葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

人の蠅を追う前に、自分の頭の蠅を追え。

よく「日本人は政治や社会の問題に無関心だ」と言われますが、一方で、「よその国」の社会問題を憂い、心を痛め、「連帯」の意を表する「良心的日本人」も決して少なくありません。

もちろん、「よその国」の社会問題を憂い、心を痛め、「連帯」の意を表することは、無関心でいるより、よほどいいことだと思います。しかし、残念なことに「良心的日本人」の中には、人の蝿を追うことには熱心なのに、自分の頭の蝿にはまるで無頓着な人が少なからずいるように感じます。

“ あそこのことをみんなが大きな声でしゃべるのは遠いよその国だからなのよ。政治問題は遠い国のことほど単純に、壮烈にしゃべりたくなるものなのよ。自分の国のことになると一ミリの振動でもびくびくしてたちまち口ごもってしまうくせに、そうなのよ。つまり、きれいに苦悩できるのよ。(開高健『夏の闇』)”

結局のところ、やはり日本人にとって「よその国」の社会問題は、気軽に「良心」を満たすことができる手軽な「コンテンツ」でしかないのでしょうか。

「連帯」という言葉を口にする「良心的日本人」は、もしかすると「恵まれた者」が「弱者」に共感し、救いの手を差し伸べ、寄り添うことが「連帯」だと思っているかもしれません。たとえば、民主化闘争における「連帯」で、“先進民主主義国家”の「恵まれた者」が、“遅れた専制国家”の「弱者」に共感し、救いの手を差し伸べ、寄り添うというように。しかし、それは傲慢な勘違いです。思うに、人間の尊厳を求めて闘う者同士が、それぞれの闘いの勝利のために、それぞれの闘いの成果と課題を共有する、それこそが「連帯」です。つまり、自らも「闘う者」として、なによりもまず自分の頭の蝿を追うことが「連帯」の資格なのです。