葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

どこまでも日本人を被害者にする、戦後日本の「平和教育」を問い直す。

(教育考差点)平和のバトン、子どもにどう渡す:朝日新聞デジタル

 

拙ブログでもこれまでたびたび触れてきましたが、戦後日本の「平和教育」は、日本の戦争被害を重視し、日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害を軽視してきました。そして、それは「戦後平和主義」の最も大きな問題であると、私は思います。したがって、日本の戦争被害を重視し、日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害を軽視してきた戦後日本の「平和教育」を問い直すことは、私も大いに賛成です。

平和教育」における日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害の取り上げ方に関して、東京女子大学准教授の竹内久顕先生は、「戦争の加害行為は、一人の人間が命令に背けなかったという被害者的な側面まで学べば、重層的な理解につながる。」とおっしゃいます。たしかに、「日本人の被害者的な側面」を経由することで日本の戦争加害に対して日本人が抱く抵抗感を和らげることができるでしょう。しかし、「一人の人間が命令に背けなかったという被害者的な側面まで学べば、重層的な理解につながる」ということについては、私はいささか意見を異にします。

竹内久顕先生は、「新しい形の平和学習」の一つとして、元日本兵の苦悩を告白する映像を通し、フィリピンの人と和解に取り組むNPOの「優れた試み」を挙げておられます。もちろん、それを無下に否定するつもりはありません。しかし、それはつまるところ、どこまでも日本人が「悲劇の主人公」であり、日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者は、「悲劇の主人公」の語りを通してしか現れることができない「脇役」でしかないということです。はたして、それで本当に「重層的な理解」ができるのでしょうか。そのような、どこまでも日本人を被害者にする「平和教育」では、「一人の人間が命令に背けなかったという被害者的な側面」は戦争の加害行為の重層的な理解につながるどころか、むしろ「国家の命令に背けなかった元日本兵もまた『被害者』なのだし、命令に背くことができず戦争の加害行為に加担したことで罪悪感に苦悩している。だから、被害者はもう『寛容の精神』で元日本兵を赦してあげたらどうだろう」という、「和解の暴力」につながりかねません。

日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者は、「悲劇の主人公」である日本人の語りを通してしか現れることができない、これはまさに今も継続する植民地主義です。つまり、「元日本兵の苦悩の告白」には耳を傾けても、日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者たちの悲痛の訴えには耳を傾けようとしない戦後日本の「平和教育」は、今も継続する植民地主義から自由ではないということです。「ひろしまタイムライン」が犯した過ち*1などは、まさにこのような戦後日本の「平和教育」の「産物」だといえます。

いま日本の「平和教育」に最も必要なのは、何よりもまず日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者の声に耳を傾けること、そして、日本が犯した侵略戦争や植民地支配の加害を記憶する「場」を設けることです。日本(日本人)の戦争被害の記憶は、これまで語り部やメディアを通じて数多く伝えられてきましたし、日本(日本人)の戦争被害を記憶する「場」も、日本全国に数多く存在しています。それに比べて、日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害を記憶する機会や場は、ほぼ皆無に等しいといっても過言ではありません。これでは、多くの日本人が日本の加害に無頓着であるのも当然の結果でしょう。

日本人が日本の加害と直に向き合うことは、たしかに初めは「拒絶反応」を引き起こすかもしれません。しかし、その「拒絶反応」を克服することこそが、まさに日本人が植民地主義を克服することなのです。