葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「逮捕」は懲罰ではない。

刑事訴訟規則
(明らかに逮捕の必要がない場合)
第143条の3 逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない。

「罪を犯したのならば、逮捕されて当然だ」と思う人は、少なからずいることでしょう。そう思う人は、もしかすると「逮捕」を懲罰だと考えているのかもしれません。しかし、「逮捕」を懲罰だと考えるのは間違いです。

「逮捕」は、懲罰ではなく、あくまでも刑事手続における強制処分のひとつです。そして、逮捕の目的は「被疑者の逃亡と罪証隠滅を防止する」ことにあります。それゆえ、「逮捕の必要(被疑者の逃亡と罪証隠滅を防止するために逮捕が必要であること)」がなければ逮捕してはならないのです。つまり、たとえ「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があ」った(逮捕の理由。刑事訴訟法第199条第1項参照)としても、「逮捕されて当然」ではないのです。

そもそも「逮捕」は、本来的には国家権力による人権侵害です。それゆえ、基本的人権尊重の原則からすれば、「逮捕」はあくまでも例外的にものに過ぎません(任意捜査の原則)。しかし、日本では、まるで「逮捕」が原則であるかのような、あるいは「逮捕」が懲罰であるかのような逮捕権の乱暴な運用がなされています。このような逮捕権の乱暴な運用は改められるべきですし、そのためにも、まずはわれわれ市民が「罪を犯したのならば、逮捕されて当然だ」という認識を改めなければなりません。

リベラル派の中には、例えば「安倍晋三を逮捕しろ」と言う人がしばしば見受けられます。いわゆる「反安倍」の私ですが、しかし、私は「安倍晋三を訴追しろ」ならともかく、「安倍晋三を逮捕しろ」という主張には与しません。なぜなら、先に述べたように、「逮捕」は懲罰ではなく、「被疑者の逃亡と罪証隠滅を防止する」ための刑事手続における強制処分のひとつであり、もし安倍氏に「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があ」ったとしても、「逃亡と罪証隠滅のおそれ」がなければ逮捕すべきではないからです。こう言うと、安倍氏がわれわれとは違い権力者であることを私が看過していると批判する人もいるかもしれません。たしかに、安倍氏はわれわれとは違い権力者です。しかし、それでも人権は普遍的な価値ですから、捜査対象が安倍氏のような権力者であっても、基本的人権尊重の原則は当然守られるべきです。そして、そのように基本的人権尊重の原則の普遍性を大切にすることは、国家機関による逮捕権の乱暴な運用からわれわれ市民の人権を守るためにも必要なことなのです。もしかすると、リベラル派の中にも「そんなのは綺麗事だ」と言う人がいるかもしれません。しかし、そういう「綺麗事」こそ、まさにリベラル派の人たちがこれまで批判してきた「アベ政治」によって壊されてしまった大切な普遍的価値なのではないでしょうか。