葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

問うべきは「誰のための不買運動か」ではなく、「日本製品の不買運動が何に対する闘争であるか」だ。

誰のための不買運動?(「どこにいても、私は私らしく」#13)|クオンの本のたね|note

 

2019年に日本による対韓輸出規制強化を受けて韓国で起きた日本製品不買運動に関しては、たしかにそれを迷惑だと思う韓国人もいたことでしょう。成川さんが、日本人である前に一人の人間として、日本製品不買運動を迷惑だと思う韓国人の意見に同調するのは、もちろん自由です。

しかし、「誰のための不買運動なのか、みんな冷静に考えてほしい」と言うのは、不買運動に参加した韓国の市民を「理性的な我々とは違う、感情的な彼ら」と、ある種の植民地主義的なまなざしで見ているように思えてなりません。

「誰のための不買運動?」と問う成川さんは、要するに「日本製品不買運動なんて、ただ迷惑なだけで誰のためにもならない」と言いたいのでしょう。しかし、ここで問うべきは「誰のための不買運動か」ではなく、「日本製品不買運動が何に対する闘争であるか」です。

私が思うに、日本製品不買運動は、決して日本に対する感情的な反発ではなく、不買運動の発端である日本政府による経済侵略の背後にある新植民地主義に対する闘争です。すなわち、それは、日本政府による経済侵略の背後にある新植民地主義的な「日韓65年体制」を支え、その恩恵を受けている日本資本と親日派韓国資本に経済的な打撃を与えることを通じて、日本政府による経済侵略とその背後にある新植民地主義に対して抵抗する闘いだということです。

成川さんは、「商品が消費者に届くまでには、企画した人、作った人、運んだ人、販売した人、本当にたくさんの人が関わっていて、そこには日本人もいるだろうし、韓国人もその他の国の人もいるかもしれない。いろんな人が汗水流して生まれた商品のはずだ」と言います。しかし、資本主義の下では、資本家が労働者を搾取することで生み出された「商品」は、あくまでも資本家の所有物でしかありません。そして、日本製品不買運動は、そのような「商品」を新植民地主義的な「日韓65年体制」の下で売ることによって利益を得る、日本資本主義に対する闘争です。それゆえ、不買の対象である日本製品が「いろんな人が汗水流して生まれた商品のはずだ」ということは、資本主義に対する闘争についての議論においてはナンセンスな感情論でしかありません。このことは、冷静に考えれば分かるでしょう。また、新植民地主義に対する闘争である日本製品不買運動を極右主義的な朝日新聞不買運動と並べて語るというのも、実にナンセンスです。

日本人が、不買運動を「ただ迷惑なだけで誰のためにもならない」と言うのは、まるで労働者のストライキを「ただ迷惑なだけで誰のためにもならない」と言うようなものであり、それはプチブル的な冷笑主義です。もちろん、日本人が、日本人である前に一人の人間として、韓国の市民による不買運動に対して冷笑的な態度をとるのは自由です。しかし、日本人がそのような態度をとることができるのは、つまるところ、日本人である前に一人の人間であっても、やはり「日本人」だからでしょう。成川さんも、日本製品不買運動は日本側に原因があると認識しているようです。しかし、それならば「誰のための不買運動?」と言う前に、不買運動に込められたメッセージがいったい何であるかを考えるのが誠実な態度であるといえるのではないでしょうか。