葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

天皇の権威に依存する、日本のあきれた「民主主義者」たち。

先般「持病の悪化」を理由に安倍晋三氏が総理大臣を辞任することを表明しましたが、その安倍氏と前天皇明仁氏の関係に関して、リベラル派の中には「明仁陛下は安倍がお嫌いだ」と言う人が少なからずいます。

もちろん、彼らが明仁氏の「お気持ち」を想像するのは自由ですが、しかし彼らが「民主主義者」を自任するのであれば、神話という虚構に由来する天皇の権威に依存するその態度は民主主義の精神に悖るものであると言わざるを得ません。

「治者と被治者の自同性」を本質とする民主主義の下では、政治的意思決定の拠り所は自分自身です。したがって、たとえ明仁氏が安倍氏を嫌いだとしても、それは自分自身を政治的意思決定の拠り所とする民主主義者にとって「どうでもいい話」のはずです。それとも、彼は天皇の権威に頼らなければ、安倍政権に反対するという政治的意思決定をすることができないのでしょうか。しかし、それは自分自身を政治的意思決定の拠り所とする民主主義者として相応しからぬ態度であると言わざるを得ないでしょう。

このように、天皇の権威に依存する「国民」を作り上げて人民の政治的自主性を奪う天皇制は、やはり「治者と被治者の自同性」を本質とする民主主義とは相容れないものです。おそらく多くの国民は、戦前の天皇制と戦後の天皇制は全く別物であると思っているでしょうし、そう解するのが憲法学の通説とされています*1。しかし、私はそれには異存があります。たしかに、戦前の天皇制と戦後の天皇制とでは天皇が自ら権力を行使するか否かの違いはあるものの、天皇制が神話という虚構に由来する天皇の権威を利用して人民を支配し抑圧するための「権力装置」であることに何ら変わりはありません。つまり、天皇が自ら権力を行使しなければ民主主義と相容れるということはなく、天皇制が神話という虚構に由来する天皇の権威を利用して人民を支配し抑圧するための「権力装置」である以上は決して民主主義と相容れないのです。

天皇制と民主主義の矛盾に関しては、「革新政党」とされる日本共産党が「憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だ」と主張しています*2。まさか日本共産党は、もし自衛隊国防軍とする9条改憲がなされてしまったら、その時は「憲法にある組織として、国防軍と共存するのが道理ある態度だ」と言うのでしょうか。日本共産党は誤解していますが、大切なのは憲法にある制度や組織であるかどうかではなく、憲法の理念に沿う制度や組織であるかどうかです。つまり、いくら天皇制が憲法にある制度だろうと、それは民主主義に反するものなのですから、民主主義と共存することなど到底できないのです。「天皇制は憲法にある制度だから、それと共存するのが道理ある態度だ」などというのは、つまるところ反民主主義的で差別的な制度である天皇制を温存するための詭弁です。日本共産党は、「道理ある態度」云々を説く前に、自らの右翼日和見主義的な態度を恥じるべきです。

リベラル紙による安倍政権7年8カ月の総括*3では、「『安倍政治』が民主主義を歪めた」といった論調が盛んです。しかし、それは真実ではありません。天皇制という反民主主義的な制度が存在することで最初から歪んでいるまがい物の民主主義が、「安倍政治」を生み出したのです。それゆえ、未だ民主化していないことを日本人民が自覚せず、「成熟した日本の民主主義が『安倍政治』によって歪められてしまった」などと勘違いしてまがい物の民主主義に安住し続ける限り、「安倍政治」という怪物は顔と名前を変えて何度でも日本人民の前に現れるでしょう。「安倍政治」を本当に終わらせるには、日本人民が自らの手で民主化を実現しなければなりません。そして、天皇の権威に依存する「国民」を作り上げて人民の政治的自主性を奪う天皇制を廃止することは、日本人民が自らの手で民主化を実現する上で絶対に避けて通ることのできない道なのです。日本人民が、日本の真の民主化を実現したいと望むのであれば、何よりもまず天皇の権威を拒絶すべきです。

yukito-ashibe.hatenablog.com

 

*1:“……明治憲法の下でも、天皇は象徴であったと言うことができる。……もっとも、同じ象徴と言っても、統治権の総覧者たる地位と結びついた場合の象徴性と、「国政に関する権能」を一切有しない原則と結びついた場合の象徴性とは、本質的に異なることに注意しなければならない。”(芦部信喜憲法岩波書店

*2:天皇をどうする

*3:社説:「安倍政治」の弊害 民主主義ゆがめた深い罪 - 毎日新聞

(社説)最長政権 突然の幕へ 「安倍政治」の弊害 清算の時:朝日新聞デジタル