葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

歴史修正主義の跳梁跋扈について、我々は何を問うべきか。

昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈に関して、よく言われるのが「昨今の日本で歴史修正主義が大衆に支持されるのは、リベラル派とされる人たちよりも保守派あるいは歴史修正主義者とされる人たちのほうが、大衆の心の入り込めているからだ」ということです。

保守派あるいは歴史修正主義者が大衆の心に入り込めているというのは、たしかにそうかもしれません。しかし、それは昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈についての「最終的な答え」ではありません。つまり、歴史修正主義の跳梁跋扈について本当に問うべきなのは、「日本ではなぜ歴史修正主義者が大衆の心にたやすく入り込めてしまうのか」、あるいは「日本ではなぜ大衆が歴史修正主義の『物語』をいともたやすく受容してしまうのか」です。そして、その答えは「リベラル派が『上から目線』で歴史を語るからだ」などという単純なものでは決してないでしょう。

私が思うに、昨今の日本で歴史修正主義が跳梁跋扈するのは、人民を「日本国民」として統合するための「物語」が必要とされ、その「物語」が歴史修正主義の「物語」だからです。そのことは、歴史修正主義の「物語」が自国中心の歴史観に基づくものであり、そして、そのほとんどが皇国史観に親和性を持つものであることからもうかがえます。つまり、昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈は、単なる「大衆の問題」として片付けることができない、構造的な問題なのです。それゆえ、日本という国で普通に「国民」として学校教育を受けて、普通に「国民」として生活していたら、歴史修正主義に染まる素地が自然と培われるでしょう。歴史修正主義者たちは、しばしば戦後日本の歴史教育を「自虐史観」だと揶揄します。しかし、残念ながら戦後日本は、「自虐」と言うほど日帝の侵略や植民地支配による加害の記憶を受け継いでいませんし、それゆえ「国民が歴史修正主義に染まることはない」と言えるほど「戦前」を克服できていません。

先に述べたように、昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈は、単なる「大衆の問題」として片付けることができない、(今もなお天皇制が存続する国家の)構造的な問題です。ただ、「大衆の問題」も決して皆無ではありません。大衆が歴史修正主義の「物語」をいともたやすく受容してしまう大きな要因として考えられるのが、新自由主義が人々にもたらす実存的不安です。つまり、大衆は新自由主義が人々にもたらす実存的不安から逃れようとして、「日本人として」安心できる歴史修正主義の「物語」を求めてしまうのです。そして、それはまさに人民を「日本国民」として統合したい国家の思う壺ですが、ここに、新自由主義ナショナリズムの「共犯関係」が見て取れます。

新自由主義が人民に実存的不安をもたらし続け、そして人民を「日本国民」として統合するために歴史修正主義の「物語」が必要とされ続ける限り、歴史修正主義はそれこそ千代に八千代に勝ち続けるでしょう。つまり、昨今の日本における歴史修正主義の跳梁跋扈は、リベラル派の知識人が大衆の機嫌をとりながら大衆を啓蒙するよう努力すれば解決するような問題ではないのです。

もっとも、日本における歴史修正主義の跳梁跋扈は、そもそも「高慢なリベラル派の敗北」で済ませられることではありません。なぜなら、日本における歴史修正主義の跳梁跋扈が排外主義や民族差別につながる問題であることに鑑みれば、歴史修正主義の勝利は「高慢なリベラル派の敗北」などではなく、基本的人権の尊重という普遍的価値観の敗北だからです。しかるに、歴史修正主義の勝利を「保守対リベラル」の戦いの勝ち負けの問題としてしか捉えないのならば、それはやはりマジョリティの傲慢と言わざるを得ないでしょう。保守派に負けることによって傷つけられるリベラル派の自尊心など、排外主義や民族差別によって傷つけられるマイノリティの尊厳に比べたら本当に取るに足らないものです。