葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

憲法の平和主義に反する次期戦闘機の輸出解禁に断固抗議する。

次期戦闘機の第三国への輸出解禁、政府が決定 安保政策の転換点 [岸田政権]:朝日新聞デジタル

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政府は26日午前の国家安全保障会議NSC)で、武器輸出を制限している防衛装備移転三原則の運用指針を改定し、英国、イタリアと国際共同開発中の次期戦闘機の第三国への輸出を解禁した。「殺傷能力のある武器の最たるもの」(自民議員)と位置づけられる戦闘機の輸出解禁は、武器輸出を厳しく制限してきた日本の安全保障政策の大きな転換となる。

 

次期戦闘機の第三国への輸出解禁、政府が決定 安保政策の転換点 [岸田政権]:朝日新聞デジタル

政府与党自らが「殺傷能力のある武器の最たるもの」と位置づける次期戦闘機の輸出解禁は、まさしく「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」(日本国憲法前文)である平和的生存権を脅かすものであり、憲法の平和主義に反する暴挙であると言わざるを得ません。

政府は、「歯止め策」として「輸出先は『防衛装備品・技術移転協定』の締結国など、輸出した武器を侵略に使わないなどとする国際約束を日本と結んだ国に限る」としています。しかし、これまでに多くの侵略戦争が「集団的自衛権」の名の下に行われてきたこと、そして日本も「平和憲法」があるにもかかわらず「集団的自衛権」の名の下に*1世界最強の軍事力を誇る唯一の軍事超大国である米国の侵略戦争に参加しようとしていることに鑑みれば、「歯止め策」の実効性は甚だ疑問です。

憲法の平和主義に反する次期戦闘機の輸出解禁が閣議決定で行われたことは、憲法に縛られるはずの政府が独断で憲法を乗り越えるという独裁的な暴挙であり、もちろん言語道断です。もっとも、次期戦闘機の輸出解禁は、先に述べたように平和的生存権という人権の問題ですから、「国民的議論」*2を経れば許されるというものでは決してありません。

さて、今般の次期戦闘機の輸出解禁については、「平和国家の信頼を損なう」あるいは「日本は『死の商人』になるのか」といった声も多く聞かれます。しかし、はたして「戦後日本」は、本当に「平和国家」なのでしょうか。あるいは、本当にこれまで「死の商人」ではなかったのでしょうか。「戦後日本」は、日本が犯した侵略戦争への深い反省に基づく「平和憲法」があるにもかかわらず、「朝鮮特需」*3や「ベトナム特需」*4という言葉があることからもわかるように朝鮮戦争(1950年~)やベトナム戦争(1960~75年)といった「米国の戦争」に加担し、皮肉な話ですが「平和憲法」のおかげで自らの手を血で汚すことなく暴利をむさぼってきました。そして、「平和憲法」があるにもかかわらず戦後の「平和国家」日本が加担してきた「米国の戦争」では、「平和憲法」があるにもかかわらず日本が生産し、供給した殺傷武器が使われ(ベトナム戦争で使用されたナパーム弾の9割が日本製だと言われています。)、それによって数多くの市民の命が奪われました。今般の次期戦闘機の輸出解禁は、こうした「平和憲法」をないがしろにした「戦後日本」による「米国の戦争」への加担の延長線上にあるものであって、それは「平和国家」が軍国主義に急旋回したということでも死の商人に成り下がったということでもないのです。もちろん、「平和憲法」それ自体はかけがえのない素晴らしいものです。しかし、先述したように、「戦後日本」が「米国の戦争」に加担して暴利をむさぼってきたこと、そして、いまや世界有数の軍事大国となった*5「戦後日本」が戦争法*6の制定によって「平和憲法」があるにもかかわらず「集団的自衛権」に名の下に世界最強の軍事力を誇る唯一の軍事超大国である米国の侵略戦争に同盟国として参加できるようになったことに鑑みれば、残念ながら戦後の日本が軍国主義と決別したとは到底いえず、皮肉なことにかけがえのない素晴らしい「平和憲法」が日本軍国主義の隠れ蓑になってしまっているのです。

先にも述べたように、「平和憲法」があるにもかかわらず「戦後日本」が生産し、供給した殺傷武器は、朝鮮戦争ベトナム戦争といったこれまで「戦後日本」が加担してきた「米国の戦争」で、数多くの市民の命を奪ってきました。今般の次期戦闘機の輸出解禁を許容すれば、これまで自称「平和国家」によってないがしろにされ形骸化してきた「平和憲法」はますます形骸化し、日本は同じ過ちを際限なく繰り返すことになるでしょう。「平和国家」を隠れ蓑にして今も生きながらえている日本軍国主義に終止符を打ち、日本を「平和憲法」を持つにふさわしい真の平和国家にするためには、憲法の平和主義に反する次期戦闘機の輸出解禁を断じて許してはなりません。私は、憲法の平和主義に反する次期戦闘機の輸出解禁に断固として抗議します。

民主主義の本質に鑑みれば、大椿ゆうこ参議院議員の「日本国籍の人のためだけに政治があると思っているところが間違いです」という言説は何も間違っていない。

社民党・大椿副党首「日本国籍の人のためだけに政治があると思っているところが間違い」と持論展開 賛否の意見殺到/芸能/デイリースポーツ online

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社民党副党首の大椿裕子参院議員が23日、自身のX(旧ツイッター)を更新。「日本国籍の人のためだけに政治があると思っているところが間違いです」と持論を展開した。

[……]

こうした大椿議員の持論には、さまざまな意見が寄せられた。「学がない連中はこのポストが正しいことなのが理解できないですよ」などの賛同意見も見られたが、「国家公務員法の否定ですか」「日本国籍の日本人の益(原文ママ)の為に、その代表として日本国の政治を担うんじゃないのか?」などと反発する意見も多く見られた。

 

社民党・大椿副党首「日本国籍の人のためだけに政治があると思っているところが間違い」と持論展開 賛否の意見殺到/芸能/デイリースポーツ online

後述する民主主義の本質に鑑みれば、大椿ゆうこ参議院議員の「日本国籍の人のためだけに政治があると思っているところが間違いです」という言説は何も間違っていません。むしろ間違っているのは、「日本国籍の人のためだけに政治がある」という言説、そして、そのような間違った言説を生み出す日本の民主主義システムの状況、すなわち日本国籍ではない人たちが民主主義システムから疎外されている状況です。

民主主義の本質は「治者と被治者の同一性」すなわち治める者と治められる者が同一であることです。そして、日本国籍ではなく外国籍であっても「永住者」あるいは「定住者」であれば被治者なのですから(納税など日本国籍者と同様の公的義務を負う「永住者」あるいは「定住者」は、間違いなく被治者です。)、治者として政治に参加する権利を当然に有するのです。それゆえ、本当に日本が民主主義の国であるならば、日本国籍であるかどうかに関係なく治者かつ被治者である人民のために政治があるべきなのです。さらに言うと、民主主義の目的が究極的には個人の基本的人権を確保することであることに鑑みれば、民主主義政治は、日本社会のマイノリティとして人権を侵害されることが日本国籍者よりもはるかに多い「永住者」あるいは「定住者」である外国籍市民のためはもちろん、人権の普遍性にもかかわらず人権保障から疎外されている非正規滞在者のためにもあるべきものなのです。

もしかすると、「日本は『国民主権』の国だから、日本国籍の人のためだけに政治がある」と思っている人もいるかもしれません。しかし、「国民主権」の本質的な意義は君主が主権を持たず人民が主権を持つ点にあるのであって、かかる意義からすれば本来的に主権者を日本国籍者に限るべき理由はありません。それゆえ、日本が「国民主権」の国だからといって、日本国籍の人のためだけに政治があるというわけではないのです。

大椿議員の言説に対して「日本国籍の日本人の益(原文ママ)の為に、その代表として日本国の政治を担うんじゃないのか?」と反発する意見は、「学がない」云々ではなく、つまるところ外国人差別や排外主義の発露です。それゆえ、「日本国籍の人のためだけに政治がある」という間違った言説を正すためには、そのような間違った言説を生み出す日本の民主主義システムの状況を変えること*1はもちろんのこと、それと同時に外国人差別や排外主義がはびこる日本社会を変えること*2が必要不可欠です。

日本軍「自衛隊」による靖国神社集団参拝の問題の本質

公務に殉じた人の追悼、議論を 元防衛次官がみる自衛隊の靖国参拝:朝日新聞デジタル

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上掲記事で元防衛事務次官守屋武昌氏は、次のように述べています。

ただ、このことはわかってほしい。旧日本軍と自衛隊は違いますが、自衛官は国民のために命をかけています。その意味で「同じ職業」という意識はあるでしょう。幹部らの靖国参拝の報道を見ましたが、戦争を美化しようとしているのではなく、公務に殉ずる意識の表れだと私は思います。

 

公務に殉じた人の追悼、議論を 元防衛次官がみる自衛隊の靖国参拝:朝日新聞デジタル

守屋氏の論理からすると、旧日本軍の軍人も「国民のために命をかけてい」たことになるでしょう。しかし、「皇軍」すなわち「天皇の軍隊」の軍人である旧日本軍の軍人は天皇のために命をかけていたのであって、「国民のために命をかけてい」たのではありません。

ただ、自衛官自衛官と旧日本軍の軍人が「同じ職業」だという意識がある、というのは、確かにそうかもしれません。思うに、それは日本軍「自衛隊」が旧日本軍と本質的に変わらないことによります。日本軍「自衛隊」が「国民を守るための存在」だというのは欺瞞です。日本軍「自衛隊」の前身である警察予備隊アメリカの冷戦政策上の必要性から日本の再軍備*1の第一歩として創設されたという日本軍「自衛隊」が創設された経緯に加え、戦後の日本が米国主導の東アジア国際秩序に組み込まれることによって昭和天皇裕仁と支配層が固執した「国体護持」(=天皇制の維持)*2が達成されたことに鑑みると、日本軍「自衛隊」の基本的な理念・役割は、米国主導の東アジア国際秩序を守ることを通じて天皇制国家を守ることだといえます。つまり、日本軍「自衛隊」の究極目的は天皇制国家を守ることであって、自衛官も究極的には旧日本軍の軍人と同様に天皇のために命をかけているのです。だからこそ、幹部が天皇の国のために戦争で死ぬことを顕彰する施設である靖国神社に平気で参拝できるのです。そして、天皇の国のために戦争で死ぬことを顕彰する施設である靖国神社に組織的に参拝するということは、日本軍「自衛隊」は天皇の国のために殺し殺されることもいとわないということです。守屋氏は「幹部らの靖国参拝の報道を見ましたが、戦争を美化しようとしているのではなく、公務に殉ずる意識の表れだと私は思います」と言いますが、幹部らの靖国参拝天皇の国のために戦争で死ぬことを美化するものであると言わざるを得ません。

日本軍「自衛隊」による靖国神社集団参拝の問題に関して「日本のために命を落とした人をどう追悼するか。政治家は、もっと議論すべきです」と言う守屋氏は、日本軍「自衛隊」による靖国神社集団参拝の問題の本質をはぐらかしています。日本軍「自衛隊」による靖国神社集団参拝の問題の本質は、「日本のために命を落とした人をどう追悼するか」ではなく、天皇の国のために戦争で殺し殺されることを是とするか、です。そして、日本の人民が天皇の国のために戦争で殺し殺されることを是としないのであれば、日本軍「自衛隊」という天皇の国のために殺し殺されることもいとわない軍隊と、靖国「神社」という天皇の国のために戦争で死ぬことを顕彰する施設は、いずれも解体すべきであり、究極的にはそれらの根底にある天皇制を廃止するべきです。

自民党政権の悪政を何でもかんでも旧統一教会のせいにする「リベラル」派の無責任さ

統一教会自民党を支配している」と言ったり「自民党統一教会だ」と言ったりして自民党政権の悪政を何でもかんでも旧統一教会のせいにする「リベラル」派を気取った日本国民が相変わらず後を絶ちません。

統一教会自民党を支配していませんし、自民党は旧統一教会ではありません。自民党と旧統一教会の癒着は、決して一方的な支配関係ではなく、戦後の米国主導の東アジア国際秩序と天皇制国家を支える反共主義という政治構造における、同じ理念を共有する者同士の利用関係が生み出したものです。そして、戦後の米国主導の東アジア国際秩序と天皇制国家を支える反共主義体制の構築・発展という使命を果たすためならばカルト教団をも利用するような日本の政権与党、それが自民党です。旧統一教会は、あくまでも自民党が戦後の米国主導の東アジア国際秩序と天皇制国家を支える反共主義体制を維持・強化するために利用しているカルト宗教のうちの一つに過ぎません。

このような日本の政権与党である自民党の悪政は、他でもない日本の「内なる悪」であり、それは日本国民が「主権者」として向き合わなければならないものです。そうした日本の「内なる悪」である自民党政権の悪政を「統一教会自民党を支配している」と言ったり「自民党統一教会だ」と言ったりして日本の「外」からやってきた旧統一教会のせいにしてしまえば、日本国民は「主権者」として日本の「内なる悪」と向き合わずに済むのですから、たしかに気が楽でしょう。しかし、それは「主権者」としての責任放棄にほかなりません。そのような無責任な「主権者」たちが「統一教会から日本を、取り戻す」と息巻く姿には、ただただ呆れるばかりです。きっと彼らは「真の日本は平和で美しい国なのに、統一教会というサタンのせいで悪い国になってしまった」と思いたいのでしょう。しかし、日本が「統一教会というサタンのせいで悪い国になってしまった」というのは大きな勘違いです。なぜなら、先に述べた自民党の使命からわかるように、昭和天皇裕仁と支配層が腐心した「国体護持」(=天皇制の維持)*1の結果が、自民党政権の悪政がはびこる今の日本のこの体たらくだからです。このことを考えると、戦後の米国主導の東アジア国際秩序を支える反共主義体制とその究極目的である天皇制国家という「国体」を変えない限り、いつまでも日本の政権与党の悪政は続くでしょう。

ところで、旧統一教会に詳しい識者によれば、「植民地時代の民族的恨みを解くこととして、日本で資金を調達してそれを韓国に持ってきて世界的な活動に使う」ことが旧統一教会の本質を成しているそうです*2。もしそうなら、旧統一教会日帝の朝鮮植民地支配が生み出した「モンスター」だといえるでしょう。もちろん、旧統一教会による霊感商法献金の強要は、断じて許されるものではありません。しかし、そのことは、決して日帝の朝鮮植民地支配について日本国民が負う「責任」*3を帳消しにするものではありません。旧統一教会に詳しい識者が旧統一教会の本質だと言う「植民地時代の民族的恨みを解く」点は、まさに日本国民が真摯に向き合わなければならない日帝の朝鮮植民地支配という自国の「負の歴史」にかかわるものです。しかるに、日帝の朝鮮植民地支配という自国の「負の歴史」と真摯に向き合わなければならない日本の国民が旧統一教会の「植民地時代の民族的恨みを解く」点を非難するのは、盗人猛々しいと言わざるを得ません。自民党と旧統一教会の癒着の問題にかこつけて韓国を「悪魔視」するネット右翼や一部のリベラル派は、旧統一教会について「天皇をサタン呼ばわりする反日カルト教団が日本を食い物にしている」と言いますが、「天皇の国」が朝鮮を食い物にしたことを棚に上げてよくそんなことが言えたものです。

先にも述べましたが、日本の政権与党である自民党の悪政は、他でもない日本の「内なる悪」であり、それは日本国民が「主権者」として向き合わなければならないものです。しかるに、「主権者」である日本国民が、日本の「内なる悪」である自民党政権の悪政を何でもかんでも日本の「外」からやってきた旧統一教会のせいにして日本の「内なる悪」と向き合うことを避けているようでは、いつまでも日本は自民党政権の悪政がはびこったままです。

日帝強制動員(「徴用工」)問題は未だ決着していない。

社説:「徴用工」決着から1年 日韓協力の裾野広げたい | 毎日新聞

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朝日新聞と並んで「リベラル紙」とされる毎日新聞は、2024年3月5日朝刊の社説で「『徴用工』決着から1年」との見出しを掲げています。しかし、2023年3月6日に韓国の尹錫悦政権が「解決策」を発表した後も被害者や被害者の遺族が加害者である日本企業に対して謝罪と賠償を求め続けている*1ことに鑑みれば、日帝強制動員問題が未だ決着していないことは明らかです。

日帝強制動員問題は、尹錫悦政権が示した「解決策」では決して解決できません。なぜなら、尹錫悦政権が示した「解決策」の真の目的は、日帝強制動員被害者の尊厳を回復することではなく、「現下の戦略環境も踏まえ、日韓、日米韓の戦略的連携を一層強化していく必要がある」*2という岸田首相の言葉や「米国の最も緊密な同盟国である二つの国が、画期的で新しい、協力と連携の一章を開くことを示すものだ」*3というバイデン米大統領の言葉からわかるとおり、韓国の民主化と「ろうそく革命」によって生じた日韓「1965年体制」*4の綻びを修復し*5、究極的には米国の覇権すなわち米国主導の世界経済体制を守るための米・日・韓三角軍事同盟を維持・発展させることだからです。つまり、尹錫悦政権が示した「解決策」は、米・日・韓の権力層や経済的支配層の利益のために、加害企業の法的責任とは無関係な金銭で被害者や遺族の口を封じて日帝強制動員問題に蓋をしようとするものなのです。岸田首相は尹錫悦政権が示した「解決策」を「日韓関係を健全に戻すもの」だと言いますが、日帝強制動員被害者の犠牲の上に成り立つような「日韓関係」が、はたして本当に「健全な関係」なのでしょうか。毎日新聞は上掲の社説で「関係改善の流れを逆戻りさせてはならない」と言いますが、日韓両国の保守政権による「関係改善」が実のところ「継続する植民地主義」の体制である日韓「1965年体制」の克服を志向する動きに対する反動であることを考えると、日韓両国の保守政権による「関係改善」はむしろ日本と韓国の真の関係改善の流れを逆戻りさせるものだといえます。

日帝強制動員問題を考える上で忘れてならないのは、日帝強制動員問題は日帝による朝鮮植民地支配下における加害企業による人権侵害についての責任問題であり、すなわちそれは徹頭徹尾日本の加害企業と日本政府の責任問題であるということです。つまり、日帝強制動員被害者である梁錦徳さんの「物乞いをしてもらうような賠償金は受け取らない」「必ず、謝罪を先にしてからほかのすべてを解決すべき」*6という言葉からもわかるとおり、日帝強制動員問題は決して「カネで解決できる問題」ではなく、その真の解決のためには、日本の加害企業と日本政府が日帝強制動員の法的責任を認めて真摯に謝罪と賠償を果たすことが不可欠なのです。

*1:日本企業に勝訴した元徴用工が涙「日本に謝罪してほしい」=韓国ネット「こんなに苦しんでいるのに…」

徴用被害者遺族が不二越の株主総会に出席 謝罪と賠償求める | 聯合ニュース

*2:岸田首相「日韓関係を健全に戻すもの」 徴用工問題の解決策を評価 [徴用工問題]:朝日新聞デジタル

*3:バイデン氏「米の緊密な同盟国間の新章」 元徴用工「解決策」を歓迎 [徴用工問題]:朝日新聞デジタル

*4:“「六五年体制」とは、日本(佐藤栄作政権)と韓国(朴正煕政権)が調印した韓日基本条約や四つの協定にもとづいた、現在の韓日関係の出発点となる体制を指す。第一には米国を頂点とする垂直的系列化を基盤とする韓米日擬似三角同盟体制(日米同盟と韓米同盟)である。[……]第二にはこの同盟体制を維持し、その安定性を高めるため歴史問題の噴出を物理的暴力で抑圧するか、コントロール可能な領域におく。”(権赫泰『平和なき「平和主義」』

*5:新植民地主義的な関係である「日韓65年体制」は、その維持のために韓国の強圧的な政権を必要としますが、しかし、1987年の韓国の民主化は、強圧的な政権を倒して「日韓65年体制」に綻びを生じさせました。そして、その綻びは李明博朴槿恵政権という保守政権によって修復されたものの、文在寅政権を生み出した2016~17年の「ろうそく革命」は、再び「日韓65年体制」に綻びを生じさせました。つまり、日本の岸田政権と韓国の尹錫悦政権による「日韓関係の改善」とは、「ろうそく革命」によって生じた「日韓65年体制」の綻びを修復することなのです。

*6:徴用被害者「物乞いするような金は受け取らない」 韓国政府解決策に反発 | 聯合ニュース

春は、もう……

私は、春が好きでした。

でも、春は、もう

私にとって、とても悲しい季節になってしまいました。

私の悲しみは、いつか時間が解決してくれるのでしょうか?

いいえ

時間は何も解決してくれません。

それどころか、不可逆な時間は私を苦しめるだけです。

それでも、今日まで

私は生きています。

何のために?

さあ、何のためでしょう?

それは「神のみぞ知る」でしょうか?

でも、私はまだ

私の〈神〉の名を知らないんです。

 

追伸

ブログ名を若干変更しました。

私が今日まで生きているのと同様、特に理由はありません。

「差別する気はない」という言い訳は通用しない。

若林洋平参院議員、SNSの投稿をめぐり釈明「差別する気はない」 | TBS NEWS DIG (1ページ)

newsdig.tbs.co.jp

自民党の若林洋平参院議員はSNS上で在日クルド人に関する差別的な投稿を引用する形で、「日本の文化・しきたりを理解できない外国の方は母国にお帰りください」などと書き込みました。若林氏は「差別する気はない」と釈明しています。

 

若林洋平参院議員、SNSの投稿をめぐり釈明「差別する気はない」 | TBS NEWS DIG (1ページ)*1

自民党の若林洋平参院議員のように、差別言動を咎められると「差別する気はない」という言い訳をする人が少なくありません*2。そういう人は、差別について大きな勘違いをしています。

差別は、「差別する気」の有無という個人の主観的な問題ではなく、社会の差別構造に起因する人権侵害という客観的な問題です。それゆえ、当人に「差別する気」があろうとなかろうと、その言動が客観的に見てマイノリティへの差別を助長または誘発しマイノリティの人権と尊厳を傷つけるものであるならば、その言動はまぎれもなく許されざる差別言動なのです。

特定民族であることを理由に「国へ帰りなさい」「日本から出て行って」などの言葉を浴びせるのは、典型的なヘイトスピーチと解される。

 

自民若林氏、クルド人憎悪あおる 「国にお帰り」とSNSに投稿:東京新聞 TOKYO Web

特定の国の出身者であること又はその子孫であることのみを理由に、日本社会から追い出そうとしたり危害を加えようとしたりするなどの一方的な内容の言動が、一般に「ヘイトスピーチ」と呼ばれています (内閣府「人権擁護に関する世論調査(平成29年10月)」より)。

例えば、

(1)特定の民族や国籍の人々を、合理的な理由なく、一律に排除・排斥することをあおり立てるもの

(「○○人は出て行け」、「祖国へ帰れ」など)

 

法務省HP

https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00108.html

若林氏の「日本の文化・しきたりを理解できない外国の方は母国にお帰りください」というSNSの発言は、まさに在日クルド人を日本社会から追い出そうとするものであって、それは客観的に見て日本社会のマイノリティである在日クルド人への差別を助長または誘発しマイノリティの人権と尊厳を傷つける典型的なヘイトスピーチです。そして、先に述べたように「差別する気」の有無は問題ではありませんから、若林氏の「差別する気はない」という言い訳は通用しません。

もっとも、謝罪どころか撤回すらせず「本当に差別なんていうことを考えたこともない」と開き直る若林氏は、そもそも差別を悪いことだと思っていないのでしょう。差別を悪いことだと思っていないというのは、法務局から差別言動を人権侵犯と認定されても「差別がなくなっては困る人たちと戦ってきた。私は差別をしていない」と開き直る杉田水脈*3もそうですが、このようなまさに差別主義者といえるような人物たちが「国民の代表」たる国会議員であり、このような人物たちが所属する政党が政権与党であるということは、日本社会では民族差別や排外主義が支配的な価値観であることを物語っているといえます。

このように、民族差別や排外主義が支配的な価値観である日本社会では若林氏の発言を擁護する声も少なからずあるようですが*4、私は今般の若林氏の発言のようなヘイトスピーチを断じて許容しません。「日本の文化・しきたりを理解できない外国の方は母国にお帰りください」とのたまう若林氏ですが、若林氏のようにヘイトスピーチが違法な人権侵害である*5ことを理解できない国会議員は、速やかに議員辞職してください。