あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

雨垂れ巌を穿つ

何を隠そう、私は天皇制廃止論者です。しかし、今日明日にも天皇制を廃止することができるとは考えていません。なぜなら、われわれ人民と天皇制との間には、圧倒的な力の差があるからです。かかる力の差を無視して、暴力を用いて巨大で頑強な天皇制に勝負を挑んだとしても、天皇制を粉砕できるどころか、逆に「天皇暴力装置」によって赤子の手をひねるように弾圧されてしまうでしょう。われわれ人民と天皇制との間にある圧倒的な力の差を無視した暴力革命は、左翼冒険主義の誤りを犯すものです。

もっとも、だからといってわれわれ人民は、決して沈黙すべきではありません。たとえ「国民」が沈黙するとしても、われわれ労働者人民を差別し抑圧する根源的な制度である天皇制に抗う、われわれ労働者人民と「労働者階級の党」は、天皇制廃止の声を上げるべきなのです。この点について、日本共産党は「天皇制というのは、憲法で決められた制度であります。日本共産党の考えだけで、変えられるものではありません。日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題であります。それまでは、私たちの好き嫌いいかんにかかわらず、憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だと私たちは考えています」と述べています*1。たしかに、天皇制が「日本共産党の考えだけで、変えられるものではありません」というのは、そうかもしれません。しかし、本当に「天皇制のない民主共和制をめざすべきだというのが日本共産党の方針」だと言うのであれば、「民主主義をそこ(天皇制廃止)まで徹底させるのが筋だという考えが熟」するように声を上げ続けるのが「労働者階級の党」の務めであるはずです。しかるに日本共産党が、「国民」が天皇制の廃止を望まないのであれば(それにしても日本共産党は、いったいいつから「労働者人民の党」ではなく「国民の党」になったのでしょうか。)天皇制と共存するしかないとするのは、「労働者階級の党」として恥ずべき右翼日和見主義的な態度であると言わざるを得ません。それに、「私たちの好き嫌いいかんにかかわらず、憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だ」というのも、憲法の本質を無視する悪しき形式主義であり、右翼日和見主義的な態度を正当化するための詭弁でしかありません*2日本共産党は、「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。肝心なのは、それを変革することである」というマルクスの言葉(フォイエルバッハに関するテーゼ)を今一度思い起こすべきです。

今日明日にも天皇制を廃止することができないからといって、天皇制廃止の声を上げるのが無駄だということは決してありません。今日明日にも天皇制を廃止することができないからといって沈黙してしまっては、いつまでも反民主主義的な差別制度である天皇制を廃止することはできないでしょう。「雨垂れ巌を穿つ」、すなわち、たとえわれわれ人民一人ひとりの力が微力であっても、力を合わせて声を上げ続ければ、必ず天皇制という巨大で頑強な「巌」に亀裂を入れることができるはずです。そして、亀裂を入れてしまいさえすれば、本当は「さざれ石」を「日本帝国主義」という結合剤で固めた粗悪なコンクリートにすぎない「巌」を粉砕することも決して不可能ではないはずです。