葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

謝罪は「終わり」ではなく「始まり」である。

日本では、謝罪を「過去を水に流す」ためのものだと思っている人が少なくないようです。そして、そういう人たちはしばしば、加害者の謝罪を受け入れない被害者を不寛容だと責めます。まるで、被害者が「加害者」で、加害者が「被害者」であるかのように……。

謝罪は、決して「過去を水に流す」ためのものではありません。謝罪は、ただ被害者に赦しを乞うだけでなく、再び同じ過ちを犯さないことを約束するものです。それゆえ、過去の過ちを忘却するのではなく、記憶し反省することが肝要です。

被害者が加害者の謝罪を受け入れなかったとしても、それは被害者が不寛容だからではありません。たとえ加害者が謝罪の言葉を口にしたとしても、それと矛盾した言動や態度をとるのであれば、被害者が謝罪を受け入れないのは至極当然のことです。謝罪は、謝罪の言葉を口にすればそれで終わりというものではありません。先に述べたとおり、謝罪は、再び同じ過ちを犯さないことを約束するものです。それゆえ、本当に大事なのは、謝罪の言葉を口にした後の加害者の態度です。つまり、謝罪は「終わり」ではなく「始まり」なのです。

謝罪の言葉を口にすればそれで終わりだと勘違いしている人たちは、謝罪の言葉と矛盾する加害者の言動や態度を被害者が批判することについて、しばしばこれを「済んだ話を蒸し返すものだ」と言って被害者を責めます。しかし、加害者が謝罪の言葉と矛盾した言動や態度をとっておきながら、それを批判する被害者を責めるというのは、まさに盗人猛々しいと言わざるを得ません。いつまでも「済んだ話」にならないのは、被害者が「蒸し返す」からではなく、加害者が謝罪の言葉と矛盾した言動や態度をとるからなのです。

加害者が心からの謝罪をし、自らの過ちと真摯に向き合い続ければ、もしかすると被害者から「過ぎたことは水に流そう」と言われる日が来るかもしれません。しかし、加害者は被害者のその言葉に甘えてはいけません。ましてや、加害者から被害者に対して「過去を水に流す」ことを要求するのは言語道断です。加害者が再び同じ過ちを犯さないためには、たとえ被害者の赦しを得たとしても、「過去を水に流す」のではなく、過去の過ちを記憶し、過ちと真摯に向き合い続けることが大切です。そして、それはなんら恥ずべきことではないのです。むしろ、過去を都合よく忘れ、再び同じ過ちを犯すことのほうが、よほど恥ずべきことです。