葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

言論の自由は「批判されない特権」ではないし、そもそも差別発言をすることは憲法で保障されている言論の自由ではない。

差別批判は「言論弾圧」 杉田水脈氏、当選前発言で|47NEWS(よんななニュース)

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差別発言に対する批判を「言論弾圧だ」と言う自民党杉田水脈衆院議員は、言論の自由をまるで理解していません。

言論の自由が人権として憲法で保障されているのは、単に「自由」だから保障されているのではありません。言論の自由が人権として憲法で保障されているのは、人権として憲法で保障する価値があるからです。言論の自由には、二つの大切な価値があります。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)です。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)です(芦部信喜憲法岩波書店)。そして、これら二つの大切な価値があるからこそ、言論の自由は人権として憲法で保障されるのです。

自己実現の価値」と「自己統治の価値」をもつ言論の自由は、究極的には個人の尊厳の確保を目的とするものです。それゆえ、言論の自由は、個人の尊厳を常に意識して行使すべきものであり、個人の尊厳に対する思慮を欠く発言は、「思想の自由市場」において個人である発言の受け手からの厳しい批判にさらされることになります。かかる個人である発言の受け手による批判は、公権力による「言論弾圧」とは全く異なります。個人である言論の受け手は、公権力と異なり言論の自由の享有主体です。すなわち、ある発言を批判する個人も、批判されている発言の主体である個人と同じく言論の自由を有しているのです。そして、このことは、たとえ批判が多数であったとしても何ら変わることはありません。つまり、言論の自由は、言論の自由を有する個人である発言の受け手からの批判を当然に予定しているのであって、決して「批判されない特権」ではないのです。ましてや衆院議員という公人である杉田氏の発言は、自己統治の価値に鑑みれば、たとえ差別発言が当選前のものであろうと、有権者からの厳しい批判にさらされてしかるべきなのです。

杉田氏の言論の自由についての無理解は、杉田氏の発言に対する個人からの批判を「言論弾圧だ」と思っていることだけにとどまりません。差別発言は、記号的存在ではない、一人ひとり違う顔を持つ生身の人間の尊厳を傷つけるものです。そして、先に述べたように「自己実現の価値」と「自己統治の価値」をもつ言論の自由は、究極的には個人の尊厳の確保を目的とするものです。かかる目的に鑑みると、個人の尊厳を傷つける差別発言は、言論の自由が人権として憲法で保障されている趣旨に悖るものであって、言論の自由の保障の範囲外であることは明らかです*1。つまり、そもそも差別発言をすることは憲法で保障されている言論の自由ではなく、この点でも杉田氏は言論の自由をまるで理解していないのです。

こうしてみると杉田氏は、憲法を尊重し擁護する義務を負う(憲法第99条)国会議員としての資質に欠けると言わざるを得ません。法務局からも人権侵犯と認定された*2自らの差別発言を反省するどころか「私は差別をしていない」と開き直る*3杉田氏は、一刻も早く議員辞職すべきですし、有権者はこのような人物を国会議員にしてはなりません。