葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本共産党の天皇制に対する態度は、どこが間違っているか。

天皇制というのは、憲法で決められた制度であります。日本共産党の考えだけで、変えられるものではありません。日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題であります。それまでは、私たちの好き嫌いいかんにかかわらず、憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だと私たちは考えています。(日本共産党創立81周年記念講演)

https://www.jcp.or.jp/jcp/22th-7chuso/key-word/b_1.html#Anchor-0502

上記の天皇制に関する日本共産党の主張は、一見すると正論のように思えるかもしれません。しかし、これは天皇制に対する日本共産党日和見主義を正当化するための詭弁です。

まず、天皇制は、たしかに「憲法で決められた制度」です。しかし、それを理由に「天皇制と共存するのが道理ある態度だ」と言うのは、憲法の本質を無視する悪しき形式主義です。たとえば、憲法9条を変えるべきでないのは、9条の趣旨である平和主義が憲法の究極目的である個人の尊厳の確保に資するからであって、単に9条が憲法で決められたものだからではありません。それとも、たとえばもし自民党が目指す改憲が実現してしまったとして、その時は「憲法にある制度として、国防軍や緊急事態条項と共存するのが道理ある態度だ」ということになるのでしょうか。日本共産党の理屈に従えばそういうことになりますが、それははたして日本共産党の本意とするところなのでしょうか。日本共産党は大きな誤解をしていますが、「護憲」とは、憲法の条文を変えないことではなく、憲法の基本理念を変えないことです。つまり、たとえ「憲法で決められた制度」であっても、それが憲法の基本理念に悖るものであれば、その制度は変えるべきなのです。そして、差別制度である天皇制は、基本的人権の尊重という憲法の基本理念に悖るものですから、これを廃止するのが「道理ある態度」です。

つぎに、「日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題であります」というのは、一見すると「国民主権」の理念に沿った主張のようにも思えます。しかし、これはまさに天皇制に対する日本共産党日和見主義を正当化するための詭弁です。なぜなら、日本の民主主義を妨げているのが他ならぬ天皇制であることを考えれば、時が来れば自然に「日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟」するということは、天皇制が安泰である限り決して起こらないからです。また、天皇制によって差別・抑圧されるのは、決して「日本の国の主人公である国民」だけではありません。それとも日本共産党は、まさか「日本の国の主人公である国民」ではない人民は排除されても仕方がないとでも言うつもりでしょうか。しかし、それはまさに天皇制と結びついた国民主義の「同化と排除」の論理です。

日本共産党は大きな勘違いをしていますが、私は単なる「好き嫌い」で天皇制の廃止を主張するのではありません。私は、天皇制が人民を差別・抑圧する制度であるから、天皇制の廃止を主張するのです。つまり、天皇制は人民を差別・抑圧する制度であるから、「私たちの好き嫌いいかんにかかわらず」天皇制を廃止しなければならないのです。

もちろん、天皇制は、日本共産党の考えだけで変えられるものではありません。しかし、そのことは、人民を差別・抑圧する天皇制の廃止に向けて人民を導く前衛党としての責務を怠ることの言い訳にはなりません。たとえ天皇制が日本共産党の考えだけで変えられるものでないとしても、日本共産党が人民の前衛党として「主人公」である人民に対して、人民を差別・抑圧する天皇制の廃止を訴えかけることはできるはずです。しかるに、人民を差別・抑圧する天皇制を温存したい「国民」の顔色をうかがい、そういった「国民」の期待に応えるべく「憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だ」などと詭弁を弄する日本共産党の態度は、まさに日和見主義であり、それは人民の前衛党たる共産党としてふさわしくない恥ずべき態度と言わざるを得ません。