葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「まるで『北朝鮮』のようだ」は、「北朝鮮」に対する批判ではなく、朝鮮に対する悪魔視である。

日本のリベラル派の中には、安倍政権の暴政やNHKの翼賛的な報道を批判するにあたって、「まるで『北朝鮮』のようだ」と朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と略す)を引き合いに出す人が少なからず見受けられます。彼らは、「まるで『北朝鮮』のようだ」というのは「『北朝鮮』を差別しているのではなく、批判しているのだ」と言います。しかし、彼らは勘違いしています。「まるで『北朝鮮』のようだ」というのは、「北朝鮮」に対する批判ではなく、朝鮮を悪魔視するものです。

もっとも、こう言うと彼らは「『北朝鮮』を批判してはいけないのか」と反発するかもしれません。どうか、誤解しないでください。私は、朝鮮を批判するなと言いたいのではありません。私が言いたいのは、朝鮮を悪魔視するなということです。

安倍政権の暴政やNHKの翼賛的な報道を批判するにあたって、なぜわざわざ朝鮮を引き合いに出すのでしょうか。わざわざ引き合いに出さなくても、安倍政権の暴政やNHKの翼賛的な報道は十分に批判できるはずです。それに、そもそも安倍政権の暴政やNHKの翼賛的な報道は、ほかでもない日本の「内なる悪」です。しかるに、日本国民が日本を「内なる悪」を朝鮮に背負わせて悪魔視するというのは、リベラル派が安倍政権を批判するにあたって「主権者」であることを強調するのであれば、それこそ「主権者」の態度として無責任であると言わざるを得ません。それとも、まさか朝鮮を悪魔視することも「主権者」の権利だとでも言うのでしょうか。

朝鮮に対する悪魔視は、たしかにそれ自体は朝鮮に対する差別ではないかもしれません(もっとも、朝鮮を差別しているからこそ、平気で朝鮮を悪魔視できるのでしょう。)。しかし、それは決して差別と無関係ではありません。つまり、朝鮮に対する悪魔視は、「非理性的な存在である悪魔・朝鮮を差別することには『理』がある」と差別を正当化せんとし、また、「朝鮮」を悪魔的な記号とすることで在日朝鮮人とその団体に対する差別やヘイトクライムを助長します。その具体例は、日本の政府と自治体による朝鮮学校差別*1国際政治学者の「スリーパーセル」発言*2、チマ・チョゴリ切り裂き事件*3レイシストによる朝鮮学校襲撃事件*4、右翼による朝鮮総連銃撃事件*5などなど、枚挙にいとまがありません。

日本のリベラル派が平気で朝鮮を悪魔視できるのは、つまるところ朝鮮を蔑視しているからですが、その「朝鮮蔑視」観とその裏返しとしての優越感こそ、まさに朝鮮を侵略し植民地支配した日本の帝国意識を支えてきたものです。そして、今も継続する日本帝国主義によって生み出されたものが、まさにリベラル派が批判する「アベ政治」なのです。つまり、平気で朝鮮を悪魔視するリベラル派には、安倍政権を批判する資格がないということです。

もしかすると、安倍政権を批判するにあたり朝鮮を引き合いに出すリベラル派は、「『北朝鮮悪魔視』が多くの国民の共感を呼ぶことで、結果として安倍政権を倒すことができるのであれば、それでいいじゃないか」と言うかもしれません。しかし、もしそれで安倍政権を倒すことができたとしても、リベラル派が批判する「アベ政治」を終わらせることは決してできないでしょう。リベラル派は、本当に「アベ政治」を終わらせたいのであれば、日本の「内なる悪」を朝鮮に背負わせるのではなく、それと真摯に向き合うべきです。「アベ政治」というのは、まさに戦後の日本が「内なる悪」と真摯に向き合わずにやり過ごしてきた「結果」なのですから。

 

 

歴史修正主義の跳梁跋扈について、我々は何を問うべきか。

昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈に関して、よく言われるのが「昨今の日本で歴史修正主義が大衆に支持されるのは、リベラル派とされる人たちよりも保守派あるいは歴史修正主義者とされる人たちのほうが、大衆の心の入り込めているからだ」ということです。

保守派あるいは歴史修正主義者が大衆の心に入り込めているというのは、たしかにそうかもしれません。しかし、それは昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈についての「最終的な答え」ではありません。つまり、歴史修正主義の跳梁跋扈について本当に問うべきなのは、「日本ではなぜ歴史修正主義者が大衆の心にたやすく入り込めてしまうのか」、あるいは「日本ではなぜ大衆が歴史修正主義の『物語』をいともたやすく受容してしまうのか」です。そして、その答えは「リベラル派が『上から目線』で歴史を語るからだ」などという単純なものでは決してないでしょう。

私が思うに、昨今の日本で歴史修正主義が跳梁跋扈するのは、人民を「日本国民」として統合するための「物語」が必要とされ、その「物語」が歴史修正主義の「物語」だからです。そのことは、歴史修正主義の「物語」が自国中心の歴史観に基づくものであり、そして、そのほとんどが皇国史観に親和性を持つものであることからもうかがえます。つまり、昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈は、単なる「大衆の問題」として片付けることができない、構造的な問題なのです。それゆえ、日本という国で普通に「国民」として学校教育を受けて、普通に「国民」として生活していたら、歴史修正主義に染まる素地が自然と培われるでしょう。歴史修正主義者たちは、しばしば戦後日本の歴史教育を「自虐史観」だと揶揄します。しかし、残念ながら戦後日本は、「自虐」と言うほど日帝の侵略や植民地支配による加害の記憶を受け継いでいませんし、それゆえ「国民が歴史修正主義に染まることはない」と言えるほど「戦前」を克服できていません。

先に述べたように、昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈は、単なる「大衆の問題」として片付けることができない、(今もなお天皇制が存続する国家の)構造的な問題です。ただ、「大衆の問題」も決して皆無ではありません。大衆が歴史修正主義の「物語」をいともたやすく受容してしまう大きな要因として考えられるのが、新自由主義が人々にもたらす実存的不安です。つまり、大衆は新自由主義が人々にもたらす実存的不安から逃れようとして、「日本人として」安心できる歴史修正主義の「物語」を求めてしまうのです。そして、それはまさに人民を「日本国民」として統合したい国家の思う壺ですが、ここに、新自由主義ナショナリズムの「共犯関係」が見て取れます。

新自由主義が人民に実存的不安をもたらし続け、そして人民を「日本国民」として統合するために歴史修正主義の「物語」が必要とされ続ける限り、歴史修正主義はそれこそ千代に八千代に勝ち続けるでしょう。つまり、昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈は、リベラル派の知識人が大衆の機嫌をとりながら大衆を啓蒙するよう努力すれば解決するような問題ではないのです。

もっとも、日本における歴史修正主義の跳梁跋扈は、そもそも「高慢なリベラル派の敗北」で済ませられることではありません。なぜなら、日本における歴史修正主義の跳梁跋扈が排外主義や民族差別につながる問題であることに鑑みれば、歴史修正主義の勝利は「高慢なリベラル派の敗北」などではなく、基本的人権の尊重という普遍的価値観の敗北だからです。しかるに、歴史修正主義の勝利を「保守対リベラル」の戦いの勝ち負けの問題としてしか捉えないのならば、それはやはりマジョリティの傲慢と言わざるを得ないでしょう。保守派に負けることによって傷つけられるリベラル派の自尊心など、排外主義や民族差別によって傷つけられるマイノリティの尊厳に比べたら本当に取るに足らないものです。

マジョリティが理解すべきなのは、「レイシスト・シンパ」の気持ちではない。

レイシスト政治家が多くの支持を集めるという昨今の現象について、リベラル派であるマジョリティの中には「レイシスト政治家の支持者を単に批判したり軽蔑したりするだけではなく、レイシスト政治家に惹かれてしまう彼らの気持ちを理解すべきだ」と言う人がいるかもしれません。

たしかに、レイシスト政治家が多くの支持を集める背景について理解することは、レイシズムに抗する上で有益でしょう。しかし、「レイシスト政治家に惹かれてしまう彼ら(レイシスト政治家の支持者)の気持ちを理解すべきだ」というのは、私にはどうしても理解できません。まさか、「われわれ日本人がこんなに苦しい思いをしているのにもかかわらず、外国人たちは我々の国で我が物顔に振る舞っているのだから、そうした傲慢不遜な外国人たちに対して毅然とした態度をとる政治家がマジョリティから多くの支持を集めるというのも理解できる」とでも言うのでしょうか。しかしそれは、それこそこれまで散々使い古されてきた、レイシズムを正当化する言い訳です。

民族差別は、近代国家としての日本の「国是」ともいうべきものですが、それに加えて、昨今のレイシストによる差別煽動が、新自由主義のもたらす明確な説明も明瞭な解決もない不安感を吸収するための記号論的象徴を捏造するものであり、その記号論的象徴が「外国人」であることは、今までにもしばしば言われてきていることです*1。このことは、「在日特権」あるいは「日本が中国に乗っ取られる」といった、社会不安の矛先を他民族に向ける荒唐無稽なデマからもうかがい知ることができます。そして、新自由主義のもたらす明確な説明も明瞭な解決もない不安感を吸収するための記号論的象徴を捏造し、それを用いて民族差別を煽動することで大衆の抱く不安の矛先を他民族に向けさせるのが、レイシスト政治家なのです。

もしかすると、リベラル派であるマジョリティの中には「昨今の日本社会にはびこる民族差別の原因が新社会主義のもたらす社会不安であるならば、レイシスト政治家を支持するマジョリティも被害者だといえるだろう」と、レイシスト政治家を支持するマジョリティに同情を寄せる人もいるかもしれません。たしかに、ある意味ではレイシスト政治家を支持するマジョリティも「被害者」だと言えそうです。しかし、だからといって、どうしてマイノリティが差別されなければならないのでしょうか。民族差別は、人間の尊厳を踏みにじるものにほかなりませんから、たとえどんな事情があろうとも、決して許されるものでありません。つまり、レイシスト政治家に惹かれてしまうマジョリティの気持ちなど、そもそも理解してはならないのです。

それにしても、いったいいつになったら日本国民の多くは、民族差別が人権侵害であり、決して許されないものであることを理解するのでしょうか。マジョリティは、何よりもまず民族差別が人権侵害であり、決して許されないものであることを理解すべきです。そして、日本社会を支配する「民族差別は『悪』ではなく『善』である」という倒錯した価値観に徹底して抗い、これをこわさなければなりません。ただ、もしかするとマジョリティの中には、「民族差別を『善』とする価値観が日本社会を支配してしまっているのであれば、民族差別に抗うというのは特別なことなのだから、たとえ民族差別に抗うことができなくても、それは仕方のないことだ」と言う人がいるかもしれません。たしかに、民族差別に抗うのは並大抵のことではないというのが、情けない話ですが今の日本の現状かもしれません。しかし、そうした現状に甘んじて「民族差別に抗うというのは特別なことなのだから、たとえ民族差別に抗うことができなくても、それは仕方のないことだ」などと言って済ませてしまうのは、差別によって生存を脅かされることがないマジョリティの傲慢であると言わざるを得ないでしょう。

 

honto.jp

*1:この点について詳しくは、テッサ・モーリス=スズキ著『批判的想像力のために:グローバル化時代の日本』(平凡社)をぜひ参照してください。

「民意」は、決して民族差別を正当化しない。

小池氏が大差で再選「コロナから命、暮らし守る」 宇都宮氏、山本氏ら破る 東京都知事選:東京新聞 TOKYO Web

 

これまで4年間の都政で、朝鮮学校韓国学校に対する差別*1*2、あるいは関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付拒否*3や追悼式典への圧力*4といった民族差別を行ってきた小池百合子氏が、今般の東京都知事選で2位以下に大差をつけて圧勝したことは、エスニックマイノリティである都民の人権にとって切迫した危機的状況であると言っても過言ではありません。また、当選こそしなかったものの、在日コリアンの排斥を叫ぶ排外主義者である桜井誠氏が約17万票を獲得した*5というのも、エスニックマイノリティである都民の人権にとって本当に深刻な状況です。

このように、小池氏が圧勝し、それに加えて桜井氏が決して少なくない票を得たことで、もしかするとこれまでの小池都政による民族差別が「民意」によって追認された、そして「民意」は小池都政によるさらなる民族差別を期待している、と考える人がいるかもしれません。しかし、その考えは間違っています。

民族差別は、個人の尊厳を踏みにじるもの(この点に関して、「民族差別が傷つけるのは集団であって、個人ではない」と言う人がいます。しかし、それは間違いです。なぜなら、民族差別が傷つけるのは、「記号的存在」ではなく、一人ひとり違う顔を持った生身の人間だからです。)ですから、それは人権の問題です。そして、人権は多数の「民意」をもってしても奪うことのできないものです。したがって、小池都政による民族差別が「民意」によって正当化されることは、決してありません。

民主主義の目的は、究極的には個人の尊厳を確保することです。それに鑑みると、民族差別を「民意」によって正当化することなど、そもそもできないのです。それに、民主主義の本質は「治者と被治者の自同性」であって、「多数決」では決してありません。それゆえ、たとえ都民の多数の「民意」が小池氏を首長に選んだとしても、それに臆することなく小池都政の民族差別を批判することが、真に民主主義的な態度であるといえます。

 

「ニッポンは『自由な国』だ」と言うけれど。

よく、「政権に問題があるとしても、独裁国家と違ってそれに対する批判が許されるのだから、よその国に比べれば日本はまだまだ自由な国だ」と言う人がいます。

日本に言論の自由があることは、もちろん私も否定しません。しかし、だからといって日本が他の国に比べて抜きん出て「自由な国」だと言うのは早計です。たとえ日本が「自由な国」だとしても、所詮は「どんぐりの背比べ」でしょう。

日本社会のマジョリティである日本国民の多くは、「自由」を国家によって与えられたものだと考えている節があります。そして、日本国民は、まるで「自由」を与えてくれた国家の恩に報いるかのように、しばしば与えられた「自由」でマイノリティを踏みつけます。また、しばしば「国益」や「公益」にそぐわない自由を敵視します。それですから、国民の自由を許すことなど屁でもないでしょう。

政権に対する批判も、おそらく当の政権は雑音程度にしか思っていないでしょう。いや、もしかすると良い「ガス抜き」と思っているかもしれません。なにしろ、政権を批判するデモであっても、それは決して「和」を乱さず、治安当局に対しても友好的な「平和なデモ」なのですから。

もっとも、政権を批判する市民が警察によって暴力的に排除されることも決して皆無ではありません*1。それは、政権の余裕のなさの表れだと見ることもできます。しかし、そうして暴力的に排除される市民は、国家による暴力の被害者であるにもかかわらず、粗暴な「はみ出し者」として多くの国民から白眼視されますますから、たとえ暴力を用いて「はみ出し者」を排除しても、政権にとってはさしたる痛手にはならないでしょう。日本国民を統制するのに、鞭はいくつも要りません。一本の鞭と一人の生贄、そして一枚の「極左」というレッテルがあれば十分です。

日本という国にとって、政権批判は、実のところさほど痛手ではありません。それというのも、安倍首相やその支持者たちは認めたくないでしょうが、首相の代わりなどいくらでもいるからです。これに対して、代わりのいない存在だとされているのが、いわゆる天皇です。これに対する批判は、日本の「国体」を揺るがす危険なものだとして、警察や右翼の苛烈な暴力にさらされ、苛烈な弾圧を受けることもしばしばです*2。もっとも、こう言うと「おまえは今こうして自由に天皇を批判することができているだろう」と揚げ足を取る人もいるでしょう。たしかに、それはその通りです。しかし、それはこの天皇制国家にとって、私がする天皇制批判など「ごまめの歯ぎしり」にすぎないということなのでしょう。ただ、だからといって日本社会の差別の根源である天皇制に対する批判をやめてしまっては、それこそ天皇制国家の思う壺ですが。

日本に政権批判の「自由」があるとしても、日本社会ではそれを「悪いこと」だと思う風潮が支配的ですが、それには天皇制も大いに関係していると思います。つまり、身分差別制度である天皇制は、国家の内部に上下関係を生み出し、それによって「お上に逆らうのは悪いことだ」という風潮が醸成されるのです。もっとも、安倍政権に批判的な国民の中にも天皇に好意的な人は少なからずいますが、しかし、彼らは決して「お上」に逆らうのを良いことだと思っているのではなく、彼らがしばしば「天皇陛下は安倍を嫌っている」と口にすることに鑑みると、むしろ彼らは安倍氏を「お上(=天皇)に逆らう悪い奴」と考えているのでしょう。

さて、先述したように、日本社会のマジョリティである日本国民は、しばしば与えられた「自由」でマイノリティを踏みつけます。それは、マイノリティの自由にとっては加害以外の何ものでもありません。しかるに、日本国民の中には、マイノリティによる自由の行使を「我侭」と曲解し「マイノリティの我侭な振る舞いこそが、我々の自由を抑圧するのだ」と言って、さも自分たちが被害者であるかのように振る舞う人も少なからず見受けられます。そのような日本国民は、自由の本質を誤解してます。自由は神や国家から恩恵として与えられるものではなく、人間であることによって当然に有するものですから、マジョリティとマイノリティの自由の間に本質的な差異はありません。もっとも、現実には社会に存在する構造的差別によってマイノリティの自由は常に抑圧にさらされるのですが、しかし、先述のとおりマジョリティとマイノリティの自由の間に本質的な差異はないのですから、マイノリティがマジョリティと同等の自由を求めることは、人間として当然のことなのです。それを日本国民が「マイノリティの我侭な振る舞いだ」などと言うのは、それこそマジョリティの傲慢です。マジョリティは、自分たちの自由を尊重されたいのであれば、何よりもまずはマイノリティの自由を尊重すべきです。マイノリティの自由が尊重されない社会に、本当の自由はありません。

こうしてみると、たとえ日本が「自由な国」だとしても、それはせいぜいマジョリティにとって「自由な国」でしかありません。しかし、自由の本質に鑑みれば、それはまがいものにすぎません。日本を本当に自由な国にするためには、マイノリティの自由を抑圧する差別構造を解体することが是非とも必要です。そして、マジョリティは、その自由を差別構造を解体するために使うべきです。

日本社会の差別によって分断されるのは、マイノリティ同士である。

日本社会でエスニックマイノリティ(以下、「マイノリティ」という)に敵意や憎悪を向けるのは、ほとんどがマジョリティである日本人です。しかし、同胞や他のマイノリティに敵意や憎悪を向けるマイノリティも決して皆無ではありません。

ナチスに協力したユダヤ人や日帝に協力した朝鮮人が存在したことに鑑みれば、同胞や他のマイノリティに敵意や憎悪を向けるマイノリティが存在するというのは、さほど不思議なことではないでしょう。それでもマジョリティである日本人が忘れてはならないのは、そのようなマイノリティを生み出すのは日本社会の差別構造であり、それを支えているのはマジョリティである日本人だということです。

日本社会の差別構造に働く「同化と排除」の力学は、しばしばマイノリティに同胞や他のマイノリティに対する敵意や憎悪を抱かせます。要するに、マイノリティが支配する日本社会から排除されないように、マジョリティに同化せんとする努力として、しばしばマイノリティは同胞や他のマイノリティに敵意や憎悪を向けてしまうのです。マイノリティをそのような状況に追い込むのは、もちろん日本社会の差別構造と、それを支えるマジョリティである日本人です。

日本社会の構造的差別によって惹き起こされる、マイノリティが同胞や他のマイノリティに対して抱く敵意や憎悪は、マイノリティ同士の分断を招きます。つまり、日本社会の構造的差別によって分断されるのは、日本社会ではなくマイノリティ同士なのです。

マイノリティが同胞や他のマイノリティに向ける敵意や憎悪は、マジョリティである日本人によって差別の正当化にしばしば利用されます。日本人にとっては、マイノリティが同胞や他のマイノリティに向ける敵意や憎悪も「マイノリティの自己批判」なのでしょう。しかし、マイノリティが同胞や他のマイノリティに向ける敵意や憎悪を生み出すのは他でもない日本社会の差別構造であり、それを支えているのは他でもない日本人です。それを考えると、マイノリティが抱く同胞や他のマイノリティに対する敵意や憎悪を日本人が差別の正当化に利用するのは、実に卑怯で卑劣です。

このごろよく見聞きするのが、「差別は社会を分断する」という言葉です。それは主に、日本社会の差別を憂う日本人によって使われますが、おそらく彼らは「我々も差別によって社会を分断される被害者だ」と言いたいのでしょう。しかし、先に述べたとおり、日本社会の構造的差別によって分断されるのは、日本社会ではなくマイノリティ同士です。そして、日本社会の構造的差別を支えているのは、まぎれもなくマジョリティである日本人です。つまり、日本人は、日本社会の構造的差別に関して「被害者」だとは到底言えないのです。それに、差別によって日本社会が分断される云々以前に、今もなお天皇を頂点とする日本社会はそもそもが差別によって成り立っている社会なのですから、「差別によって日本社会が分断される」というのはなんとも滑稽な話です。マジョリティである日本人は、本当に日本社会の差別を憂うのであれば、「我々も差別によって社会を分断される被害者だ」などと被害者面して日本社会の差別構造から目を背けるのではなく、日本社会が差別によって成り立っている社会であることを認識し、さらにはマジョリティとして日本社会の差別構造を支えてしまっていることを自覚し、日本社会の差別構造をこわしていかなければなりません。そうして、日本社会の差別構造をこわすことができたときにはじめて、私たちは新たな社会を築くための第一歩を踏み出すことができるのです。

新型コロナ禍で忘れられる、移動の自由という基本的人権。

1都3県や北海道の移動、19日に解禁…1000人規模のイベントも : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン

 

県をまたぐ移動の自粛解除に関する報道では、「解禁」という表現が多く見られます。
新型コロナウイルス禍ですっかり忘れられてしまっているようですが、移動の自由は基本的人権です。それゆえ、移動を禁止するには、法治主義の下では法的根拠に基づかなければなりません。しかし、新型インフルエンザ等対策特別措置法*1は、あくまでも外出自粛の要請にとどまるものであって、移動を禁止するものではありません。つまり、県をまたぐ移動はそもそも禁止されていなかったということです。それにもかかわらず、もし多くの人が「解禁」という表現に違和感を覚えないのだとすれば、やはり日本社会の人権感覚に問題があると言わざるを得ないでしょう。

もちろん、私も新型コロナウイルス感染症は怖いですし、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために移動の自由を制限する必要性は否定しません。しかし、それでも移動の自由が基本的人権である以上は、自由が原則であり、その制限はあくまでも例外であることを決して忘れてはならないと思います。そして、人権保障の観点から、例外である自由の制限は、規制措置は社会公共に対する障害の大きさに比例したもので、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならないという、いわゆる「警察比例の原則」に従うべきです。つまり、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために必要なのは「強力な措置」ではなく、感染拡大の防止という目的を達成するために必要な最小限度の措置です。

これについては、「強力な措置をとらないで感染が拡大したらどうするんだ」と言う人もいるでしょう。しかし、そう言う人は思考レベルの問題と現実レベルの問題を混同しています。「規制措置は、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならない」というのは思考レベルの話であり、現実レベルで具体的な規制措置が規制の目的を達成するために必要な最小限度のものであるかどうかは、それこそケース・バイ・ケースです。ただ、そうであっても人権尊重の理念に従うのであれば、「規制措置は、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなくてはならない」という思考は維持されるべきです。それとも、規制の目的を達成するために必要な最小限度を超える強力な規制を求める人は、「必要であれば国家によるいかなる人権侵害も許されるべきだ」と考えるのでしょうか。しかし、それは国家権力を制限して人権保障をはかる立憲主義にそぐわない考えです。「理念が現実における国家の行動の足かせになるのであれば、理念を捻じ曲げてもよい」とするのが、いわゆる9条改憲議論における安倍政権の考え方ですが、そういえば新型コロナウイルス禍でしばしば使われる「強力な措置をとらないで感染が拡大したらどうするんだ」という脅し文句は、9条改憲議論で改憲論者が好んで使う「外国が攻めてきたらどうするんだ」という脅し文句によく似ている気がします。

どうも昨今の日本では、人権保障における〈原則―例外〉思考が、「自由が原則であり、制限が例外である」から「制限が原則であり、自由が例外である」に逆転してしまっているようです。しかし、これでは憲法による人権保障など、まさしく「絵に描いた餅」でしかありません。また、「制限が原則であり、自由が例外である」という倒錯した思考が当たり前になってしまうのは、それこそ自民党政権の思う壺です。立憲主義の下では、「自由が原則であり、制限が例外である」ことを、どうかくれぐれも忘れないでください。もっとも、こう言うと「それならばヘイトスピーチやヘイトデモも自由が原則だろう」と揚げ足を取る人がいるかもしれません。しかし、そのような人は、なぜ憲法表現の自由を人権として保障したのかをまるで理解していません。憲法表現の自由を人権として保障したのは、究極的には表現の自由が個人の尊厳の確保に資するからですが、ヘイトスピーチやヘイトデモは個人の尊厳を踏みにじる人権侵害にほかなりません。つまり、ヘイトスピーチやヘイトデモは憲法表現の自由を人権として保障した趣旨に悖るものであって、そもそも表現の自由の保障の範囲外*2なのです。