葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

不要不急の労働者搾取を自粛せよ。

「特に若者は控えて」東京都 不要不急の外出自粛を呼びかけ | NHKニュース

 

権力者たちは、市民たちに対しては休日の外出自粛を求めるのに、どうして資本家やその手下に対しては労働者搾取の自粛を求めないのでしょうか。もっとも、権力者たちは平日の在宅勤務を呼びかけていますが*1*2、いったいこれは誰に対する呼びかけなのでしょうか。もしこれが労働者に対する呼びかけだとしたら、権力者たちは我々「賃金奴隷」が望めば自由に在宅勤務できると思っているのでしょうか。

「遊び」(ここで私が言う「遊び」とは、レジャーや娯楽といった狭い概念ではなく、広く労働以外のあらゆる生活のことです。)のために休日に人混みを避けてする外出が「不要不急」で、「労働」のために平日に満員電車で通勤する外出が「不要不急」ではないというのも、よくよく考えると少しおかしな話です。前者よりも後者のほうが、よほど感染のリスクが高いと、素人ながらに思うのですが。

私は、べつに「外出自粛なんかしないで街へ繰り出そう」と言いたいのではありませんし、(「休日の外出よりも平日の外出のほうが、よほど感染のリスクが高いのではないか」と自分で言っておきながらなんですが、)「休日の外出と平日の外出のどちらが感染のリスクが高いか」ということを議論したいのでもありません。。私が問いたいのは、なぜ「遊び」が不要不急で「労働」が不要不急ではないのか、ということです。おそらく、その根底には「労働=尊い、遊び=卑しい」という価値観があるのでしょう。しかし、それはあくまでも資本主義が私たちに押し付けるものにすぎず、決して真理ではありません。もっとも、我々の中にも「働かなければ食べていけないのだから、『労働』は不要不急ではない」と言う人もいるでしょう。たしかに、我々は働かなければ食べていけません。しかし、我々がむしろ問うべきなのは、なぜ我々は働かなければ食べていけないのか、もっと正確に言えば、なぜ我々は資本家たちの儲けのために働かなければ食べていけないのか、ということです。

権力者たちは、市民たちに対して不要不急の外出を自粛するよう求めるだけでなく、資本家やその手下に対して不要不急の労働者搾取を自粛するよう求めてはどうですか。もっとも、労働者が資本家やその手下に生殺与奪の権を握られていることに鑑みると、資本家やその手下が労働者搾取を自粛することで労働者の生存が危機にさらされかねません。それゆえに重要となるのが、国家による生活保障であり、福祉国家にはそれを行う責務があります。それにもかかわらず、人民の生活保障をなおざりにする一方で人民の権利や自由を制限しようと躍起になるような国家は、はっきり言って必要ありません。