葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

J.‐P.サルトル『ユダヤ人』(岩波新書)雑感

ユダヤ人 - 岩波書店

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1954年に刊行されたJ.‐P.サルトルユダヤ人』(岩波新書)は、半世紀以上前のフランスにおける反ユダヤ主義を批判した書ですが、まるで現在の日本の状況について述べたものであるかのような記述がいくつも見受けられます。

意見を持つということも、政府の葡萄酒醸造政策についてでもあったら、まだまだ承認できぬこともない。アルジェリアの葡萄酒を、自由に輸入するか否かについては、それぞれの理由も成り立とう。というのも、この場合は、物品の管理についての見解を述べるのだからである。これに反して、直ちに特定の個人を対象とし、その権利を剝奪したり、その生存を脅かしたりしかねぬ一主義を、意見などと呼ぶことは、わたしには出来ない。反ユダヤ主義者が傷けようとしているユダヤ人、それは、行政法の中にでもあるような、単にその機能によってのみ定義された図形的存在ではない。法典におけるが如く、状況と行為によってのみ規定された存在ではない。それはひとりのユダヤ人、ユダヤ人を父とし、肉体的に、髪の色や、あるいは身なりで、更に、性格によっても、識別がつくといわれるひとりのユダヤ人なのである。

 

Ⅰ なぜユダヤ人を嫌うのか 4頁

民族差別は、たとえば韓国料理やK-POPが好きか嫌いかといった個人の「好き嫌い」の問題ではなく、個人の尊厳を傷つけるものであって、それは個人の自由として許されるものでは決してありません。そして、民族差別が傷つけるのは、記号的存在ではない、一人ひとり違う顔を持つ生身の人間の尊厳なのです。

彼等は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手の方で、彼等には、もてあそぶ権利があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理窟を並べることによって、話相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実であることに、快感をさえ感じているのである。なぜなら、彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢を挫いたり、とまどいさせたりすることだからである。

 

Ⅰ なぜユダヤ人を嫌うのか 18頁

サルトル先生の時代のフランスだけでなく、私たちの時代の日本にも、この「彼等」すなわち反ユダヤ主義者のような「話をもてあそぶことを楽しんでさえいる」人たちがいるでしょう。そう、それは「ネット右翼」や「某論破王」です。「ネット右翼」や「某論破王」の「ディベート」は、まさに「滑稽な理屈を並べることによって、話相手の真面目な調子の信用を失墜」させることを目的とするものです。「ネット右翼」や「某論破王」にとって、「ディベート」は建設的に議論をして妥当な結論を得るものではなく、快楽を得ることを目的とした一種の遊戯なのでしょう。だから、そもそも「ネット右翼」や「某論破王」相手にまともな議論は成り立たないのです。

反ユダヤ主義者は、自惚れない。彼らは自分を、中位の、ごく普通の人間、結局、とるに足らない人間と考えている。

 

Ⅰ なぜユダヤ人を嫌うのか 21頁

いわゆる「ネット右翼」たちは、しばしば自分自身を「日本を愛する普通の日本人」と自称します。もっとも、彼らが反ユダヤ主義者のように自分自身を「とるに足らない人間」と考えているかどうかはわかりませんが……

「わたしは、ユダヤ人が嫌いだ」という言葉は、グループを作って言われる言葉である。それを口にすることは、ある伝統に、ある共同体、とるに足らぬ人々の伝統と共同体に結びつくことなのである。

 

Ⅰ なぜユダヤ人を嫌うのか 21頁

まるで天気の話でもするかのように他民族への憎悪を口にする日本人は、残念ながら少なからず見受けられます。天皇制を支える「同化と排除」の論理に貫かれた日本社会では、他民族への憎悪を口にすることは、「天皇の国」の選ばれし「国民」の伝統と共同体に結びつくことなのかもしれません。

彼等はイスラエル人を盗人と考えることによって、盗まれるものを持つ人々と同様の羨むべき地位に自分を置こうとするのである。ユダヤ人が、フランスを盗もうとするから、フランスが自分達のものだと感じられるのである。

 

Ⅰ なぜユダヤ人を嫌うのか 21頁

ユダヤ人が、フランスを盗もうとするから、フランスが自分達のものだと感じられるのである」という一節を読んで私が思い浮かべたのは、「ネット右翼のカリスマ」ともいえる安倍元首相の「日本を、取り戻す。」というスローガンです。

www.youtube.comネット右翼」は、よく「在日コリアンが日本を牛耳っている」あるいは「立憲野党は外国勢力と結託している」といった荒唐無稽な妄言を吐きますが、安倍氏は、いったい誰が「日本」を自分達から盗んだと思い、いったい誰から「日本」を取り戻そうと思っていたのでしょうか。安倍氏が取り戻したい「日本」が、かつてアジアの人々から彼らの国を強奪したことを都合よく忘れて……

反ユダヤ主義者は、世の中がうまく出来ていないということを認めるのをこわがる。もし、そうなら、それを改革し、よい世の中を作り出さなければならないから。そして、人間は、自身の運命の主人となり、同時に苦しい、果しない責任を課されることになるからである。そこで反ユダヤ主義者は、世界のすべての悪を、ユダヤ人の背に負わせてしまう。

 

Ⅰ なぜユダヤ人を嫌うのか 43頁

ネット右翼」のみならず「リベラル派」の中にも、自民党政権の強権政治や日本警察による人権侵害といった日本の「内なる悪」を批判する際に「まるで中国のようだ」あるいは「まるで北朝鮮のようだ」と言って日本の「内なる悪」を中国や朝鮮の背に負わせてしまう人が少なからずいます。そういう「リベラル派」は、「外からやってきた悪」に穢された「日本」を清める必要はあるが「日本」そのものを変える必要はないと思っている人もいるかもしれませんが、しかしそうやって「リベラル派」が日本の「内なる悪」と真摯に向き合わず、中国や朝鮮を「悪魔視」して日本の「内なる悪」を背負わせているうちは、日本が日本帝国主義を克服して真の民主的で平和的な国家に生まれ変わることは決してできないでしょう。

われわれは、反ユダヤ主義は、ユダヤ人の問題ではない。われわれの問題であると言うことが出来よう。

 

Ⅳ ユダヤ人問題はわれわれの問題だ 187頁

日本社会にはびこる民族差別は、日本社会の構造的問題であり、それは差別構造を構築し温存している日本社会のマジョリティの問題です。つまり、日本社会にはびこる民族差別は、決して「差別される側」の問題ではなく、構造的に「差別する側」である日本人の問題なのです。

そこで、わたしたちは、問題が決してひとごとでないことに気がつきます。戦争中、口で「内鮮一体」や、「大東亜共栄圏」を唱えた超国家主義者たちが、中国人や朝鮮人をどう扱ったか、そして、わたしたちも、それにひきずられて、どんな態度をとり勝ちだったか、また、現在、本当にそれが拭い去られているかなどと考えさせられるのです。

さらに、反ユダヤ主義者の根柢であるという、社会的矛盾の真の原因を掩いかくし、それを特定の人々のせいにして迫害をくわえるような傾向は、いろいろな形で、現在の日本にもあらわれて来ているのではないでしょうか。

 

訳者まえがき ⅱ‐ⅲ

安堂信也先生によってこの訳者まえがきが書かれたのは1956年です。しかし、それから半世紀以上が経った今も「社会的矛盾の真の原因を掩いかくし、それを特定の人々のせいにして迫害をくわえるような傾向は、いろいろな形で、現在の日本にもあらわれて来ている」という状況は変わらないどころか、むしろ悪化しています。それを考えると、私たちはこの書を単に反ユダヤ主義を批判した書として読むのではなく、この書を通じて「われわれの問題」である日本社会の民族差別と真摯に向き合うことが大切です。