葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「コロナ禍」を戦争になぞらえることの違和感

新型コロナとの「戦争」に勝てるか? 政府の危機対応に見る『失敗の本質』 | ビジネスジャーナル

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「コロナ禍」は、しばしば戦争になぞらえて語られます。

たしかに、「コロナ禍」と戦争は、「例外状態」であるという点では共通しているといえるかもしれません。そして、たしかに自民党政権は、「コロナ禍」に便乗してかつての戦時下のようなファシズム化を進めようとしています。しかし、だからといって「コロナ禍」を戦争になぞらえて考えると、大事なことを見失いかねません。

新型コロナウイルス感染症の防圧と戦争には、決定的な違いがあります。それは、新型コロナウイルス感染症の防圧と違って、戦争は絶対にしてはならないということです。新型コロナウイルス感染症の防圧は、ぜひとも成功すべきものです。しかし、絶対悪である戦争は、勝てばよいというものでは決してありません。

日本のコロナ対策が、かつての戦争で日本が犯したのと同じような失敗を繰り返しているというのは、たしかにそうかもしれません。しかし、かつての戦争で日本が犯した本当の過ちは、戦略的な失敗を犯して戦争に負けたことではありません。戦争は、そもそもそれ自体が決して犯してはならない過ちであり、それゆえ、かつての戦争で日本が犯した本当の過ちは、日本が戦争を起こしたことそれ自体なのです。

このように、新型コロナウイルス感染症の防圧と戦争は、本質的に異なるものです。しかるに、その本質的な違いを看過して「コロナ禍」を戦争になぞらえることは、人殺しに他ならない戦争に対する抵抗感を失わせることにつながりかねません。それを考えると、やはり「コロナ禍」を戦争になぞらえて語るのはやめるべきです。