1947年5月3日に施行された日本国憲法の最大の特徴は、1条の象徴天皇制と9条の戦争放棄だ。二つの条項は不可分の一対として生まれた。天皇制を残しても、「天皇の軍隊」による軍国主義の復活にはつながらないと、国際社会を納得させる必要があったからだ。
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憲法制定過程に詳しい憲政史家の古関彰一さんは、昭和天皇が終戦直後の9月4日の帝国議会開院式で「平和国家を確立して人類の文化に寄与せむ」との勅語を出したことなどから、「天皇制の維持と平和の推進が一対であることに最も早く気づいていたのは実は昭和天皇だと思う。マッカーサーの狙いと昭和天皇の考えは一致していた」と語る。
「1条の象徴天皇制と9条の戦争放棄は不可分なのだから、天皇制を維持したい右派が9条改憲を主張するのは矛盾である」との言説がしばしば聞かれます。たしかに、歴史的経緯に鑑みれば、憲法9条の戦争放棄は天皇制の存続に反対するオーストラリアや中華民国への説得材料だったといえます。しかし、だからといって憲法1条の象徴天皇制と9条の戦争放棄が本質的に不可分であるとはいえません。むしろ、天皇制の存続は、憲法9条の平和主義の真の実現を妨げるものです。
敗戦後、「国体護持」(=天皇制国家体制の維持)に腐心する昭和天皇ヒロヒトは、米国を主体とするGHQ(連合国軍総司令部)による対日占領政策の実現に積極的に協力し*1、戦後日本が米国主導の東アジア国際秩序に組み込まれることによって「国体護持」という悲願を達成しました。そして、内外の共産主義勢力を天皇制国家体制に対する脅威であるとみなしたヒロヒトは、天皇制国家体制を米軍に守ってもらうために、米国に対して「日米安保体制」の実現を強く求めました*2。つまりヒロヒトは、「天皇制の維持と平和の推進が一対であること」ではなく、日本を利用して東アジアにおける覇権を確立したい米国を利用することが内外の共産主義勢力の脅威から天皇制国家体制を守るための最良の方策であることに最も早く気づいていたのです。リベラル派の多くが肯定的に評価するヒロヒトの「平和国家を確立して人類の文化に寄与せむ」という勅語も、己の保身と「国体護持」のための方便にすぎません。
その後、日本はヒロヒトが己の保身と「国体護持」のために米国を利用した結果の産物ともいえる「日米安保体制」の下、憲法9条があるにもかかわらずベトナム戦争(1960~75年)やイラク戦争(2003~11年)といった「米国の戦争」に加担し、皮肉な話ですが憲法9条のおかげで自らの手を血で汚すことなく暴利をむさぼってきました。そうして世界屈指の「経済大国」となった日本は、米国の東アジアにおける覇権を守るために日本に対してさらなる協力を求める米国の期待に応えるべく、1980年代の後半から「防衛力の強化」に名を借りた軍事力の増強を続け、今日では「集団的自衛権」の名の下に世界最強の軍事力を誇る唯一の軍事超大国である米国の侵略戦争に同盟国として参加できるようになりました*3。
こうしてみると、天皇制国家体制を米軍に守ってもらうための「日米安保体制」が憲法9条を骨抜きにしていることがよくわかります。米国にとって初めはたしかに9条の戦争放棄が天皇制存続の交換条件だったかもしれません。しかし、天皇制国家体制を米軍に守ってもらうための「日米安保体制」の成立以降は、米国にとって日本を利用して東アジアにおける覇権を維持・拡大するために必要な「日米安保体制」こそが天皇制存続の交換条件となりました。それゆえ、憲法9条を骨抜きにしている「日米安保体制」を必要とする天皇制の存続は、憲法9条の平和主義の真の実現を妨げるものなのです。
「1条の象徴天皇制と9条の戦争放棄は不可分である」という言説の論理に従えば、憲法9条を残しつつ天皇制を廃止することは背理でしょう。しかし、これまで述べてきたように、憲法1条の象徴天皇制と不可分なのは9条の戦争放棄ではなく「日米安保体制」であり、憲法9条を骨抜きにしている「日米安保体制」を必要とする天皇制は憲法9条の平和主義と相容れないものであることを考えると、憲法9条の平和主義を真に実現するためには、憲法9条を骨抜きにしている「日米安保体制」を解体すると同時に、憲法第1章を改正して「日米安保体制」をその存続の条件とする天皇制を廃止することがぜひとも必要なのです。