葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

マイノリティ当事者の声に真摯に向き合うことは、マイノリティへの迎合ではない。

差別に反対するマジョリティの中には、どうやら差別に関するマイノリティ当事者の声に真摯に向き合うことをマイノリティへの迎合だと思っている人たちがいるようです。もしかすると彼らは、「差別はマジョリティ自身の問題であるから、マイノリティ当事者は口を挟むな」と言いたいのかもしれません。しかし、差別に関するマイノリティ当事者の声に真摯に向き合うことをマイノリティへの迎合だと考えるのは、マジョリティの傲慢な勘違いです。

マイノリティ当事者は、差別に反対するマジョリティに対して「マイノリティの言いなりになれ」と言っているのではなく、マイノリティ当事者の個人の尊厳を尊重してほしいと言っているのです。そもそも、マジョリティが差別に反対しなければならないのは、つまるところマジョリティが支配する社会の構造的差別がマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけるからです。それを考えれば、個人の尊厳を尊重してほしいというマイノリティ当事者の声に真摯に向き合うことは、差別に反対するマジョリティの矜持であるはずです。

差別は、たしかに、単なる個人の性格や価値観の問題ではなく、マジョリティが支配する社会の構造的な問題であり、それゆえマジョリティ自身の問題です。しかし、そのことは、マジョリティが差別に関するマイノリティ当事者の声を無視ないしは軽視することを正当化する理由にはなりません。差別が社会の構造的問題であるということは、つまりマジョリティがマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけうる立場にあるということです。そして、それは差別に反対するマジョリティも例外ではありません。差別に反対するマジョリティが、もし自分はレイシストとは違いマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけうる立場にないと思っているのだとしたら、それは大間違いです。

このように、差別に反対するマジョリティといえども、構造的にマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけうる立場にある以上、無自覚のうちにマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけてしまうこともあるでしょう。しかし、大切なのは、マジョリティである自分がマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけうる立場にあることを自覚し、マイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけないよう細心の注意を払うことです。そして、もしマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけてしまったら、真摯に反省し、尊厳の回復に努めなければなりません。マジョリティが差別に関するマイノリティ当事者の声に真摯に向き合うことは、まさにこのために必要なのです。

さて、差別が社会の構造的問題であることは前述のとおりですが、このことから、差別は客観的問題であって、マイノリティ当事者の声に左右されるものではないと考えるマジョリティもいるようです。もちろん、社会の構造的問題である差別が客観的問題であるのは、その通りです。しかし、差別が客観的問題であることは、やはりマジョリティが差別に関するマイノリティ当事者の声を無視ないしは軽視することを正当化する理由にはなりません。むしろ差別が、マジョリティが支配する社会の客観的な問題であり、そしてそれゆえにマジョリティ自身の問題であればこそ、「反差別」が独善に陥らないようにするためにも、差別に関するマイノリティ当事者の声に真摯に向き合うことが必要です。それとも、差別は客観的問題だからマイノリティ当事者の声を聞かなくてもよいと考えるマジョリティは、自分を「神の目」の持ち主だと思っているのでしょうか。

先にも述べたとおり、マジョリティが差別に反対しなければならないのは、つまるところマジョリティが支配する社会の構造的差別がマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけるからです。しかるに、レイシストを叱るためならマイノリティ当事者の個人の尊厳を傷つけてもかまわないとする「反差別」は、本末転倒であると言わざるを得ません。それとも、もしやマジョリティにとって「反差別」は、ならず者のレイシストを叱ることで自尊心を満たすためのものなのでしょうか。