葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

軍艦島の朝鮮人差別も、構造の問題である。(前エントリーの補足)

yukito-ashibe.hatenablog.com

 

前エントリーで引用した共同通信の記事*1からは不明でしたが、朝日新聞*2朝鮮日報*3の記事によれば、軍艦島における朝鮮人差別の存在を否定するために日本政府が援用する「元島民」の証言は、日本人のものだけではなく在日韓国人2世の方(故人)のものもあるようです。このことから、「差別されたとされる朝鮮人が『朝鮮人差別はなかった』と言うのだから、朝鮮人差別はなかったのだ」と思う日本国民も少なからずいるでしょう。

もちろん、私はこの「元島民」であった在日韓国人の方の証言が虚偽であるなどと言うつもりはありません。たしかに、この証言者にとっては「朝鮮人差別はなかった」というのが「真実」なのでしょう。しかし、言うまでもなくこの証言者の証言が軍艦島朝鮮人差別に関する証言の全てではありません。周知のように、軍艦島朝鮮人差別を告発する朝鮮人労働者の証言は決して少なくありません。それに、当時はまだ幼く、また「伍長」の子であったこの証言者*4が知らない朝鮮人差別もあったはずです。

そもそも民族差別は、構造の問題であり、そこでは差別する側の一人ひとりの主観が問題にならない(「差別するつもりはなかった」などという言い訳は通用しない)のと同様に、差別される側一人ひとりの主観は問題になりません。つまり、たとえ差別される側の一人が「差別はなかった」と認識していたとしても、それだけで客観的な構造的差別がなくなることは決してないのです。

日帝による朝鮮植民地支配の下、日本社会に客観的な構造的差別として朝鮮人差別が存在したのは紛れもない歴史的事実であり、それは日本社会に今も継続しています。このことを考えれば、差別の被害者である朝鮮人労働者が差別の存在を訴えている以上は、軍艦島にも客観的な構造的差別として朝鮮人差別が存在したを推定することが合理的です。そして、そうである以上、軍艦島における朝鮮人差別の問題に関しても、日帝が生み出した差別構造を受け継ぐ日本国家と、差別構造における「差別する側」である日本国民は、軍艦島朝鮮人差別を告発する被害者の声を真摯に受け止め、そして今も継続する日本社会の民族差別を克服しなければなりません。しかるに、軍艦島朝鮮人差別を告発する被害者の声を真摯に受け止めるどころか、「差別される側」であった元島民の証言を自分に都合よく援用し、被害者の告発を無力化することで、軍艦島における朝鮮人差別の存在を否定しようとする日本政府は、実に卑怯で醜悪です。

 

軍艦島に耳を澄ませば聞こえる、被害者の声を聞け。

「軍艦島で朝鮮人差別存在せず」 政府、元島民の証言を一般公開へ | 共同通信

 

おそらく、多くの日本国民は「元島民が『戦時徴用された朝鮮半島出身者への差別的対応はなかった』と証言しているのだから、軍艦島での朝鮮人差別はなかったのだろう」と思うのでしょう。

私は、この「元島民」が嘘の証言をしているなどというつもりはありません。しかし、「戦時徴用された朝鮮半島出身者への差別的対応はなかった」とする「元島民」の証言だけで、本当に朝鮮人差別がなかったといえるのでしょうか。

共同通信の記事からは断定できませんが、おそらく証言をした「元島民」は日本人なのでしょう。そうだとすると、この「元島民」は、たとえ「善い日本人」であったとしても、当時の日本と朝鮮の関係の下では「朝鮮人を差別する側の人間」であることに変わりはありません。しかるに、どうして「朝鮮人差別がなかった」ことが、「朝鮮人を差別する側の人間」の証言だけで「真実」となるのでしょうか。

これに対して、「それならば、朝鮮人労働者の証言だけで朝鮮人差別があったことにはならないだろう」と、「軍艦島での朝鮮人差別はなかった」と主張する人たちは言うでしょう。たしかに、それはそうかもしれません。しかし、それならば同じように「元島民の証言」だけでも朝鮮人差別がなかったことにはならないはずです。それとも、「日本人である元島民の証言は信用できるが、朝鮮人労働者の証言は信用できない」とでも言うのでしょうか。しかし、それもまた朝鮮人差別です。

「平和都市」長崎市の田上富久市長のように*1、当時の軍艦島の繁栄を理由に「島は決して地獄島と表現されるような状況ではなかった」と主張する人も少なからずいます。たしかに、「繁栄」も、軍艦島の「一つの事実」であり、それゆえに日本人である島民にとっては「地獄島」ではなかったのかもしれません。しかし、だからといって当然に朝鮮人労働者や中国人労働者にとっても「地獄島ではなかった」と言うことはできないはずです。それに、その繁栄は、朝鮮人労働者や中国人労働者の犠牲の上に成り立っていたものです。当時の軍艦島の繁栄を理由に「島は決して地獄島と表現されるような状況ではなかった」と主張する人は、そのことを少しでも考えてみたことがあるでしょうか。

歴史修正主義者たちは否定するでしょうが、かつての日帝による侵略や植民地支配は、疑いを差し挟む余地のない歴史的事実です。そうである以上、日帝による植民地主義の犯罪に関して、日本の政府や国民は何よりもまず被害者の「声」を真摯に聞くべきです。それができないのであれば、「かつての日帝による侵略や植民地支配への反省」も、しょせん口先だけのものでしかないでしょう。

 

honto.jp

 

差別の問題で「分断」という言葉を使いたがる人たち

 

このごろ、よく差別の問題を「差別ではなく、異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するものである」と言う人が少なからずいます。彼らの言説に従えば、例えば人種差別は「異なる人種間の対立」であり、また女性差別は「男女間の対立」なのでしょう。

たしかに、一つの階級についてだけ見れば、人種差別や女性差別も「異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するもの」のように見えるかもしれません。そして、そのような対立が権力者によって、いわゆる「分断統治」に利用されることがあるのも事実でしょう。しかし、その根底には、まさに社会の差別構造があります。しかるに、差別の問題を「差別ではなく、異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するものである」と言う人は、そのような社会の差別構造を看過する過ちを犯しています。

差別は構造の問題であり、そこではマジョリティとマイノリティの間に圧倒的な非対称性が存在するのですから、「分断」云々をいうのであれば、むしろマジョリティは「圧倒的な非対称性」という分断に安住しているのです。差別の問題に関してマジョリティが使いたがる表層的な「分断」という言葉は、差別構造における「圧倒的な非対称性」という、より深い分断を覆い隠してしまいかねません。

差別の問題で「分断」という言葉を使いたがるマジョリティたちは、きっと「我々だって、決して好き好んで差別するわけではない。社会の分断を利用したい権力者によって対立を煽られるのだから、仕方がないのだ。対立を煽られる点ではマイノリティにも落ち度があるし、分断される我々マジョリティだって本当は被害者なのだ」と言いたいのでしょう。たしかに、社会の差別構造は〈力〉を持つ者によってつくられるものです。しかし、それを支えているのは紛れもなくマジョリティであり、そうした構造のうえにマジョリティが「特権者」として安住していることに鑑みれば、「分断」という言葉を用いて社会の差別構造から目をそらし、被害者ヅラするのは、いささか醜悪で卑怯だといえます。例えば、日本社会の在日コリアン差別に関して、日本人が「日本社会に在日コリアン差別などというものはなく、あるのは日本人と在日コリアンの対立だ。安倍や極右によって社会を分断され、在日コリアンと対立させられる日本人だって本当は被害者なのだ。それに、対立を煽られる在日コリアンにも落ち度がある」などと言うのがどれだけ醜悪で卑怯であるか、民族差別について真摯に考えている人であれば容易に分かるはずです。

先に述べたように、社会の差別構造は〈力〉を持つ者によってつくられるものです。しかし、それは人がつくったものだからこそ、私たちはそれをこわしていくことができるのです。そして、社会の差別構造をこわしていく、それこそまさに私たちが差別を克服するためにしなければならないことなのです。そのためにも、私たちは「分断」などという言葉を安易に用いて社会の差別構造から目をそらしてはなりません。

日本人の人種差別や民族差別への無頓着さは、どこからくるのか。

 

 

今般のアメリカでの人種差別問題*1に関して、日本でも抗議デモに対して「連帯」を表明する人がいるものの、冷淡な人も決して少なくないでしょう。この、日本人が人種差別問題に冷淡である理由として、アメリカのように多民族社会ではない日本では人種差別や民族差別がほとんどないからだ、ということを挙げる人が少なからずいます。それが「日本は単一民族国家である」という幻想に囚われた誤解であることは、少し考えれば容易に分かることです。

多数の日本人が人種差別や民族差別に無頓着であるとして、それは日本に人種差別や民族差別がほとんどないからではありません。むしろ、日本社会が差別で成り立っている社会であり、そのことを「国民」に気づかせないようにするための巧みな仕掛けが施されているからです。つまり、日本人の人種差別や民族差別への無頓着さは、差別で成り立つ日本社会が作り出すものであるといえます。

先述の「日本は単一民族国家である」という幻想と、それを生み出し支える天皇制は、まさに日本社会が差別で成り立っている社会であることを「国民」に気づかせないようにするための巧みな仕掛けです。もっとも、差別で成り立つ日本社会では、「国民」は「差別する側」であると同時に「差別される側」でもあるのですが、日本社会が差別で成り立っている社会であることに気づかない「国民」は、もちろん自分が「差別される側」であることにも気づかないでしょう。そして、それは「国民」を差別する側の権力者にとって実に好都合なのです(もっとも、日本社会が差別で成り立っていることをよく知った上で、差別に抗せず差別者としてとして振る舞う人も少なからずいますが、そういう人のことを「差別主義者」といいます。)。

日本社会が差別で成り立っている社会であることを「国民」に気づかせないことは、差別が人権侵害であり、許されざる悪であるという認識や感覚を希薄にしてしまいます。もちろん、多くの日本人も抽象的には差別が「悪」であることを知っているでしょうし、だからこそ新型コロナウイルス禍では多くの日本人が欧米での日本人差別に怒り、また、今般の今般のアメリカでの人種差別に心を痛める日本人も皆無ではないのでしょう。しかし、例えば日本の政府や自治体による朝鮮学校差別に関しては、それが憲法だけでなく国際条約に違反する差別である*2にもかかわらず、多数の日本人は「悪」と認識しないどころか、それを「悪い『北朝鮮』に対する正義の制裁」だと認識しているのです。そして、民族差別が、いわば「国民的道徳」と化したことで、多くの日本人が、まるで天気の話でもするかのように他民族への憎悪を口にするのです。こうした民族差別の「国民的道徳」化によって、「国民」は日本社会が差別で成り立っている社会であることにますます気づきにくくなります。

今般のアメリカでの人種差別問題が、人種差別にいまいちピンと来ない日本人がアメリカの人種差別について知る機会になるとすれば、それはそれで良いことだと思います。しかし、それだけでなく、(人種差別にいまいちピンと来ない日本人が)昨日今日に始まったことではない日本社会の根深い構造的な問題であり、あるいは日本の「国是」ともいえる日本社会の民族差別としっかり向き合う契機になればいいと思います。いや、「日本社会の民族差別としっかり向き合う契機になればいい」というより、むしろ日本社会の民族差別としっかり向き合う契機にしなければなりません。もっとも、結局のところ日本人にとってはアメリカの人種差別問題も、ナチスによるホロコーストが日本の戦争加害の歴史を忘れながら「日本人の良心」を満たすために消費するものであるのと同じように、日本社会の民族差別から目を背けながら「日本人の良心」を満たすために消費するものでしかないのかもしれませんが。

「ブルーインパルス問題」の本質

安倍首相「ブルーインパルス」の”感謝飛行”に拍手 医療従事者にもあたらめて感謝と敬意:中日スポーツ東京中日スポーツ https://www.chunichi.co.jp/article/64602

 

今回のブルーインパルスの編隊飛行に関しては、これを称賛する多くの声がある一方で、「新型コロナウイルスへの対応にあたる医療従事者らへの敬意と感謝を示すこととブルーインパルスの編隊飛行に、いったい何の関係があるのだろうか」と疑問を呈する声も決して少なくありません。たしかに、新型コロナウイルスへの対応にあたる医療従事者らへの敬意と感謝を示すこととブルーインパルスの編隊飛行に、いったい何の関係があるのか私もさっぱり分かりません。ただ、「新型コロナウイルスへの対応にあたる医療従事者らへの敬意と感謝を示すための飛行」という政府が主張する趣旨を額面通りに受け取るのは、いささかナイーブすぎるでしょう。

私が思うに、今回のブルーインパルスの編隊飛行は、政府の医療従事者らへの敬意と感謝を示すものなどではなく、国民の日本軍「自衛隊」への敬意を養うもの、つまり日本軍「自衛隊」を称揚するプロパガンダです。ブルーインパルスの編隊飛行を目撃した国民たちの「本物はやっぱりすごい!」や「かっこいい」といった歓声が、その証左です*1。また、今回のブルーインパルスの編隊飛行を歓迎する国民の中には、「新型コロナウイルス禍で暗い世相のなか、子供たちが『ブルーインパルス、かっこいい!』となればいいじゃないか」と言う人もいるようですが、しかし、もし子供たちがブルーインパルスの編隊飛行を見て「ブルーインパルス、かっこいい!」となったとすれば、それこそ安倍政権や日本軍「自衛隊」の「目論見通り」でしょう。

安倍政権の「目論見」は、日本軍「自衛隊」の称揚だけではありません。飛行を見た都内在住の内科医は、マスメディアの取材に対して「誰もが同じ空の下、同じもの(=ブルーインパルス)に目を向けることで、まとまりも出てくる」と語ったそうですが*2、まさにこの人民を「国民」としてひとつにまとめて束ねること、つまりファシズムこそが、安倍政権が今回のブルーインパルスの編隊飛行に込めた、もうひとつの意図です。もっとも、今回ブルーインパルスが飛んだのは都心の空だけですが、しかし「帝都」の空を飛ぶ日本軍「自衛隊」機を「帝都」の国民が見上げる姿がマスメディアによって全国に伝えられれば、必要にして十分でしょう。

さて、今回のブルーインパルスの編隊飛行を批判する国民の中には、「ブルーインパルスの政治利用はやめろ」と言う人も少なくないようです。たしかに、今回のブルーインパルスの編隊飛行は「ブルーインパルスの政治利用」ですが、しかし、「ブルーインパルスの政治利用はやめろ」という批判は失当です。もっとも、それは今回のブルーインパルスの編隊飛行が「医療従事者らへの敬意と感謝を示す」ものだからではありません。「ブルーインパルスの政治利用はやめろ」という批判が失当なのは、そもそもブルーインパルスが、日本軍自衛隊プロパガンダという政治利用するためのものだからです。つまり、本当に日本が軍国主義を克服したのであれば、日本軍自衛隊プロパガンダという政治利用するためのブルーインパルスなどというものはいらないはずです。もしかすると、「ブルーインパルスの政治利用はやめろ」と言う人は、ブルーインパルスの正しい利用方法として「軍隊の平和利用」というものがある(そして、そもそも自衛隊こそが、まさしく「軍隊の平和利用」である)と考えているのかもしれません。しかし、「軍隊の平和利用」などというのは欺瞞でしかありません。核と同様に、軍隊も到底「平和利用」できる代物ではないのです。

天皇制に反対することは、「天皇のことが好きか、嫌いか」の問題ではない。

天皇制に反対する私は、もし「天皇のことが好きか、嫌いか」と聞かれたら、迷わず「嫌いだ」と答えます。

もちろん、天皇のことが好きだというのは個人の勝手です。しかし、天皇制の是非を問う議論において「天皇のことが好きか、嫌いか」と問うことはナンセンスです。なぜなら、天皇制の問題は構造的な差別の問題であって、主観的な好き嫌いの問題ではないからです。ここであえて「好き嫌い」を問題とするならば、「天皇制のことが好きか、嫌いか」は、つまり「差別制度のことが好きか、嫌いか」ということです。

もっとも、天皇制の是非を問う議論において「天皇のことが好きか、嫌いか」と問うことがナンセンスであるとしても、「天皇のことが好き」だという感情は、天皇制という差別制度と決して無関係ではありません。なぜなら、天皇を敬愛する国民の感情(それを作り出すのは、ほかならぬ天皇制なのですが……)こそが、天皇制という差別制度を支える上で大きな役割を果たしているからです。しばしば「私は天皇のことが好きだが、しかし天皇制には反対だ」と言う人がいますが、残念ながらその人の天皇を敬愛する純粋な気持ちは、天皇制という差別制度の維持・強化に役立てられているのです。

さて、冒頭でも述べたように、もし「天皇のことが好きか、嫌いか」と聞かれたら、迷わず「嫌いだ」と答える私ですが、こんな私に「天皇のことが嫌いなら日本から出て行け」と罵声を浴びせる人もいるかもしれません。なぜ天皇のことが嫌いであれば日本から出て行かなければならないのか、正直なところ私には理解できませんが、この「天皇のことが嫌いであれば日本から出て行かなければならない」という"魔術的な言葉"は、紛れもなく天皇制によって生み出されたものです。そして、この"魔術的な言葉"を畏怖して「天皇のことが嫌いだ」と答えることを躊躇う人もいるでしょう。つまり、(天皇そのものは非理性的存在であるものの、)「排除の論理」で貫かれた天皇制は、「天皇のことが嫌いだ」という答えを許容しない制度なのです。こうした点に鑑みると、「天皇のことが好きか、嫌いか」を問うことは、やはりナンセンスであるといえるでしょう。問うべきは、「天皇のことが嫌いだ」という答えを許容しない暴力的な制度である天皇制です。

検察官が「準司法官」であるかどうかは、検察庁法改悪問題の本質的論点ではない。

www.jcp.or.jp

 

まず、はじめにお断りしておきますが、私は今般の検察庁法の改悪には断固として反対です。安倍首相は、今国会での成立を断念した理由を「国民のみなさまのご理解なくして、前に進めていくことはできないと考える」と述べていますが*1、政府に都合よく法律をいじることは法治主義に悖るものですから、今般の改悪法案は今国会での成立見送りにとどまらず、これを廃案にすべきです。

しかし、今般の検察庁法の改悪をめぐる議論の中で、どうしても違和感を覚える論点があります。それは、「検察官は行政官か、それとも「準司法官」か」という論点です。改悪反対論者の中には、安倍首相の「検察官は行政官だから、三権分立で言えば行政官」という発言*2を、「検察官は準司法官とも言われ」るという検察OBの発言*3検察庁のホームページに「検察官及び検察庁は,行政と司法との両性質を持つ機関である」と書かれている*4ことなどを挙げて、「検察官は『準司法官』であるから行政官ではない。それなのに検察官を行政官だと言う安倍は嘘つきだ」と批判する人が少なくありません。

たしかに、検察官が公訴権を独占し刑事司法において重要な一翼を担う機関であることから「準司法官」とよばれることがあるのはそのとおりです。しかし、それは検察官が行政官であることを否定するものではありません。

" そこで、①検察官が職務を行うにあたってはパルチザン的であってはならず、公正義務ないし客観義務が課され、②その地位は社会秩序の維持に奉仕する行政官ではあるが、職務の遂行にあたっては司法官的な行動規範による修正が加えられる。検察官がときに「準司法官」とよばれ、また、一方では、行政府に属するため検察官(同)一体の原則が認められるものの、他方では、ある程度の職務の独立があり、そのため裁判官に準じて身分が保障され、法務大臣の指揮権に制約が加えられるのも、そのためである。"(田宮裕『刑事訴訟法有斐閣

また、検察官の「準司法官論」は決して「自明の理」ではありません。

" 検察官の地位については、多々議論がある。……また、他方において、②「検察官の客観義務」あるいは検察官の「準司法官論」という主張もある。検察官に広範な権限が認められているのは、単なる一方当事者ではないからであって、裁判官に準ずる地位にあることを自覚的に議論しようとするものである。しかし、これによって検察官への権限集中を正当化するとすれば、あるべき刑事司法の形態からは遠ざかることになろう。"(田口守一『刑事訴訟法』弘文堂)

今般の検察庁法の改悪をめぐる議論では、どうもこの「準司法官」という言葉が独り歩きしてしまっているような気がしてなりません。もちろん、前述のとおり検察官が「準司法官」とよばれることがあるのは事実です。しかし、今般の検察庁法の改悪をめぐる議論で大切なのは、検察官が公訴権を独占し刑事司法において重要な一翼を担う機関であることから、政治からの独立性と中立性の確保が強く要請されるという点であって、検察官が「行政官か、それとも『準司法官』」は本質的論点ではありません。

私が「準司法官」という言葉の独り歩きを危険だと思うのは、検察官が「準司法官」であることを強調する人たちに対して「逆張り」したいからではありません。改悪反対論者の中には、「準司法官」という言葉にとらわれるあまり、検察官を司法機関そのものだと誤解する人も見受けられますが、そのような誤解は権力分立の趣旨にそぐうどころか、むしろ反するものだからです。すなわち、刑罰が国家による人権制限に鑑みれば、(刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求する)訴追機関である検察官を(具体的な争訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用)司法(司法とは、「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用」をいう)機関である裁判所から明確に分離することが権力分立の趣旨である人権保障に資するのであり、これもある種の権力分立であるといえます。歴史的に見ても、戦前の検察官は裁判所から明確に分離されておらず*5司法官的地位を有していましたが、しかし、現行刑事訴訟法の下では、検察官は司法官としての地位を否定され、行政官として性格づけられるに至りました。検察官が「準司法官」とよばれることがあるとしても、それはあくまでも司法官に準ずる行政官なのであって、司法官そのものではないのです。

さて、検察官が司法機関そのものではないとしても、だからといって今般の検察庁法の改悪が三権分立の観点から問題がないということにはなりません。安倍首相は、どうやら検察官が「三権分立で言えば行政官」であれば問題がないと思っているようですが、それは大きな勘違いです。冒頭で述べたように、政府に都合よく法律をいじることは法治主義に悖るものであり、すなわちそれは立法府と行政府の「あるべき関係」を破壊する点で、三権分立を破壊するものだといえるのです。また、安倍首相のおっしゃるように検察官が行政官であることを考えれば、市民が検察の「あるべき形」について声を上げていくことは、民主主義の観点からすれば非常に重要です。行政は、安倍首相の「私物」ではないのですから。