葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「平和の少女像」が象徴する「女性の尊厳と人権」という普遍的価値を共有しない日本政府

「岸田首相、ドイツ首相にベルリン少女像の撤去を要求」 : 日本•国際 : hankyoreh japan

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岸田政権は、韓国の政権交代がベルリンの「平和の少女像」の撤去に向けたロビー外交の追い風になると思ったのかもしれません。しかし、はたして日本政府によるベルリンの「平和の少女像」の撤去に向けたロビー外交は、民主主義を支える「表現の自由*1や「平和の少女像」が象徴する*2「女性の尊厳と人権」という普遍的価値を共有する国際社会に通用するでしょうか。

ベルリンの「平和の少女像」が「日本の立場とは全く違う」ということは、すなわち「平和の少女像」が象徴する「女性の尊厳と人権」という普遍的価値を日本は共有しないということです。日本の極右メディアである産経新聞によれば、岸田氏の要求に対するショルツ首相の反応は芳しいものではなかったそうですが*3、それは「像はミッテ区が管轄しており、独政府として介入できる余地は少ないため」だけではなく、民主主義を支える「表現の自由」や「平和の少女像」が象徴する「女性の尊厳と人権」という普遍的価値を共有するドイツにとっては到底受け入れがたい要求だからでしょう。「(ベルリンの少女像が)引き続き設置されているのは残念だ」と述べた岸田氏ですが、本当に残念なのは「表現の自由」や「女性の尊厳と人権」という普遍的価値を共有せず少女像の排除に腐心する日本政府の態度です。日本政府は、日本が自由や人権といった普遍的価値を共有する国であると自負していますが、残念ながらそれは日本政府の勘違いです。

日本政府は、「女性に対する暴力などの今日なお存在する女性問題を解決すべく積極的に取り組んでいくことも、将来に向けた日本の責任であると考えて」いると言います*4。しかし、本当にそうであれば、戦時性暴力という普遍的な人権侵害の問題を象徴する「平和の少女像」の排除に腐心したりしないはずです。つまり、日本政府の「心からのおわびと反省」*5は、日本軍による戦時性暴力という「負の歴史」を風化させるための、その場しのぎの口先だけのものにすぎないということです。