葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

政権批判や民族差別批判をするのに「真の愛国者」である必要はない。

リベラル派の中には、「政権批判や民族差別批判をする私こそが『真の愛国者』である」と言う人が少なからずいます。

もちろん、「真の愛国者」たちが日本という「国」を愛するのは個人の自由です。しかし、政権批判や民族差別批判をするのに「真の愛国者」である必要はありません。なぜなら、政権批判や民族差別批判は民主主義や人権という客観的な価値の問題であって、「国」を愛するかどうかという個人の主観的な感情の問題ではないからです。

日本という「国」が嫌いでも、自分が生きる社会を良くしたいから政権批判や民族差別批判をするという人もいるでしょう。私たちの社会生活は、本来的には「国」を愛するかどうかという個人の主観的な感情とは無関係に営まれるものです(「国」を愛さなければ社会生活を営みことができない、というのは迷妄に過ぎません。)。それゆえ、自分が生きる社会を良くために政権批判や民族差別批判をすることは、「国」を愛するかどうかという個人の主観的な感情とは無関係に行われるものなのです。それとも、まさか「真の愛国者」たちは、「自分が生きる社会を良くために政権批判や民族差別批判をすることは、『国』を愛することにほかならない」とでも言うのでしょうか。しかし、日本における「国」の概念が、天皇制によって「国家」と固く結び付けられている現状に鑑みると、それはファシズムにつながる危険な考えです。これに対して、「真の愛国者」たちは、「我々の『愛国』とは『ナショナリズム』ではなく『パトリオティズム愛郷心)』である」と言うかもしれません。そうだとして、「愛国者」たちは、例えば沖縄の人たちの「愛郷心」を「日本という『国』を愛する心」だと考えているのでしょうか。もしそうであれば、それは「国」という概念がもつ権力性や暴力性についてあまりにも無頓着です。

「真の愛国者」たちは、極右主義者たちの「愛国心」をニセモノだと言います。たしかに、「真の愛国者」たちが言うように、極右主義者たちの「愛国心」は日本国憲法の精神にそぐわないものであるといえます。しかし、極右主義者たちにとっては、日本国憲法の精神こそが「真の日本の精神」にそぐわないものなのでしょう。それゆえ、彼らは「真の愛国者」を名乗るリベラル派が愛する「真の日本」を極右主義者たちの手から取り戻すのと同様に、彼らにとっての愛すべき「真の日本」をリベラル派たちの手から取り戻すべく、日本国憲法の精神を否定するのです。つまり、たとえそれが「歪んだ愛」だとしても、極右主義者たちが「国」を愛していることに変わりはないということです。先にも述べたように、「国」を愛するというのは個人の主観的な感情ですから、それを他者がニセモノだと決めつけるのはナンセンスでしょう。

政権批判や民族差別批判をすることに「愛」を絡めて語る必要は全くありません。しかし、それでもあえて「愛」を絡めて語るならば、私が愛しているのは「ここでいま生きている」という実存であって、「国」という共同の幻想でありません。私は、幻想ではなく実存を愛します。どうか、私という一人の人間の「ここでいま生きている」ことを愛する心情を愛国主義で束ねないでください。