あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

新型コロナ禍で忘れられる、移動の自由という基本的人権。

1都3県や北海道の移動、19日に解禁…1000人規模のイベントも : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン

 

県をまたぐ移動の自粛解除に関する報道では、「解禁」という表現が多く見られます。
新型コロナウイルス禍ですっかり忘れられてしまっているようですが、移動の自由は基本的人権です。それゆえ、移動を禁止するには、法治主義の下では法的根拠に基づかなければなりません。しかし、新型インフルエンザ等対策特別措置法*1は、あくまでも外出自粛の要請にとどまるものであって、移動を禁止するものではありません。つまり、県をまたぐ移動はそもそも禁止されていなかったということです。それにもかかわらず、もし多くの人が「解禁」という表現に違和感を覚えないのだとすれば、やはり日本社会の人権感覚に問題があると言わざるを得ないでしょう。

もちろん、私も新型コロナウイルス感染症は怖いですし、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために移動の自由を制限する必要性は否定しません。しかし、それでも移動の自由が基本的人権である以上は、自由が原則であり、その制限はあくまでも例外であることを決して忘れてはならないと思います。そして、人権保障の観点から、例外である自由の制限は、規制措置は社会公共に対する障害の大きさに比例したもので、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならないという、いわゆる「警察比例の原則」に従うべきです。つまり、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために必要なのは「強力な措置」ではなく、感染拡大の防止という目的を達成するために必要な最小限度の措置です。

これについては、「強力な措置をとらないで感染が拡大したらどうするんだ」と言う人もいるでしょう。しかし、そう言う人は思考レベルの問題と現実レベルの問題を混同しています。「規制措置は、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならない」というのは思考レベルの話であり、現実レベルで具体的な規制措置が規制の目的を達成するために必要な最小限度のものであるかどうかは、それこそケース・バイ・ケースです。ただ、そうであっても人権尊重の理念に従うのであれば、「規制措置は、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならない」という思考は維持されるべきです。それとも、規制の目的を達成するために必要な最小限度を超える強力な規制を求める人は、「必要であれば国家によるいかなる人権侵害も許されるべきだ」と考えるのでしょうか。しかし、それは国家権力を制限して人権保障をはかる立憲主義にそぐわない考えです。「理念が現実における国家の行動の足かせになるのであれば、理念を捻じ曲げてもよい」とするのが、いわゆる9条改憲議論における安倍政権の考え方ですが、そういえば新型コロナウイルス禍でしばしば使われる「強力な措置をとらないで感染が拡大したらどうするんだ」という脅し文句は、9条改憲議論で改憲論者が好んで使う「外国が攻めてきたらどうするんだ」という脅し文句によく似ている気がします。

どうも昨今の日本では、人権保障における〈原則―例外〉思考が、「自由が原則であり、制限が例外である」から「制限が原則であり、自由が例外である」に逆転してしまっているようです。しかし、これでは憲法による人権保障など、まさしく「絵に描いた餅」でしかありません。また、「制限が原則であり、自由が例外である」という倒錯した思考が当たり前になってしまうのは、それこそ自民党政権の思う壺です。立憲主義の下では、「自由が原則であり、制限が例外である」ことを、どうかくれぐれも忘れないでください。もっとも、こう言うと「それならばヘイトスピーチやヘイトデモも自由が原則だろう」と揚げ足を取る人がいるかもしれません。しかし、そのような人は、なぜ憲法表現の自由を人権として保障したのかをまるで理解していません。憲法表現の自由を人権として保障したのは、究極的には表現の自由が個人の尊厳の確保に資するからですが、ヘイトスピーチやヘイトデモは個人の尊厳を踏みにじる人権侵害にほかなりません。つまり、ヘイトスピーチやヘイトデモは憲法表現の自由を人権として保障した趣旨に悖るものであって、そもそも表現の自由の保障の範囲外*2なのです。