葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

肝要なのは、世界を変えることである。

「哲学者たちは、世界をいろいろに解釈しただけである。肝要なのは、それを変えることである。」――カール・マルクス

 

生活が苦しく社会に不平不満を抱く人に対して、よく「社会を変えるより、自分を変えよう」と言う人がいます。

たしかに、社会を変えることは決して簡単ではありません。しかし、だからといって平気で人を殺すような社会に合わせて自分を変えたりしていたら、いずれ殺されてしまうでしょう。もっとも、「社会を変えるより、自分を変えよう」論者は、「社会に合わせて自分を変えても殺されはしない。私が『成功者』として人生を謳歌しているのが、その何よりの証左だ」と言うかもしれません。ですが、それはその「成功者」が、平気で人を殺すような社会で「殺す側」に立っているということです。

そもそも、個人の生活が苦しいのは、その個人が社会に合わせて自分を変える努力を怠っているからではなく、人をカネを生み出す道具としてしか見ないこの社会のシステムが原因です。そして、そのシステムを変えたくない連中、すなわちそれによって暴利を貪る連中と、連中に仕えておこぼれに与るペテン師どもが、社会のシステムの問題を個人の努力の問題にすり替えているのです。

人をカネを生み出す道具としてしか見ないこの社会のシステムが生み出す生活苦からわれわれ労働者人民が解放されるには、この社会のシステムを変えるしかありません。しかし、その真実が白日の下にさらされても、資本家に仕えるペテン師どもは「社会に合わせて自分を変える努力をすることで、この社会のシステムが生み出す利益に与る階級に加わればいい」とあなたや私の耳元で甘く囁くでしょう。もちろん、資本家どもの誘いに乗るかどうかは個人の自由です。ただ、はたしてあの強欲な連中が分け前をやすやすと与えてくれるでしょうか。それに、あなたや私が連中の分け前に与るまでに殺されないという保証はありませんし、もし運よく連中の分け前に与ることができたとしても、あなたや私に殺された者たちの血で汚れた手で虐げられし者たちの血と汗と涙で汚れた札束を掴むことになるでしょう。

もちろん、一人の力で社会を変えることができるなどと私は言うつもりはありません。それに、もし社会を変えたいのは自分だけだと私が思っているとしたら、それは私の思い上がりです。あなたや私の隣には、同じように社会を変えたいと思っている同志がいるはずです。そうした一人ひとりの力が合わされば、人をカネを生み出す道具としてしか見ないこの社会のシステムは必ず変えられます。こんな社会のシステムによって殺し殺されるのは、もう終わりにしましょう。