葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

大日本帝国は、決して「過去の日本」ではない。

日本国民が自国の政権やマスメディアを批判するにあたって「まるで『北朝鮮』のようだ」と朝鮮を引き合いに出すことが、朝鮮に対する批判ではなく悪魔視であることは、過去のエントリで述べたとおりです*1。しかし、「まるでかつての日本である大日本帝国のようだ」というのも、それはそれで問題があると思います。

おそらく、日本国民の多くが「民主主義国家である戦後の日本は、大日本帝国とは違う」と言うはずです。しかし、はたして本当にそう言い切れるでしょうか。

大日本帝国は、決して『過去の日本』ではない」と言うと、きっとリベラル派の皆さんから「お前は『戦後民主主義』(あるいは『戦後平和主義』)を否定するのか」とお叱りを受けるでしょう。もちろん、私は「戦後民主主義」あるいは「戦後平和主義」の全てを否定するつもりなどありません。しかし、「民主主義国家である戦後の日本は、大日本帝国とは違う」はずなのに、なぜいまだに国旗として日本帝国主義の象徴である「日の丸(日章旗)」を使い続けたり*2自衛隊旗自衛艦旗)として日本軍国主義の象徴である「旭日旗」を使い続けたり*3するのでしょうか。そして、なぜ日本の帝国主義的侵略性の根幹となった天皇*4が今もなお存続しているのでしょうか。日本の人民が自らの手で「日の丸」と「旭日旗」を破り捨て、そして天皇制を廃止しなければ、「民主主義国家である戦後の日本は、大日本帝国とは違う」とは決して言えません。

敗戦後の日本人民が「戦後の日本は民主主義国家である」と認識するようになったのは、日本人民が自らの力で民主化を成し遂げていない点に鑑みれば、おそらく「『お上』が『戦後の日本は民主主義国家である』と言うから」なのでしょう。しかし、「『お上』がそう言うから、そうなのだ」という思考は、「自分たちのことは自分たちで決める」という民主主義の精神とはおよそかけ離れたものであるといえます。

戦後民主主義」あるいは「戦後平和主義」の理念が素晴らしいことは、もちろん否定しません。しかし、皮肉にもそれらは、大日本帝国と本質的に変わらない「戦後日本」が「大日本帝国とは違う、民主主義国家である」と人民を誤解させ、日本の真の民主化を実現する上で障壁となっているように思えてなりません。そして、「大日本帝国とは違って、戦後の日本は民主主義国家である」という人民の誤解は、日本の真の民主化を実現する上で障壁となっているだけにとどまらず、「『遅れたアジア』と違って、戦後の日本は成熟した民主主義国家である」という慢心を生み、それは植民地主義を再生産しています。

大日本帝国を「過去の日本」にするためには、何よりもまず「大日本帝国とは違って、戦後の日本は民主主義国家である」という間違った認識を改め、日本の民主化は未だ成し遂げられていないという現実を正しく認識しなければなりません。そして肝要なのは、大日本帝国と本質的に変わらない「戦後日本」を変えること、つまり日本の人民が自らの手で「日の丸」と「旭日旗」を破り捨て、そして日本の帝国主義的侵略性の根幹となった天皇制を廃止することです。そうして初めて、日本人民は「民主主義国家である戦後の日本は、大日本帝国とは違う」と言えるようになるでしょう。

*1:「まるで『北朝鮮』のようだ」は、「北朝鮮」に対する批判ではなく、朝鮮に対する悪魔視である。 - あしべの自由帳

*2:「日の丸」にまつわる誤解 - あしべの自由帳

*3:旭日旗は、排外主義者が使うから排外主義の象徴なのではない。 - あしべの自由帳

*4:なお、「象徴天皇制」は戦前天皇制を象徴機能に純化したものであって、戦前天皇制と全く異なるものではありません。この点、戦前天皇制の象徴性と戦後天皇制の象徴性とは本質的に異なると解するのが憲法学の通説ですが、しかし、両者に共通する権威主義的な国民統合という点に鑑みれば、はたして戦前天皇制の象徴性と戦後天皇制の象徴性とは本質的に異なるといえるかどうかは甚だ疑問です。

本当に大事なのは「経済」ではなく、人民の生活保障だ。

「感染防止は大事だが、経済悪化の影響は深刻。バランスの取り方が重要」:日経ビジネス電子版

 

新型コロナウイルス感染症への政策対応について、多くの国民が「感染拡大防止は大事だが、経済も大事だ」と口にします。

たしかに、コロナ禍による経済の停滞は国民生活に多大な影響を及ぼすでしょう。しかし、感染拡大防止の対立利益を「経済」とすることに、私はどうしても違和感を覚えます。

政府肝入りの「Go Toキャンペーン」などのことを考えてみれば分かると思いますが、「感染防止は大事だが、経済も大事だ」というのは、実のところブルジョアたちの富を守るためのペテンです。つまり、資本主義という搾取システムによって暴利を貪るブルジョアたちが、感染拡大防止対策によってそのシステムが停止してしまうことで儲けを失うことを恐れ、歯車を回す奴隷である労働者人民を労働と消費に駆り立てるべく、「経済を回さなければ自分たちの生活を守れないぞ」と言って彼らをペテンにかけるのです。

これに対し、きっとブルジョワたちは「『働かざる者食うべからず』だ。それに、経済を回さなければ社会保障の財源だって確保できないだろう」と言うでしょう。しかし、そもそもブルジョワたちの儲けのおこぼれに与れなければ労働者人民が生活できないような社会経済システムがおかしいのです。それに、労働者人民は搾取を甘受しなければ生存権を保障されないというのも、実にふざけた話です。労働者人民の搾取を前提とする「社会保障」は、たとえそれがどんなに立派なものであったとしても、つまるところ搾取を正当化するための方便でしかないと思います。

今般の新型コロナウイルス禍のような人民の生存にかかわる問題に適切に対応するためには、やはり根本的にはブルジョアたちが労働者人民の生殺与奪の権を握るような社会経済システムは変えなければなりません。ただ、もちろんそれは一朝一夕にできることではありません。しかし、だからといって「感染拡大防止が大事か、それとも経済が大事か」という間違った議論をいつまでも続けてよいということにはなりません。本当に大事なのは「経済」ではなく、人民の生活保障です。そして、それは感染拡大防止のためにも大事なことなのです。

安倍氏は、どこまで強制労働被害者を冒涜する気なのか。

 

軍艦島の強制労働被害者の訴え*1を「いわれなき中傷」呼ばわりする日本の前首相・安倍晋三氏は、いったいどこまで厚顔無恥で冷酷無情なのでしょうか。毎日新聞安倍氏の戯言を「韓国(を)やゆ」*2と書いていますが、これは「韓国(を)やゆ」ではなく軍艦島の強制労働被害者に対する冒涜です。このように何の良心の呵責もなく日帝植民地支配下における人権侵害の被害者を冒涜する人間が「お詫びと反省」を口にしたところで*3、それが信用されるはずがありません。

「いわれなき中傷への反撃はファクトを示す事が一番でしょう」と勝ち誇ったように語る安倍氏は、まさか長崎造船所で働かされた台湾人徴用工の給料袋や賞与袋が存在するという「ファクト」で端島炭鉱(軍艦島)の強制労働を否定できると本気で思っているのでしょうか。論理的に考えれば、長崎造船所で働かされた台湾人徴用工の給料袋や賞与袋が存在するからといって端島炭鉱(軍艦島)の強制労働がなかったということにはならないというのは、すぐに分かることです。安倍氏のような極右歴史修正主義者が見たい「ファクト」だけが、ファクトのすべてではありません。

「ファクト」云々について言えば、産業遺産情報センターを訪れた安倍氏が「いわれなき中傷をぜひ跳ね返してもらい、日本の力強い産業化の歩みを伝えてほしい」と述べたことは、産業遺産情報センターが、軍艦島ユネスコ世界文化遺産に登録する際に設置することを日本政府が約束した「犠牲者を記憶にとどめるためのインフォメーションセンター」*4ではなく、軍艦島の歴史を歪曲し奴隷的労働を美化するための施設である*5というファクト、そして日本政府が軍艦島ユネスコ世界文化遺産に登録する際にした約束を守っていないというファクトを、改めて知らしめたといえます。もし、これからも日本政府が約束を守らず軍艦島の歴史を歪曲し奴隷的労働を美化し続けるのであれば、ユネスコ軍艦島世界文化遺産登録を取り消すべきです。もちろん、軍艦島の強制労働問題は、軍艦島世界文化遺産登録が取り消されただけでは決して終わりませんが。

 

honto.jp

 

 

肝要なのは、世界を変えることである。

「哲学者たちは、世界をいろいろに解釈しただけである。肝要なのは、それを変えることである。」――カール・マルクス

 

生活が苦しく社会に不平不満を抱く人に対して、よく「社会を変えるより、自分を変えよう」と言う人がいます。

たしかに、社会を変えることは決して簡単ではありません。しかし、だからといって平気で人を殺すような社会に合わせて自分を変えたりしていたら、いずれ殺されてしまうでしょう。もっとも、「社会を変えるより、自分を変えよう」論者は、「社会に合わせて自分を変えても殺されはしない。私が『成功者』として人生を謳歌しているのが、その何よりの証左だ」と言うかもしれません。ですが、それはその「成功者」が、平気で人を殺すような社会で「殺す側」に立っているということです。

そもそも、個人の生活が苦しいのは、その個人が社会に合わせて自分を変える努力を怠っているからではなく、人をカネを生み出す道具としてしか見ないこの社会のシステムが原因です。そして、そのシステムを変えたくない連中、すなわちそれによって暴利を貪る連中と、連中に仕えておこぼれに与るペテン師どもが、社会のシステムの問題を個人の努力の問題にすり替えているのです。

人をカネを生み出す道具としてしか見ないこの社会のシステムが生み出す生活苦からわれわれ労働者人民が解放されるには、この社会のシステムを変えるしかありません。しかし、その真実が白日の下にさらされても、資本家に仕えるペテン師どもは「社会に合わせて自分を変える努力をすることで、この社会のシステムが生み出す利益に与る階級に加わればいい」とあなたや私の耳元で甘く囁くでしょう。もちろん、資本家どもの誘いに乗るかどうかは個人の自由です。ただ、はたしてあの強欲な連中が分け前をやすやすと与えてくれるでしょうか。それに、あなたや私が連中の分け前に与るまでに殺されないという保証はありませんし、もし運よく連中の分け前に与ることができたとしても、あなたや私に殺された者たちの血で汚れた手で虐げられし者たちの血と汗と涙で汚れた札束を掴むことになるでしょう。

もちろん、一人の力で社会を変えることができるなどと私は言うつもりはありません。それに、もし社会を変えたいのは自分だけだと私が思っているとしたら、それは私の思い上がりです。あなたや私の隣には、同じように社会を変えたいと思っている同志がいるはずです。そうした一人ひとりの力が合わされば、人をカネを生み出す道具としてしか見ないこの社会のシステムは必ず変えられます。こんな社会のシステムによって殺し殺されるのは、もう終わりにしましょう。

「多数決」は民主主義の本質ではなく、「代議制」が民主主義のすべてではない。

日本国民の間には、民主主義にまつわる二つの根強い誤解があります。一つは「民主主義の基本は多数決である」という誤解であり、もう一つは「代議制が民主主義のすべてである」という誤解です。

民主主義とは、読んで字のごとく「民」が「主」だということであり、その本質は「治者と被治者の自同性」、すなわち「治める者と治められる者が同一である」ということです。かかる民主主義の本質に従えば、人民の一人ひとりが平等な主権者ですから、政治参加の方法として直接民主制を採用し、そこでの意思決定は全会一致の方式によるものとするのが、民主主義システムの本来あるべき形だといえます。しかし、実際に多数の有権者が一堂に会する場もなく、また平等な発言を認めたうえで全会一致の方式による政治的意思決定を行うことは時間的にも困難であるので、いわば「次善の策」として代議制を採用し、そこでの意思決定は多数決の方式によるものとするのです。もっとも、この見解に対しては、代議制に固有の意義や価値があると考える立場から「それは代表者の責任を軽視するもの」だという批判もあるでしょう。たしかに、直接民主制を極端に重視すれば、代表者は人民の「使者」に過ぎないといえるかもしれません。しかし、人民の主権を重視すること自体は、必ずしも直接民主制を極端に重視することであるとは限らず、人民の主権を重視することと代表者に固有の意義を認めてその責任を重視することは、決して矛盾しないはずです。それゆえ、代議制を「次善の策」であるとする見解を「代表者の責任を軽視するもの」だと批判することは、必ずしも妥当ではないと私は思います。

このように、「多数決」は決して民主主義の本質ではなく、また「代議制」が民主主義のすべてではありませんから、それらは「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に反するものであってはなりません。代議制民主主義における多数決による合意形成が、少数意見を尊重し十分に議論を尽くした上でなされたものでなければならない理由は、まさにここにあります。つまり、「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に従えば、人民の一人ひとりが主権者として平等ですから、少数意見を尊重し十分に議論を尽くさなければならないのです。たとえ議会で得られた多数決の結果であっても、少数意見が尊重され十分に議論が尽くされたのでなければ、それは正当性を持ち得ません。また、実際の代議制システムが「治者」と「被治者」の乖離を生じさせるものであるとすれば、それはもはや「代議制民主主義」とはいえません。つまり、選挙制度と議会制度が存在しさえすれば民主主義であるというのは、大きな誤解です。本当に大切なのは、「器」よりも「中身」です*1選挙制度と議会制度は、あくまでも「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質を実現する手段なのです。

ある哲学の先生が「よく学生から、『ほんとは直接民主主義がいいけど、それはできないから次善の策として間接民主制を採っている』みたいなことを言われるんですけど、いったい誰がそんなことを言ったのだろうか」と語っている*2(なお、「直接民主制が本来行われるべきであるが、実際にそれを行うことは技術的・物理的に困難であるため、次善の策として代議制を採用する」というのは、いわゆる「プープル主権」論です。)ことから、もしかすると私の理解を「オマエの理解は間違っている」と言う人もいるかもしれません。もちろん、私の理解を間違っていると思うのはその人の自由ですし、私は自分の理解を完全無欠のものだと言うつもりはありません。しかし、学者の言うことは絶対に正しいと信じこみ、代議制を「次善の策」であるとする見解を間違いだと決めつけて、代議制を民主主義の本質から要請されるものだと考えるのは、ややもすると人民が「治者」であることを隠蔽し、忘却させるきらいがあります。さらに言えば、もはや代議制は、「治者と被治者の乖離」を隠蔽し、本来は人民が「治者」であることを忘れさせることで、人民の政治に対する関心を遠ざけるための欺瞞の手段と化してしまっている(つまり、人民の「政治的無関心」は、単なる「主権者意識」の問題ではなく、代議制という民主主義システムに内在する構造的欠陥の問題だということです。)のではないでしょうか。そうだとすれば、議会制民主主義を絶対視することは、それこそ人民の政治に対する関心を遠ざけて専横を極めたい権力者の思う壺でしょう。

ただ、「直接民主主義VS.間接民主主義の二項対立発想ではダメ」だというのは、たしかにそのとおりです。私も、決して「代議制に固有の意義や価値があると考えるのは間違いだ」と言いたいわけではありません。私が言いたいのは、「代議制と多数決が民主主義のすべてである」と誤解して「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質を忘れ、デモや抵抗運動といった直接民主主義の実践を軽視あるいは侮蔑したり「数の暴力」を正当化したりすることが問題だということです。

民主主義について議論するにあたっては、常に「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に立ち返ることを忘れてはなりません*3

日本軍性奴隷制問題は「国同士の歴史的対立」ではない。

少女像の撤去、ベルリンの区が指示 韓国系の市民団体に:朝日新聞デジタル

 

少女像の撤去を指示したベルリン市ミッテ区のフォンダッセル区長の「言い訳」は、ナチズム批判について「ナチス・ドイツの行為のみを対象とし、それは世界各地で(ナチス信奉者のいら立ちを招くものであるから、(ナチス信奉者が暮らす)地域の調和を損なわないために個人同士の思想の対立について特定の立場を取るのは慎まねばならない」と言うようなものです。フォンダッセル区長は「日本やベルリンでいら立ちを招いた」とおっしゃいますが、平和の少女像にいら立ちを覚える人たちがどのような人たちであるかは、ナチズム批判にいら立ちを覚える人たちがどのような人たちであるかを考えれば容易に分かるはずです。

たとえ平和の少女像が旧日本軍の行為のみを対象とするものだとしても、日本軍性奴隷性問題は「国同士の歴史的対立」ではありません。日本軍性奴隷制度は植民地支配下での人権侵害であり、つまりそれは人権問題という普遍的な問題です。そして、それは人権問題という普遍的な問題ですから、決してアジアだけの問題ではありません。例えば、もし日本の音楽アーティストによる「ナチス風衣装」*1に関して、日本人が「ナチズムは欧米におけるイデオロギー対立の問題であって、日本人には関係ない。日本の音楽アーティストが『ナチス風衣装』を着てパフォーマンスすることは表現の自由だ」と主張したら、フォンダッセル区長は納得されるでしょうか。たとえナチズムがナチス・ドイツの行為のみを対象とするものであろうと普遍的な問題であるのと同様、日本軍性奴隷問題も旧日本軍の行為のみを対象とするものであろうと普遍的な問題なのです。

ミッテ区が平和の少女像の設置を認めないことは、決して中立性の確保に資するものではありません。なぜなら、それは図らずも日本の歴史修正主義に加担するものだからです。実際、今般のミッテ区による撤去指示は、日本の歴史修正主義の助長に一役買ってしまっています。

今般のミッテ区による撤去指示は、日本軍性奴隷性問題が人権問題という普遍的な問題であることを理解しない愚挙であると言わざるを得ません。ただ、最も責められるべきなのは、やはりドイツ政府に執拗に圧力をかけた*2日本政府です。韓国外交部は日本政府がドイツ政府に平和の少女像の撤去を要請したことについて「日本自らが表明した責任の痛感と謝罪、反省の精神にも逆行する」と批判しましたが*3、まさに正鵠を射た批判です。謝罪し反省するというのは、ただ「心からおわびと反省の気持ちを表明する」と口先だけで言えばよいというものではありません。真摯に謝罪し反省したといえるためには、謝罪と矛盾する態度をとらないこと、そして同じ過ちを繰り返さないように過ちを記憶することが大切です。もし日本政府が口先だけではなく心の底から謝罪し反省したのであれば、日本政府は過ちを記憶することに努めるはずですから、戦時性暴力の根絶のために歴史を記憶することを目的とした平和の少女像の撤去を要請したりしないはずです。それなのに、ドイツ政府に執拗に圧力をかけて平和の少女像の撤去を要請したというのは、結局のところ日本政府の「おわびと反省」*4は、加害者側である日本政府が過去を水に流し、日本軍が犯した戦時性暴力という「負の歴史」を忘れるための、その場しのぎの口先だけのものでしかないということです。

雨垂れ巌を穿つ

何を隠そう、私は天皇制廃止論者です。しかし、今日明日にも天皇制を廃止することができるとは考えていません。なぜなら、われわれ人民と天皇制との間には、圧倒的な力の差があるからです。かかる力の差を無視して、暴力を用いて巨大で頑強な天皇制に勝負を挑んだとしても、天皇制を粉砕できるどころか、逆に「天皇暴力装置」によって赤子の手をひねるように弾圧されてしまうでしょう。われわれ人民と天皇制との間にある圧倒的な力の差を無視した暴力革命は、左翼冒険主義の誤りを犯すものです。

もっとも、だからといってわれわれ人民は、決して沈黙すべきではありません。たとえ「国民」が沈黙するとしても、われわれ労働者人民を差別し抑圧する根源的な制度である天皇制に抗う、われわれ労働者人民と「労働者階級の党」は、天皇制廃止の声を上げるべきなのです。この点について、日本共産党は「天皇制というのは、憲法で決められた制度であります。日本共産党の考えだけで、変えられるものではありません。日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題であります。それまでは、私たちの好き嫌いいかんにかかわらず、憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だと私たちは考えています」と述べています*1。たしかに、天皇制が「日本共産党の考えだけで、変えられるものではありません」というのは、そうかもしれません。しかし、本当に「天皇制のない民主共和制をめざすべきだというのが日本共産党の方針」だと言うのであれば、「民主主義をそこ(天皇制廃止)まで徹底させるのが筋だという考えが熟」するように声を上げ続けるのが「労働者階級の党」の務めであるはずです。しかるに日本共産党が、「国民」が天皇制の廃止を望まないのであれば(それにしても日本共産党は、いったいいつから「労働者人民の党」ではなく「国民の党」になったのでしょうか。)天皇制と共存するしかないとするのは、「労働者階級の党」として恥ずべき右翼日和見主義的な態度であると言わざるを得ません。それに、「私たちの好き嫌いいかんにかかわらず、憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だ」というのも、憲法の本質を無視する悪しき形式主義であり、右翼日和見主義的な態度を正当化するための詭弁でしかありません*2日本共産党は、「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。肝心なのは、それを変革することである」というマルクスの言葉(フォイエルバッハに関するテーゼ)を今一度思い起こすべきです。

今日明日にも天皇制を廃止することができないからといって、天皇制廃止の声を上げるのが無駄だということは決してありません。今日明日にも天皇制を廃止することができないからといって沈黙してしまっては、いつまでも反民主主義的な差別制度である天皇制を廃止することはできないでしょう。「雨垂れ巌を穿つ」、すなわち、たとえわれわれ人民一人ひとりの力が微力であっても、力を合わせて声を上げ続ければ、必ず天皇制という巨大で頑強な「巌」に亀裂を入れることができるはずです。そして、亀裂を入れてしまいさえすれば、本当は「さざれ石」を「日本帝国主義」という結合剤で固めた粗悪なコンクリートにすぎない「巌」を粉砕することも決して不可能ではないはずです。