植民地支配下における人権問題の正当化あるいは韓国政府への責任転嫁がヘイトクライムの動機付けに大きな影響を与えていますが、日本政府による在日コリアンへの政策的差別や日本の植民地支配下における人権問題を理由に在日コリアンや韓国・朝鮮に対して日本人が憎悪をたぎらせるのが筋違いであることは、日帝による朝鮮植民地支配の歴史を正しく認識し、「負の歴史」と真摯に向き合えば、容易にわかることです。それゆえ、日本社会のヘイトクライムをなくすためには、「レイシスト」が犯したヘイトクライムを非難するだけでなく、日帝による朝鮮植民地支配の歴史を正しく学ぶことも、決しておろそかにしてはならないのです。