葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「親日・反日」二分法的思考という日本国民の悪癖

日本国民の中には、世界を「親日」と「反日」の二つに分けたがる人が少なからず見受けられます。

日本国民は、いったい何の権利があって世界を「親日」と「反日」の二つに分けるのでしょうか。「親日反日」二分法的思考は、実に傲慢な思考です。なぜなら、それは日本に反抗することを「悪」であるとする一方で、日本に反抗せず従順であろうとすることを「善」であるとするものであって、相手を対等とは見ていない、どこまでも「日本本位」な思考だからです。そもそも、どうして「日本」に反抗してはならず、「日本」を無条件で好きにならなければならないのでしょうか。反抗してはならず、無条件で好きにならなければならない「日本」とは、いったい何様なのでしょうか。「日本」に相手を選ぶ自由があるというならば、相手にも同じ自由があるはずです。

親日」あるいは「反日」という言葉は、しばしば日本の帝国主義を正当化する文脈で使われます。すなわち、かつての日帝による侵略と植民地支配について日本の責任を問うことを「反日」だと言い、日本の責任を不問に付すことを「親日」だと言うのです。しかし、日帝による侵略と植民地支配という日本自身の「悪」を棚に上げて、かつての日帝による侵略と植民地支配について日本の責任を問うことを「反日=悪」だとあげつらうとは、盗人猛々しいにも程があります。また、かつての日帝による侵略と植民地支配の被害国と現在の日本の友好関係は、日本がそれによってかつての日帝による侵略と植民地支配についての責任を免れることができる「免罪符」には決してなりません。

日本では、「○○は親日国だから、日本は友好関係を築くべきだ」ということがしばしば言われます。しかし、「相手が自分を好きならば、自分も相手を好きになってやろう」というのは、真の友情ではなく、相手を自分の思い通りにしたいという、ただの支配欲です。つまり、「○○は親日国だから、日本は友好関係を築くべきだ」と言う人が本当に築きたいのは、友好関係ではなく宗主関係なのです。日本が他国と友好関係を築く上で大切なのは、日本がその国との友好関係を築きたいと真摯に願うことであって、相手国が「親日国」であるかどうかは取るに足らないことです。

日本国民は、「親日反日」二分法的思考をそろそろ捨てるべきです。それは、日本国民が世界の人々と真の友好関係を築くために必要なだけでなく、日本国民が「日本」という共同の幻想から解放されて真に自由な人間として生きるためにも必要なのです。