葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

佐渡金山の世界遺産推薦は、「韓国の反発」が問題なのではない。

韓国反発で佐渡金山の世界遺産推薦見送りへ…「南京」では日本が反発、「逆の立場に」 : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン

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佐渡金山の世界遺産推薦見送りについて、日本ではあたかも「韓国の反発」のせいであるかのような論調が幅を利かせています。しかし、佐渡金山の世界遺産推薦見送りが「韓国の反発」のせいだというのは、大きな勘違いです。

佐渡金山の世界遺産推薦は、「韓国の反発」があるから問題なのではなく、日本の政府や国民が朝鮮人強制労働という「負の歴史」を美化し、正当化することが問題なのです。つまり、これは日本の政府や国民が自国の「負の歴史」と真摯に向き合うかどうかの問題です。

韓国が佐渡金山の世界遺産推薦に反対するのには理由があります。それは、軍艦島世界遺産に登録する条件として日本政府がした、朝鮮人強制労働の歴史を紹介する約束を日本政府が反故にしていることです*1。日本政府は「韓国の反発がある中で推薦すれば国際社会の信用を失いかねない」ことを懸念していますが、「韓国の反発がある」云々ではなく、朝鮮人強制労働という人権侵害を正当化することに腐心する日本政府の態度が、国際社会の不信を招くのです。

佐渡金山が朝鮮人強制労働の現場であるという歴史的事実*2を否定する日本政府*3の態度に鑑みれば、今般の佐渡金山の世界遺産推薦も、先般の軍艦島世界遺産登録と同様、朝鮮人強制労働という「負の歴史」を都合よく忘れて、日本帝国主義を美化し、正当化するためのものであると言わざるを得ません。もし本当に日本政府が、朝鮮人強制労働という「負の歴史」と真摯に向き合っているならば、佐渡金山が朝鮮人強制労働の現場であるという歴史的事実を否定したり、奴隷的搾取の現場を美化したりはしないはずです。

問題なのは、政府だけではありません。政府が「負の歴史」と真摯に向き合っていないとしても、せめてマスメディアと国民の多くが朝鮮人強制労働という自国の「負の歴史」と真摯に向き合っているならば、佐渡金山の世界遺産推薦見送りがあたかも「韓国の反発」のせいであるかのような論調が幅を利かせるようなことはないはずです。しかるに、かかる論調が幅を利かせているのは、つまるところマスメディアと国民の多くも朝鮮人強制労働という自国の「負の歴史」と真摯に向き合っていないからであると言わざるを得ないでしょう。今般の問題は日本国民にとって、「日韓の政治問題」ではなく、日本国民が日帝強制動員という自国の人権侵害の歴史とどう向き合うかという、日本国民自身の問題なのです。

*1:明治産業遺産巡る約束不履行 日本に「強い遺憾」=ユネスコ | 聯合ニュース

*2:新潟国際情報大学機関リポジトリ

“1944年12月18日に佐渡鉱業所は軍需省から「管理工場」に指定され、「協和会館」で全従業員に「現員徴用令書」が伝達された。これによって朝鮮人労働者に対する強制度はさらに高まった。” 

“「募集」の期間は当初3年だったため、佐渡鉱業所では1942年1月から「募集」期限が終了する朝鮮人が順次現れ始めた。佐渡鉱業所の方針は、有無を言わさず「兎モ角全員継続就労ノ事」とすることであった。「爾後各個ノ朝鮮現地家情柄、病弱者等帰鮮若ハー時帰鮮不得巳ル者二対シテハ朝鮮現地官辺並二地許警察署ト打合ノ上適時送還ノ事」とした。佐渡鉱業所では「継続就労手続修了者ニハ対シテハ適当時期二各個二個人表彰状ト相当ノ奨励金ヲ授与」することで、朝鮮人の就労「継続」を計った。これらの事実は「募集」形式でありながら、実態は強制労働であったことをよく示している。”

*3:佐渡金山めぐる韓国の主張に「全く受け入れられない」 日本政府抗議 [岸田政権]:朝日新聞デジタル

「親日・反日」二分法的思考という日本国民の悪癖

日本国民の中には、世界を「親日」と「反日」の二つに分けたがる人が少なからず見受けられます。

日本国民は、いったい何の権利があって世界を「親日」と「反日」の二つに分けるのでしょうか。「親日反日」二分法的思考は、実に傲慢な思考です。なぜなら、それは日本に反抗することを「悪」であるとする一方で、日本に反抗せず従順であろうとすることを「善」であるとするものであって、相手を対等とは見ていない、どこまでも「日本本位」な思考だからです。そもそも、どうして「日本」に反抗してはならず、「日本」を無条件で好きにならなければならないのでしょうか。反抗してはならず、無条件で好きにならなければならない「日本」とは、いったい何様なのでしょうか。「日本」に相手を選ぶ自由があるというならば、相手にも同じ自由があるはずです。

親日」あるいは「反日」という言葉は、しばしば日本の帝国主義を正当化する文脈で使われます。すなわち、かつての日帝による侵略と植民地支配について日本の責任を問うことを「反日」だと言い、日本の責任を不問に付すことを「親日」だと言うのです。しかし、日帝による侵略と植民地支配という日本自身の「悪」を棚に上げて、かつての日帝による侵略と植民地支配について日本の責任を問うことを「反日=悪」だとあげつらうとは、盗人猛々しいにも程があります。また、かつての日帝による侵略と植民地支配の被害国と現在の日本の友好関係は、日本がそれによってかつての日帝による侵略と植民地支配についての責任を免れることができる「免罪符」には決してなりません。

日本では、「○○は親日国だから、日本は友好関係を築くべきだ」ということがしばしば言われます。しかし、「相手が自分を好きならば、自分も相手を好きになってやろう」というのは、真の友情ではなく、相手を自分の思い通りにしたいという、ただの支配欲です。つまり、「○○は親日国だから、日本は友好関係を築くべきだ」と言う人が本当に築きたいのは、友好関係ではなく宗主関係なのです。日本が他国と友好関係を築く上で大切なのは、日本がその国との友好関係を築きたいと真摯に願うことであって、相手国が「親日国」であるかどうかは取るに足らないことです。

日本国民は、「親日反日」二分法的思考をそろそろ捨てるべきです。それは、日本国民が世界の人々と真の友好関係を築くために必要なだけでなく、日本国民が「日本」という共同の幻想から解放されて真に自由な人間として生きるためにも必要なのです。

釜山の『うまいもの』たち

以前にも書きましたが*1、韓国を代表する港町である釜山は、私にとって特別な思い入れのある街です。私は、そんな愛してやまない釜山をこれまで何度も訪れ、そして数多くの釜山の『うまいもの』たちに出逢ってきました。

本稿では、そんな釜山の『うまいもの』たちの中から、代表的な名物料理を3つご紹介します。

 

1.テジクッパ(돼지국밥)

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釜山の名物料理といえば、おそらく真っ先にあげられるのが、このテジクッパ(豚肉のスープご飯)*2でしょう。テジクッパは、釜山旅行では必ず食べたい、まさに釜山グルメの中の釜山グルメであると言っても過言ではありません。もしかすると韓国映画ファンの中には、釜山を訪れたことがなくても、釜山を舞台にした映画『弁護人』を通してテジクッパを知っている人もいるかもしれません。

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日本では「韓国料理=辛い」というイメージが強いですが(もっとも、「韓国料理=辛い」というのは半分正解で、半分間違いなのですが)、コクがありながらもクセがなく(ですので、とんこつラーメンのスープの香りが苦手な人でも大丈夫だと思います。)さっぱり優しい豚骨スープに豚肉がたっぷり入ったテジクッパは、辛いものが苦手な人でも楽しめる韓国料理です。また、テジクッパはいわゆる定食スタイルですので、一人旅でも気軽に楽しめます。私のような酒飲みは、豚骨の旨みがきいた濃厚なスープをすすりながら釜山の地焼酎「大鮮」を飲めば、独り飲みでも至福のひとときを過ごせます。

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西面テジクッパ通り

釜山を代表する名物料理だけあって、テジクッパ店は釜山の至る所にありますが、初めての方には、有名店が集まっている「西面テジクッパ通り」をおすすめします。もちろん、「西面テジクッパ通り」のお店以外にも美味しいお店はたくさんありますので、いろいろなお店の味を食べ比べてみて、ぜひお気に入りのお店を見つけてみてください。

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ジノ テジクッパ

 

2.ミルミョン(밀면)

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釜山の代表的な名物料理としてテジクッパと双璧をなすのが、釜山の冷麺であるこのミルミョン*3です。「ミル(밀)」とは小麦のことで、蕎麦粉と緑豆粉を麺の原料とする平壌冷麺やサツマイモまたはジャガイモのでん粉を麺の原料とする咸興冷麺と異なり、このミルミョンは小麦粉を麺の原料とするのが特徴です。冷麺はもともと平壌や咸興といった朝鮮半島北部の料理でしたが、朝鮮戦争で38度線以北から釜山に避難してきた人たちが、戦時中で冷麺の材料が手に入りづらかったことから米軍の支援物資である小麦粉で麺を打ち始めたのがミルミョンの始まりと言われています。

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小麦の麺だからでしょうか、ミルミョンの麺はもっちりとした程よいコシで喉越しも良く、弾力の強さが特徴の一般的な冷麺の麺とはまた違った美味しさです。また、スープに韓方(漢方)材料を使っているお店もあり、滋養に満ちたスープは夏の暑さや辛い料理で疲れた胃腸を優しく癒してくれます。実際、私はかつて釜山を旅したときに、生の青唐辛子を焼酎のツマミとしてついついかじりすぎてしまい胃腸の調子を少し崩してしまったことがあったのですが、韓方スープのミルミョンを食べたら胃腸の調子がみるみる回復した、なんてことがありました。

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ハルメカヤミルミョン

テジクッパ店と同様に、ミルミョン店も釜山の至る所にありますので、ラーメン店をはしごするようにミルミョン店をはしごしてみるのも楽しいかもしれません。

 

3.テグタン(대구탕)

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港町・釜山といえば、やはり魚料理は外せません。釜山の魚料理で多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、おそらく刺身でしょう。しかし、私が本稿でご紹介したいのは、刺身ではなくテグタン*4

「テグタン」というと、日本では焼肉店でおなじみの辛い牛肉スープを思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、韓国の「テグタン(大口湯)」は真鱈の鍋であり、名前は同じですが、日本の焼肉店でおなじみの「テグタン(大邱湯)」*5とは別の料理です。

テグタンはソウルでも食べられますが(ソウルでは三角地のテグタン通りが有名です*6。)、釜山のテグタンは、ソウルのテグタンと違って辛くなく、塩ベースの優しい味付けが特徴です。鱈の出汁がきいた程よい塩加減のスープに身がしっかりした真鱈がたっぷり入ったテグタンは、釜山を訪れたらぜひ食べたい釜山の名物料理です。

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コマテグタン

 

もちろん、釜山の『うまいもの』たちは、このほかにもまだまだあります。終息の兆しがなかなか見えないコロナ禍のせいで旅行もままならない昨今ですが、コロナ禍が終息しまた旅行できる日が来ましたら、本稿をお読みくださったみなさまも、ぜひ釜山を訪れて、釜山の『うまいもの』を堪能してみてください。

日本とその国民が朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と呼ぶべきではない理由

日本では、朝鮮民主主義人民共和国の呼称として「北朝鮮」が定着しています。

しかし、日本とその国民は、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と呼ぶべきではありません。なぜなら、「北朝鮮」という呼称は、日本が朝鮮民主主義人民共和国を国家として認めないという趣旨であり、また、「北朝鮮」という呼称が日本で一般的に使われるように経緯に鑑みると、「北朝鮮」という呼称には朝鮮民主主義人民共和国に対する敵意が込められているからです*1

たしかに、日本政府は日韓基本条約大韓民国を「朝鮮にある唯一の合法的な政府である」としています(第3条参照)。しかし、日帝による朝鮮植民地支配について日本に責任があり、また、それゆえに朝鮮半島の分断についてアメリカや旧ソ連だけでなく日本にも責任の一端があることに鑑みれば、日本とその国民に「朝鮮にある唯一の合法的な政府」を自分たちに都合よく選定する権利など本当はないはずです。もっとも、これに関しては「南北分断の固定化」という難しい問題もありますが、しかし、それは日本とその国民が朝鮮民主主義人民共和国を自分たちに都合よく否定することを正当化する理由にはなりません。

おそらく、右翼だけでなくリベラル派の中にも「『北朝鮮』を国家承認することは、すなわち『北朝鮮』の独裁体制を容認することだ」と言う人がいるでしょう。しかし、「『北朝鮮』の独裁体制」云々は、朝鮮民主主義人民共和国が国家である事実を日本とその国民が認めることとは何ら関係がありません。なぜなら、そもそも日本政府が大韓民国を「朝鮮にある唯一の合法的な政府である」としているのは、米日韓三角軍事同盟を支える「日韓65年体制」という「陣営の論理」によるものだからです。それに、「『北朝鮮』の独裁体制」云々が朝鮮民主主義人民共和国を国家として認めないことが許される理由になるのであれば、1965年当時軍事独裁体制だった大韓民国を「朝鮮にある唯一の合法的な政府である」とすることも妥当ではなかったことになるはずです。

私は決して、日本とその国民は朝鮮民主主義人民共和国の政治体制を批判してはならないと言うつもりはありません。しかし、批判というものは、相手を対等な存在として認めた上に初めて成り立つものです。つまり、日本とその国民が朝鮮民主主義人民共和国の政治体制を正しく批判したいのであれば、朝鮮民主主義人民共和国が国家である事実を認め、朝鮮民主主義人民共和国に対する蔑視をやめる必要があるのです。朝鮮民主主義人民共和国を自分たちに都合よく否定し、朝鮮民主主義人民共和国に対する蔑視をやめない日本とその国民による朝鮮民主主義人民共和国への「批判」は、批判ではなく朝鮮の「悪魔化」に過ぎません。

護憲派市民は、「日本が戦争に巻き込まれる」という被害者意識をそろそろ捨てるべきである。

日米作戦・台湾有事「沖縄を戦場にさせない」超党派組織を結成へ 学者ら、保守系にも賛同募る - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト

ryukyushimpo.jp

いわゆる「台湾有事」で再び沖縄が戦場にされることがあってはならないのはもちろんです。

もっとも、「台湾有事」で戦場にされるのは、決して沖縄だけではありません。「台湾有事」では、アメリカ軍と日本軍「自衛隊」によって、沖縄のみならず、台湾、そして中国大陸も戦場にされてしまうのです。日本人の多くは、「台湾有事」について「アメリカの戦争に日本が巻き込まれる」と言いますが、それは大きな勘違いです。日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのではなく、主体的かつ積極的に関与するのです。日本軍「自衛隊」が進める琉球弧の軍事要塞化*1は、まさにその準備なのです。「台湾有事」では、沖縄は攻撃目標になる*2だけでなく、アメリカ軍と日本軍「自衛隊」の攻撃用軍事拠点になる*3のだということを、日本人は決して忘れてはなりません。

護憲派市民は、よく「戦後日本は、憲法9条のおかげで戦争に巻き込まれずに済んだ」と言います。たしかに、戦後日本は、憲法9条のおかげで自らの手を血で汚さずに済んでいます。しかし、戦後日本は、憲法9条があるにもかかわらず朝鮮戦争ベトナム戦争といった「アメリカの戦争」に加担し、暴利をむさぼってきました。そして、いまや日本は、憲法9条があるにもかかわらず世界第5位(2021年現在)の強大な軍事力を持つ*4軍事大国となりました。このような日本の再軍国主義化を推し進めてきたのは、たしかに自民党政権とそれを支える右派国民です。しかし、「(戦後日本が、憲法9条があるにもかかわらず朝鮮戦争ベトナム戦争といった「アメリカの戦争」に加担し、暴利をむさぼってきたにもかかわらず)戦後日本は、憲法9条のおかげで戦争に巻き込まれずに済んだ」と寝言を言いながら、暗い「負の歴史」のことなど忘れて「戦後日本の平和」を謳歌してきた護憲派市民も、決して責任を逃れることはできません。

憲法9条は、日本が戦争に巻き込まれないための「お守り」ではなく、日本が再び戦争の加害者にならないことを誓うものです。護憲派市民は、そのことを改めて認識し、「日本が戦争に巻き込まれる」という被害者意識を捨てるべきです。それは、憲法9条を本当の意味で護るために必要なことです。

私はヘイトクライムとその根底にある日本社会の構造的差別を絶対に許容しない。

京都・ウトロ放火は「ヘイトクライムの可能性」 市民団体が根絶目指し声明|社会|地域のニュース|京都新聞

 

東大阪市の民団支部にハンマー投げ込まれる 窓ガラス破損 | 聯合ニュース

 

在日コリアンが暮らす街や在日コリアンの民族団体を標的としたヘイトクライムが相次いでいます。このようなヘイトクライムは、日本社会がヘイトスピーチを(口では「ヘイトスピーチ、許さない。」と言いながら*1)「表現の自由」の名の下に許容してきた結果として生み出されたものであるといえます。つまり、このようなヘイトクライムを生み出すに至ったヘイトスピーチは、もはや「明白かつ現在の危険」であると言わざるを得ないのです。

もっとも、ヘイトクライムヘイトスピーチは、ヘイトクライムの実行犯やヘイトスピーチを撒き散らすネット右翼レイシストだけの問題ではありません。もちろん、ヘイトクライムヘイトスピーチを非難することは、「ヘイトクライムヘイトスピーチは悪である」という倫理観を確立するうえで大切なことです。しかし、ヘイトクライムヘイトスピーチヘイトクライムの実行犯やヘイトスピーチを撒き散らすネット右翼レイシストだけの問題に矮小化してしまったら、いつまでたってもヘイトクライムヘイトスピーチをなくすことはできないでしょう。なぜなら、ヘイトクライムヘイトスピーチは、究極的には日本社会の構造的差別が生み出すものであって、差別の構造をこわさなければ、決してヘイトクライムヘイトスピーチをなくすことができないからです。そして、日本社会のマジョリティであれば、たとえ「差別に反対する良心的日本人」であっても差別の構造をこわす責任から逃れることはできないのです。

日本政府の政策によって差別されている朝鮮学校は、ヘイトクライムヘイトスピーチの格好の標的となっています*2また、在日コリアンによる民族系金融機関がヘイトクライムの標的とされた「イオ信金放火事件」では、犯人の男性が「慰安婦問題で韓国に悪いイメージを持っていた」と犯行動機を語っています*3。これらのことから分かるように、日本政府による在日コリアンへの政策的差別や日本の植民地支配下における人権問題の正当化あるいは韓国政府への責任転嫁が、ヘイトクライムヘイトスピーチの動機付けに大きな影響を与えています。日本政府による在日コリアンへの政策的差別や日本の植民地支配下における人権問題を理由に在日コリアンや韓国に対して憎悪をたぎらせるのは本来筋違いですが、すっかり権力の下僕と化したマスメディアが常日頃から韓国や朝鮮、在日コリアンに対する憎悪や蔑視を煽り立てる日本社会では、もはや権力に同調して韓国や朝鮮、在日コリアンを敵視することが日本国民として「常識的な態度」であり、それゆえにレイシストネット右翼のみならず「ごく普通の善良な日本国民」も当たり前のように韓国や朝鮮、在日コリアンに対して「反日許すまじ」と憎悪をたぎらせるのです。

前述したように、ヘイトクライムヘイトスピーチは、究極的には日本社会の構造的差別が生み出すものですが、日本社会の差別構造を必要としているのは国家権力であり、究極的には主権者である日本国民です。それゆえ、ヘイトクライムヘイトスピーチをなくすためには、主権者であり日本社会のマジョリティである日本国民が自らの手で日本社会の差別構造をこわしていかなければならないのです。

日本社会の差別構造は、天皇を頂点とするものであり、「同化と排除」に貫かれた「国民」概念がそれを支えています。つまり、日本社会のマジョリティである日本国民が自らの手で日本社会の差別構造をこわしていく上で、天皇制と「国民」概念から自分を解放する(そして、これまで「国民」概念によって民主主義から排除されていた人たちと共に真に自由な主権者たる人民になる)ことは避けて通ることができないのです。天皇制と「国民」概念から自分を解放することは、「『天皇の国』の主権者たる『国民』」という特権的地位を捨てること(ただし、前述のとおり、それはこれまで「国民」概念によって民主主義から排除されていた人たちと共に真に自由な主権者たる人民になることです。)でもありますが、それができない日本国民の謳う「反差別」は欺瞞と言わざるを得ません。

さて、前述したように、日本政府による在日コリアンへの政策的差別や日本の植民地支配下における人権問題を理由に在日コリアンや韓国に対して憎悪をたぎらせるのは筋違いですが、日帝による朝鮮植民地支配の歴史を正しく認識し、歴史と真摯に向き合えば、それは容易にわかることです。また、日帝による朝鮮植民地支配の歴史を正しく認識し、歴史と真摯に向き合うことは、近代以降今日に至るまで日本社会の差別構造と植民地主義を支えてきた「朝鮮蔑視観」を克服するためにも必要です。それゆえ、ヘイトクライムヘイトスピーチをなくすためには、ヘイトクライムヘイトスピーチを非難するだけでなく、日帝による朝鮮植民地支配の歴史を正しく認識し、歴史と真摯に向き合うことために歴史を学ぶことも、決しておろそかにしてはならないのです。

外国籍であることは、生存権侵害を正当化する理由にはならない。

「外国籍理由に生活保護却下は違法」 ガーナ人男性が千葉市提訴 | 毎日新聞

 

千葉市が外国籍であることを理由にガーナ国籍の男性の生活保護申請を却下したことは、国籍による差別であり、生存権侵害であると言わざるを得ません。

たしかに、2014年に最高裁は、生活保護法第1条及び第2条がその適用の対象を「国民」と定めていることから「外国人は、行政庁の通達等に基づく行政措置により事実上の保護の対象となり得るにとどまり、生活保護法に基づく保護の対象となるものではなく、同法に基づく受給権は有しない」との判断を示しました*1(なお、この判決が「外国人への生活保護は違法と判決を下した」ものだとするのは誤りです*2。)。しかし、この最高裁の判断は、生活保護制度が生存権の保障(憲法25条)を具体化したものであり、生存権が人権であることを軽視するものであって、妥当ではありません。

生存権憲法上の人権であり、人権は「人種、性、身分、国籍などの区別に関係なく、人間であることに基づいて当然に享有できる権利」です(人権の普遍性)。つまり、人権である生存権は普遍的な権利なのですから、生活保護申請者が外国籍であることは、生存権侵害を正当化する理由には決してならないのです。

前述のとおり、生活保護制度は普遍的な権利である生存権を具体化したものですから、「国民」の文言に拘泥するべきではなく、生活保護法第1条及び第2条で規定する「国民」とは、日本国内に住む外国人を広く含むものであると解すべきです。また、そのように解することは、日本も批准している*3経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)第9条*4(この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。)の趣旨に鑑みても妥当です。

外国人の生活保護を否定する論者は、よく「外国人の生活保護は出身国がやるべきことだ」と言います。しかし、人権は「国民の権利」ではなく人間の権利ですから、日本国は人権である生存権を守る責任を「国民」ではなく人間に対して負っています。また、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」については、現時点における生活の本拠こそが重要なのであって、国籍は重要ではありません。それゆえ、日本で生活している外国人の生活保護は、日本国の責任において実施すべきことなのです。

以上より、私は、千葉市によるガーナ国籍の男性に対する生存権侵害に断固として抗議します。そして、生存権保障における国籍差別の撤廃を求めます。