葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「ニッポンは『自由な国』だ」と言うけれど。

よく、「政権に問題があるとしても、独裁国家と違ってそれに対する批判が許されるのだから、よその国に比べれば日本はまだまだ自由な国だ」と言う人がいます。

日本に言論の自由があることは、もちろん私も否定しません。しかし、だからといって日本が他の国に比べて抜きん出て「自由な国」だと言うのは早計です。たとえ日本が「自由な国」だとしても、所詮は「どんぐりの背比べ」でしょう。

日本社会のマジョリティである日本国民の多くは、「自由」を国家によって与えられたものだと考えている節があります。そして、日本国民は、まるで「自由」を与えてくれた国家の恩に報いるかのように、しばしば与えられた「自由」でマイノリティを踏みつけます。また、しばしば「国益」や「公益」にそぐわない自由を敵視します。それですから、国民の自由を許すことなど屁でもないでしょう。

政権に対する批判も、おそらく当の政権は雑音程度にしか思っていないでしょう。いや、もしかすると良い「ガス抜き」と思っているかもしれません。なにしろ、政権を批判するデモであっても、それは決して「和」を乱さず、治安当局に対しても友好的な「平和なデモ」なのですから。

もっとも、政権を批判する市民が警察によって暴力的に排除されることも決して皆無ではありません*1。それは、政権の余裕のなさの表れだと見ることもできます。しかし、そうして暴力的に排除される市民は、国家による暴力の被害者であるにもかかわらず、粗暴な「はみ出し者」として多くの国民から白眼視されますますから、たとえ暴力を用いて「はみ出し者」を排除しても、政権にとってはさしたる痛手にはならないでしょう。日本国民を統制するのに、鞭はいくつも要りません。一本の鞭と一人の生贄、そして一枚の「極左」というレッテルがあれば十分です。

日本という国にとって、政権批判は、実のところさほど痛手ではありません。それというのも、安倍首相やその支持者たちは認めたくないでしょうが、首相の代わりなどいくらでもいるからです。これに対して、代わりのいない存在だとされているのが、いわゆる天皇です。これに対する批判は、日本の「国体」を揺るがす危険なものだとして、警察や右翼の苛烈な暴力にさらされ、苛烈な弾圧を受けることもしばしばです*2。もっとも、こう言うと「おまえは今こうして自由に天皇を批判することができているだろう」と揚げ足を取る人もいるでしょう。たしかに、それはその通りです。しかし、それはこの天皇制国家にとって、私がする天皇制批判など「ごまめの歯ぎしり」にすぎないということなのでしょう。ただ、だからといって日本社会の差別の根源である天皇制に対する批判をやめてしまっては、それこそ天皇制国家の思う壺ですが。

日本に政権批判の「自由」があるとしても、日本社会ではそれを「悪いこと」だと思う風潮が支配的ですが、それには天皇制も大いに関係していると思います。つまり、身分差別制度である天皇制は、国家の内部に上下関係を生み出し、それによって「お上に逆らうのは悪いことだ」という風潮が醸成されるのです。もっとも、安倍政権に批判的な国民の中にも天皇に好意的な人は少なからずいますが、しかし、彼らは決して「お上」に逆らうのを良いことだと思っているのではなく、彼らがしばしば「天皇陛下は安倍を嫌っている」と口にすることに鑑みると、むしろ彼らは安倍氏を「お上(=天皇)に逆らう悪い奴」と考えているのでしょう。

さて、先述したように、日本社会のマジョリティである日本国民は、しばしば与えられた「自由」でマイノリティを踏みつけます。それは、マイノリティの自由にとっては加害以外の何ものでもありません。しかるに、日本国民の中には、マイノリティによる自由の行使を「我侭」と曲解し「マイノリティの我侭な振る舞いこそが、我々の自由を抑圧するのだ」と言って、さも自分たちが被害者であるかのように振る舞う人も少なからず見受けられます。そのような日本国民は、自由の本質を誤解してます。自由は神や国家から恩恵として与えられるものではなく、人間であることによって当然に有するものですから、マジョリティとマイノリティの自由の間に本質的な差異はありません。もっとも、現実には社会に存在する構造的差別によってマイノリティの自由は常に抑圧にさらされるのですが、しかし、先述のとおりマジョリティとマイノリティの自由の間に本質的な差異はないのですから、マイノリティがマジョリティと同等の自由を求めることは、人間として当然のことなのです。それを日本国民が「マイノリティの我侭な振る舞いだ」などと言うのは、それこそマジョリティの傲慢です。マジョリティは、自分たちの自由を尊重されたいのであれば、何よりもまずはマイノリティの自由を尊重すべきです。マイノリティの自由が尊重されない社会に、本当の自由はありません。

こうしてみると、たとえ日本が「自由な国」だとしても、それはせいぜいマジョリティにとって「自由な国」でしかありません。しかし、自由の本質に鑑みれば、それはまがいものにすぎません。日本を本当に自由な国にするためには、マイノリティの自由を抑圧する差別構造を解体することが是非とも必要です。そして、マジョリティは、その自由を差別構造を解体するために使うべきです。