葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「日本人である前に一人の人間」であればこそ

日本軍「慰安婦」(日本軍性奴隷制)問題や徴用工(日帝強制動員)問題に関して、日本人の中には「私は日本人である前に一人の人間なのだから、日本軍『慰安婦』問題も徴用工問題も私には関係ないことだ」と思う人もいるかもしれません。

たしかに、日本人であるあなたが「日本人である前に一人の人間」なのはその通りです。しかし、日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題は、日帝による朝鮮植民地支配下での人権侵害という人権の問題です。それゆえ、「日本人である前に一人の人間」であればこそ、一人の人間として日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題といった人権の問題と真摯に向き合うべきです。「日本人である前に一人の人間」であることは、日本人が日帝による朝鮮植民地支配下での人権侵害という人権の問題から目を背ける言い訳には決してなりません。

もっとも、日本人が「日本人である前に一人の人間」であるとしても、「日本国民」という日本社会の特権者として振舞う日本人が都合よく「日本人である前に一人の人間」であることを持ち出すというのは、あまりにも不誠実な態度です。日本軍性奴隷制日帝強制動員といった日帝による朝鮮植民地支配下での人権侵害という歴史的事実を否定する歴史修正主義は、歴史修正主義者個人の問題にとどまるものではなく、日本社会の構造的な問題です。そして、歴史修正主義を生み出す構造を構築し温存しているのは、日本社会の特権者である「日本国民」です。それゆえ、日本人が「日本人である前に一人の人間」として日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題といった人権の問題と真摯に向き合うためには、まず日本人は、日本社会の特権者である「日本国民」として自分たちが構築し温存している、歴史修正主義を生み出す構造をこわしていく必要があるのです。「日本人である前に一人の人間」であることは、日本人が、日本社会の特権者である「日本国民」として自分たちが構築し温存している、歴史修正主義を生み出す構造をこわしていく責任から逃れるための言い訳には決してなりません。