葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「日本人なのに朝鮮人と間違われて虐殺された」ことは、「福田村事件」の問題の本質ではない。

なぜ“群集”は暴走するのか 関東大震災100年 ある事件の問い | NHK | WEB特集

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関東大震災で行商ら9人殺害 福田村事件、語り継ぐ 柏で集い120人出席:東京新聞 TOKYO Web

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「福田村事件」に関しては、「日本人なのに朝鮮人と間違われて虐殺された」ことを強調する論調がしばしば見受けられます。

もちろん、被害者が朝鮮人ではなく日本人だったから「福田村事件」を記憶しなくてもよいということは決してありません。しかし、「日本人なのに朝鮮人と間違われて虐殺された」ことは、「福田村事件」の問題の本質では決してありません。

関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺がジェノサイド(民族大量虐殺)であるのは、まさに民族的マジョリティである日本人が民族的マイノリティである朝鮮人や中国人を差別して殺害する意図をもって行った大量虐殺だからです。そして福田村で行われた虐殺も、虐殺されたのが朝鮮人と間違われた日本人だったとはいえ、民族的マジョリティである日本人が民族的マイノリティである朝鮮人を差別して殺害する意図をもって行った虐殺です。つまり、「福田村事件」の問題の本質は、「日本人なのに朝鮮人と間違われて虐殺された」ことではなく、あくまでも民族的マジョリティである日本人が民族的マイノリティである朝鮮人を差別して殺害する意図をもって行商団の人たちを虐殺したことなのです。そもそも日本人自警団員たちが民族的マイノリティである朝鮮人を差別して殺害する意図をもっていなかったならば、日本人である行商団の人たちが「朝鮮人と間違われて」虐殺されることもなかったはずです。

「福田村事件」について「日本人なのに朝鮮人と間違われて虐殺された」と言う人も、さすがに「朝鮮人は殺してもいい」とは思わないでしょう。しかし、「日本人であっても朝鮮人と間違われて虐殺されることがあるのだから、日本人は関東大震災時の朝鮮人虐殺という『負の歴史』と向き合わなければならない」と考えることは、やはり問題です。民族的マジョリティである日本人は、「日本人であっても朝鮮人と間違われて虐殺されることがある」かどうかにかかわりなく関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺という「負の歴史」と向き合わなければなりません。民族的マジョリティである日本人は、日本という国で起こりうる民族大量虐殺において民族的マイノリティと間違われて虐殺される潜在的な被害者である前に、何よりもまず民族的マイノリティを虐殺する潜在的な加害者なのですから。

なお、「福田村事件」に関しては、被害者が香川県被差別部落の人たちであった(それゆえに、加害者の自警団員らに村から見舞金が支払われた一方で、被害者には謝罪も賠償もありませんでした。)ことも決して看過してはなりません*1。つまり「福田村事件」は、「日本人なのに虐殺された」という単純なものではなく、朝鮮人差別と部落差別という「二重の差別」による虐殺事件なのです。