葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「マイノリティは権利を認めてほしければ、多くの人の共感を得られるよう努力すべきだ」と言うマジョリティの傲慢さ

日本では、差別に抗議するマイノリティに対して「マイノリティは権利を認めてほしければ、多くの人の共感を得られるよう努力すべきだ」と言うマジョリティが少なからずいます。「マイノリティは権利を認めてほしければ、多くの人の共感を得られるよう努力すべきだ」という言説は、おそらく日本社会のマジョリティにとって強く共感できるものなのでしょう。しかし、それは私にとって、到底共感できないものです。

いったい、いつになればマジョリティはマイノリティの切実な訴えに共感するのでしょうか。「マイノリティは権利を認めてほしければ、多くの人の共感を得られるよう努力すべきだ」と言うようなマジョリティは、どうせマイノリティがどれだけ誠実に訴えたところで、あれやこれやと難癖をつけて共感することを拒むでしょう。なぜなら、マジョリティは、自分が当たり前のように持っている権利をマイノリティが持っていないことで、「自分は価値ある特別な人間である」ということを確認することができるからです。しかし、マジョリティは、本当にマイノリティとは違って「価値ある特別な人間」なのでしょうか。すなわち、マジョリティが当たり前のように持っている権利は、本当にマジョリティしか持つことができない特別なものなのでしょうか。

マイノリティが希求している権利、すなわちマジョリティが当たり前のように持っているそれは、単なる権利ではなく、人間がただ人間であることにのみに基づいて当然に持っている権利である「人権」です。つまり、マジョリティが当たり前のように持っている権利は、決してマジョリティしか持つことができない特別なものではなく、本来はマイノリティも当然に持っているものなのです。しかるに、どうしてマイノリティが人間として当然に持っているはずの権利を主張するために、マジョリティのご機嫌をうかがわなければならないのでしょうか。人権は、人間がただ人間であることにのみに基づいて当然に持っている権利なのですから、それは決してマジョリティのご機嫌しだいで認められるようなものでありません。

人権が、誰かから与えられるようなものではなく、人間がただ人間であることにのみに基づいて当然に持っている権利であることに鑑みると、マイノリティは努力によってマジョリティが当たり前のように持っている権利を獲得すべきだと考えるのがそもそも間違いです。マイノリティは、マジョリティが当たり前のように持っている権利を初めから持っていないのではなく、マジョリティが構築し温存している差別構造によってマイノリティが人間として当然に持っているはずの権利を奪われているのです。

差別に抗議するマイノリティに対して「マイノリティは権利を認めてほしければ、多くの人の共感を得られるよう努力すべきだ」と言うマジョリティは、きっとマイノリティの人権をマジョリティから「ご褒美」として与えられるものだと思っているのでしょう。しかし、それは傲慢な勘違いです。マジョリティは、マイノリティに権利を与えるどころか(もっとも、先にも述べたように、そもそも人権は誰かから与えられるようなものではなく、人間がただ人間であることにのみに基づいて当然に持っている権利ですが)、むしろ差別構造を構築し温存することでマイノリティが人間として当然に持っているはずの権利を奪っています。それゆえ、差別をなくすために努力すべきなのは、ほかならぬマジョリティです。つまり、マジョリティは、自分たちが構築し温存している、マイノリティが人間として当然に持っているはずの権利を奪っている差別構造を自分たちの手でこわしていくべきなのです。マイノリティがそれをマジョリティに求めることは、決して「甘え」ではなく、むしろマジョリティがマイノリティによる当然の希求を「マイノリティの甘えだ」と言ってマイノリティに責任転嫁することこそが、「特権」の上に胡座をかくマジョリティの「甘え」であると、私は日本社会のマジョリティの一人として思います。